家に帰ってすぐユキマサの昼食を作り、食べさせる。ニラ玉をふたりでつつきながら、ユキマサはハヤテの週末の予定を尋ねた。


「ああ、私、テスト勉強で今日と明日はオースティンの家に泊まるから。飯は適当に食ってくれ」

「テスト勉強? おまえが?」


 ユキマサは怪訝な顔でハヤテの発言を反芻する。


「そうだ。あ、お前、日曜は暇だよな」

「暇だけど……」

「じゃあ日曜の昼、迎えに来てくれ。なんかオースティンの親がいいものを食わせてくれるらしい」

「面の皮が厚いな。まあ楽しみにしておくよ」


 ユキマサはどこか浮かれている。パーティへ行く途中で見せた困惑が嘘のようだ。


「えー……お前、パーティのときの態度はなんだったんだ」

「ビジネススイッチが入ってたからな。仕事の話が介入しなさそうな話だけすればいいんだ。オースティン邸の所在地は把握しているから問題ない」


 この口下手な男に話を上手くコントロールするなんてできるのだろうか。すこし心配になったが、もしそうなっても自分が助け舟を出せばいい。


 ハヤテはニラ玉を食べ終えると、皿を洗い、泊まりに行く準備を始める。


 部屋に入ってまず手に取ったのは、黒のシャツワンピース。ハイウェストのフレアスカート側面にはチェック柄が入っており、ハヤテが一目惚れして買わせた一品だ。


 着てみると、今の時期に着るには薄手だということに気づく。ハヤテはもう二枚、タンスから取り出して、部屋から出る。


「ユキマサ、どっちがいいと思う?」


 取り出した二枚の服をワンピースの前に当ててみせる。片方はカーキのブルゾン、片方は白いニットベストだ。


「……右」

「右? じゃあこれにする。ちなみに何で?」

「おまえは右手に持ったものを採用することが多いから」


 ハヤテはユキマサの脇腹に蹴りを入れる。こういう場面に慣れさせすぎると、彼はいつも嫌な適応の仕方をする。


 ため息をつきながら、ハヤテは右側のブルゾンを羽織る。ハヤテが翌日の服を選ぼうと部屋へ入ると、ユキマサがそれを制止した。


「おまえ、勉強するんだろ? 勉強道具は?」

「後で準備する」

「今! 用意しなさい! おまえ服と下着だけ用意して楽しくなってそのまま行くだろ!」


 何か言い返してやろうと構えていたが、図星だったので何も言えなかった。ハヤテは大人しくユキマサの目の前で勉強道具の準備をする。


 ハヤテは部屋の隅から教科書の山をそのまま持ってきて、居間に置いた。


「まずこれ。現代文の教科書」

「おまえの教科書めちゃめちゃ綺麗だな」


 それもそうだ、とハヤテは微笑む。


「新品未使用」

「漱石に謝れ。俺は高校時代の教科書全部ボロボロだったぞ」


 ユキマサの高校時代の成績は優秀だった。


 使い込んでたんだな、とハヤテは感心するが、ユキマサは「アスターの罠に引っかかったから」と現実を暴露した。案外アスターは過激だ。


「ちなみにノートは」

「あるわけない」

「おまえに期待した俺が馬鹿だった」


 ユキマサは呆れ顔で捨て台詞を口にすると、立ち上がって階段の方へ歩いた。


「俺は下に行く。いいか、全教科の教科書を入れろよ。でなくばアスターにおまえの点数を言いつける」

「地味に嫌!」


 アスターはいざというとき何をするかわからない。


 絶対に制裁を食らうことより、完全に予測が不可能なことのほうが怖い。テスト柄のハンカチとか作ってきそうで怖い。


 ユキマサはハヤテが嫌がるポイントをよく押えている。口下手だが、その分人間観察は得意。そこの部分がハヤテとは真逆だ。


「よし、じゃあ薄い教科書だけ入れよう」


 いざとなればオースティンが貸してくれると思って、薄い教科書を二三冊入れる。ペンと消しゴムをゴムで束ねた自称・ペンケースと電話の近くにあるメモ帳を入れ、準備は終了した。


