烏合の衆

 朝目を覚まして、真っ先に俺は今の時間を確認した、早朝六時。眠い気持ちも残っている。そんな中、朝練はどうしようか。この時間であれば、今起きればまだそれには間に合うはずだ。


「行ってきます」


 家を出たのは、七時半頃。

 結局、朝練はサボった。結衣が知っている程度に、既にテニス部の中では俺が部活を辞める話が周知されている。そんな中、その退部騒動の翌日からあの輪に戻るのが、少しだけ気まずかった。

 でも、薄々気付いていた。こういうことは、時間が経つほど取返しが付かなくなるって。


 学校に着いて、しばらくはそんな悩み事に頭を抱えていた。

 でも、授業が始まれば意識は勉強へと移り変わっていった。昔から、悩み事が多い人だったから、勉強の時間は嫌いではなかった。勉強中は、勉強のことを考えているだけで済む。そして、学生相手に勉強よりも優先すべきことがあるだろう、と俺を咎める人もいなかった。


 集中している内に、昼休みはやって来た。

 随分と集中して凝り固まった体を伸ばしつつ、俺は昼ご飯のことを考えていた。今はまだ学食にあるパン屋も混んでいるはず。少し時間を置いてから買いに行くのが吉。


 クラスメイトは、友人間で集まって机を囲んでお弁当を食べ始めたり、食堂に向かったりしていた。誰も、俺のことを気に留める人はいない。

 昔から俺は、人に自分の気持ちを伝えることが得意ではなかった。……一部例外も勿論いるが。

 そして、時折誰かと一緒にいるのがとても苦痛になることがある。

 そんな選民思想を持っていたら、腹を割って話せるような友人が気付いたら俺の周りにはいなかった。だから皆、俺のことなど気にも留めずに自分の昼休みを過ごしていた。


 時たま、こうして一人でいる時間が寂しいと思う時間もある。でも今更、必死になって友人を作るのも、なんだか少し気恥ずかしくて、気付けばずるずるとここまで来た。

 だから今日も、この貴重な昼休みに俺に声をかけてくるような人はいないだろう。




 そう思っていた。




 俺の前方の席は主の大前田君が食堂に向かったために空席になっている。彼は、昼休みが終わる間際まで食堂で友人と話しているから、しばらくここは空席になるはずだった。


 しかし、青空を眺めていた視界の端に、人影が一つ。


 最初は、別に気に留めていなかった。多分、左右の平沼さんか大塚さん。どっちかの友人だろうと思っていた。

 異変を覚えたのは、さっきまでうるさかった教室が、途端に静かになったことに気付いた時だった。


 ゆっくりと、周囲を窺った。

 皆の視線が俺の方に集まっていて、思わずうわっと小さく声を上げてのけ反った。


「ねえ」


 そして、前方の席から聞こえる聞き覚えのある声。


 そこにいたのは、まるで俺を咎めるように目を細める、あの変態。


「なんで朝練サボったのよ」


 目が合うなり、奴は言った。

 

 一瞬思考が停止した。


「低血圧なんだ。朝が辛い」


 気を取り戻して、俺は言った。


「そんなか弱い女の子みたいなこと言って。女々しいのは性格だけにしろっての」


「俺は別に女々しくなんてない」


「どこがよ」


 呆れたように、結衣は肩を竦めていた。


「……で、なんでいるんだよ」


 まあ、はっきりしない性格含めて、俺が女々しいって話には正直賛同だ。だからこの話題をさっさと変えたくて、俺はそんなことを宣った。


 結衣は一瞬苛立った顔をした。そして、口を開こうとした。


「……ねえ」


 しかし、そんな俺達の間に割って入る人……いや、人達がいた。


 二人して、俺達は烏合の衆の方を見た。


「橘さん、ウチのクラスに何か用?」


 まるで浮き輪のようにプカプカと浮足だった声で、一人の男子が結衣に尋ねた。


 ……そう言えば。

 結衣は、この学校でもトップクラスな容姿を持っており、聞けば時代錯誤なファンクラブまであるようなこの学校の著名人なのだそうだ。


 そんな神格化する相手が自分のクラスに来て、男達は舞い上がっているようだ。

 だから、まるで死骸に集るハエのようにワラワラとやって来た。


「ちょっと、彼に用があるんだ」


 結衣は、外面は良い子だった。……中身は残念なくらいな変態だが。そんな奴の苦笑気味な微笑み、いつもよりワントーン高いトーンに、男達は喜んだ。女神がこっちを向いて話したぞ、と。


