第16話 不知顔(しらぬがお)

 今の仕事に就いたとき、もう、脚本を書くことはないだろうと思った。その過去と、まっさらな画面に向かう今がある。けれど、それらを繋ぐものは無い。雪に残った足跡のように、今へと続いた記憶の一列、後ろを振り向けば、過去は確かに、そこにある筈だった。いつの間にかき消えてしまったのだろうか、私の立つ周りには何も無い。

 私の執筆するスタイルは、まずは適当なノートに手書きで描きたいテーマ、シーンをざっと書いていく。運良くタイトルが思いついているときは、その過程を飛ばして真っ先にパソコンに向かう。タイトルが頭にあるということは、既に脚本を書くためのフラグメンツは揃っている、ということらしい。

 このスタイルは私の神から口伝で教わった。私の神は、人知れず、私が密かに恋をした男だった。札幌にある国立大学、演劇サークルに所属、年上で、彼は私よりも上手に脚本を書いたが、結局プロとしてデビューすることなく、一般企業に就職して、いつの間にか死んでいた。死んでいたのだ。彼の訃報はSNSで報されて、まさか、そんな馬鹿なと混乱する私を置いて、親しかった彼の知り合いは次々に悲しみを表明する。……それが彼らの本心からの言葉だということは分かっていた。分かるのに、腹立ち、何も言えない。何も考えられなかった。

 今、「不知顔しらぬがお」というタイトルだけが、縦書きで書き込まれた。なのに、ちっとも筆が動かない。書ける筈なのに、書けない。書くべきもの、それは自分の過去にあったはずなのに、いつの間にか私は見失っていたのだった。何故書けない、書くべきだ、誰かに言われたわけでもないのに、感じる外圧。家に帰って、酒を飲みながら「不知顔」文字を虚しく見つめる。ノートには、手書きで単語が、断片的に書き込まれている。ただ繋がり合わない。マネキンの片足、インクを付けて、辺り構わず辛いスタンプしたように。物語が思いつかないと、自分の中に何も語るべきものが無いような気がしてくる。じっと画面を眺めていると、猛烈に頭が痒くなってきて、掻きむしるのだけれど、その痒みが頭の内側から発生しているものであると気が付く。雪の上を走りたい衝動、汗に張り付く降る雪、無我夢中で、裸で、体全体に雪の冷たさを感じたい。そして、いつの間にか眠っていたい。私は雪になりたい、暖かい砂、それに呑まれることと同じくらい。

 結局、「不知顔」と銘打った文書ファイルは一週間後に消してしまった。雪も降らず、青ざめた夜だった。カーテンの隙間から外を覗けば、冷めた月明かりが雪に散る。暗い所に映る自分の顔、目の隈、少し老けた気がした。

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