 ハヤテは部屋に戻り、再び明日の服を準備した。


 下に降りるとユキマサが荷物を覗こうとしてきた。全部入れたよ、と口先でごまかして、ハヤテはニシナ医療研究所を発つ。


 今日も今日とて空は曇っていて、晴れなのか曇りなのかわからない。街の遠景に何本か屹立きつりつする煙突を恨めしく睨んだ。


 診療所近くの住宅地を抜けると、大通りに出る。ハヤテはそこを右に曲がり、駅を目指す。


 オースティン邸のある十一丁目まで電車に乗って、そこからは徒歩で家へ向かった。高級住宅街の中でもひときわ大きな洋風の豪邸。それがオースティン邸だった。


 大きな門の壁についたベルを鳴らすと、家の中で大きな音がして、玄関からオースティンが飛び出してきた。


「キリガヤさん、いらっしゃいませ!」


 オースティンは黒いタートルネックのシャツに赤いタイトスカートを合わせた、モダンな装いで現れた。彼女の後ろから数人の侍女が現れて、ハヤテの右肩にかけた鞄を持ち去っていく。


「わたしの部屋までご案内します。どうぞ」


 オースティン邸はハヤテの家よりもずっと明るく天井も高い。天井から下がっている照明は何かと尋ねると、シャンデリアですと返ってきた。


「父と母は日暮れごろ帰ります。それまで部屋で勉強しましょう」

「この家の探検は……?」

「やりません。わたし、キリガヤさんと一緒に進級したいので」


 オースティンは強気に告げる。友達云々は上手く言えないくせに、こういうことは素直に言えるらしい。


「わたしの部屋は二階にあります。お足元にお気をつけください」


 侍女たちの後ろについて、ハヤテはオースティンの部屋まで向かう。天蓋てんがい付きのベッドとテーブルとソファが一式、贅沢すぎるほどに広い部屋に置かれている。それがオースティンの部屋だった。


「キリガヤさんの荷物はこちらにお願いします。はい。ありがとうございます」


 侍女たちに指示を出して、ハヤテの荷物をソファの上に置かせる。ハヤテは荷物の隣に座って、肩を竦めながら周りを見渡した。


「キリガヤさん、どの教科が一番苦手ですか?」


 オースティンは席について、開口一番そう尋ねた。正直、歴史以外の教科が自分の常識と乖離かいりしている。三十年弱も触れていないのだから、忘れたり自分の時代にはなかった知識がかなり多い。


 歴史以外全部、と答えると、オースティンは一度気の毒そうな顔を見せた。が、その後すぐに笑みを浮かべた。


「では数学から始めましょうか……」


 そう言ってオースティンは教科書とノートを取りだし、ハヤテに見せる。女の子らしい細く小さな字で沢山のメモと計算が書いてある。


「こちらが公式です。覚えていますか?」

「うーっすら覚えてるけど覚えてない」

「わかりました。じゃあ導出過程からおさらいしましょうか」


 オースティンの解説を聞きながら、ふと疑問に思う。


「なあオースティン」

「はい」

「君、ほかのクラスメイトには敬語使ってないだろ」


 オースティンはノートに落としていた視線をつとハヤテに向けた。


「はい、まあ」

「敬語をやめろ。あと私のことも下の名前で呼べ」

「えっ」


 ハヤテの急な要求に、オースティンは動転する。名字で呼ばれるのは、実はあまり好きではない。


「で、でも、キリガヤさんは恩人なので、そんな」

「私はその恩とやらを知らん。そのせいで距離を置かれるくらいなら、私は無礼に接されたほうが気が楽だ」


 距離を置いているわけでは、とオースティンは口にするが、そのあと口ごもる。しばらく目を泳がせてから、オースティンは口を開いた。


「ハヤテさん、その件については長くなるから、あとでもいいかな……」


 オースティンは上目でハヤテの反応を伺う。ハヤテが満足そうに頷くと、彼女はほっと胸をなで下ろした。


「よろしい。その件とやらも楽しみにしておく」


 文化祭のころから抱えてきたオースティンへの疑念が、今日やっと解ける。そう思うと自然と勉強へのやる気が出た。


「うん……じゃ、次のページを──」


 勉強を教えるオースティンも、どこか楽しそうに見えた。

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