「荷物持ちでしょうか?」


 男の一人が結衣に尋ねた。


「教科書を忘れたとか?」


「それとも、愚痴を聞いて欲しいとか?」


 多分、俺から奪えることなら奪って、点数稼ぎをしようって魂胆だろう。結衣が何しにここに来たかは知らないが……そこまでがっつくと、むしろ逆効果な気がするんだけど。


 結衣は、困った笑みを浮かべ続けていた。

 なんと彼らを引かせようか。それを考えているように見えた。


 手っ取り早いのは、クンカーであることを教えることだと思うけど、と考えながら、俺は頬杖をついて行く末を見守っていた。


「くぅあぁ……」


 嘘。あくびを出す程度には、どうでも良かった。

 そんな呑気な俺に結衣は、横目で睨んできていた。


 ただすぐ、何か妙案が浮かんだように意地悪い笑みを見せた。




「ごめん。一緒にお昼食べようって約束してるんだ」




「え、そうなの?」


 そう言ったのは、烏合の衆ではなく、俺だった。烏合の衆は……まるで親の仇のように、俺を睨んできていた。


「ちょっと奥村君? それは一体どういうことだい?」


 烏合の衆の一人が言った。


「どうもこうも、俺も何がなんやら……」


「何言ってるのよう」


 媚びるように、結衣が続けた。


「昨日、これからは毎日一緒にお昼食べようって話したじゃん。あたしの手作りお弁当で」


 え……。


 ……あ。


「ああ、あったな。そんなこと」


 ……あ、やっべ。

 思わず、口に出しちゃった。


 今にも飛びかかってきそうな烏合の衆。

 見れば、一人は握りこぶしを震わせ、一人はジーザスと神に助けを求めて、他多数は阿鼻叫喚の地獄絵図だった。


 おぞましい。

 宗教の教祖が死んだって、ここまでおぞましい光景は恐らくお目にかかれない。こいつら、たかだか女子高生の結衣に対して、どれほどの信仰心を持っていたんだ。


「そうだよ。ようやく思い出した?」


 結衣は、笑顔を崩していなかった。底意地の悪い笑顔を、崩していなかったのだ。


「昨日話したじゃない。夜。あたしの家で。あなたが押しかけてきて」


「おいおい、なんでそんな誤解されそうな言い方をするんだい?」


 それだとまるで、俺が犯罪者一歩手前の所業を行い、結衣に昼ご飯を作るように脅迫したように聞こえるじゃないか。日本語って難しいね。


 とりあえず俺は、暴徒と化した烏合の衆から逃げようと思っていた。

 結衣の手を引き、教室を後にすると……背後から、俺の殺害を助長する声が漏れていた。


「なんてことするんだよ」


 走りながら、俺は背後の変態に文句を言った。


「良いじゃない。殺害予告されてるし、訴訟も出来るわ。ビデオに撮っておくね」


「学生の内から法的措置を経験することになるなんて。密度の濃い人生送ってるなあ」


「それで、お昼はどこで食べる?」


「そうだなあ」


 少し考えて、ふと思った。


「部室、とかどう?」


「人いるかもよ?」


「いたら変えれば良いよ」


「……オッケー。わかった」


 結衣の息が荒れていること気付いて、走る速度を俺は緩めた。

 烏合の衆は、殺害予告こそすれ、どうやら俺を追ってくる気は更々ないらしい。イッツジョークってか。アハハ。


「丹精込めて発汗作用高めな料理作ってきたから、たんと召し上がってね」


「……素直にうんと言いたくない」


 微笑む結衣に、俺は様々な思いを込めて深いため息を吐いた。

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