幕間|副所長

 陽もとうに沈んだ頃、梅辻夫妻は看護婦教育所を後にした。入念に引き継ぎをしたが、馬車に乗っても次から次へと細かいことを思い出していく。切りがないとわかっていても、自他共に認める心配性の静江は気がかりで仕方がない。

 食事と風呂を済ませて、明日の準備をする。荷は支給された鞄に収まるだけだと決められていた。服や肌着、靴下、手拭い、薄手の掛け布と緊急時用の包帯を詰めれば、いっぱいになる。薬や手術道具は別に運ぶので、そこに衛生品を詰め物として入れようと決めた。

 小一時間程、格闘した静江は諦めて一人掛けのソファに沈んだ。

 明日から着る看護服は白でもなく、式典用の紺でもなく、鉄色だ。机に折りたたまれたそれに、白と赤の腕章と、認識票がのる。

 静江は美冬も身につけるようになるそれを軽く睨んで、ため息をついた。

 看護婦として認められるものは、国の指定した学校を三年履修する必要がある。

 三年も待てないから、美冬は静枝を頼ってきたのだ。もって一年と見た静江はかわいい姪に条件を出した。

 一年で知識と実力をつけろと。

 名目は女子大学から、三年生に編入という形を取った。手紙の指示を実行しただけで、所長である夫や静江の力ではそんなことはできない。同じ分野の教育所ならともかく、女子大学で学ぶことは二年分の履修に及ばないからだ。

 もとより、最初からおかしかったのだ。『看護婦を戦地に派遣する』なんて情報は出回っていない。まだ内密の話で卒業生の名簿もめくっていない状態だった。まさか姪の口から一番に聞くことになるとは、静江も思わなかったが、予想しなかったわけではない。彼女につけられた護衛のことを考えれば合点がつく。

 佐久田匠は陸軍諜報部に属している。正確な役職は伏せられていたが、暗躍していることは確実だ。突然死した伯爵の舞踏会にも、夜逃げした商家でも鳶色の髪を静江は見た。岩蕗卿のことだから、美冬が危ない目にあうことはないだろうが、どうも抜けている所があるから心配だ。

 情けない笑みを被り、裏で何をしているのかわからない男、それが佐久田匠だ。


「美冬はどうして、変なものに好かれるのかしら」


 ため息混じりの静江の声に返事はない。

 自分に負けることは、『自分が正しいと思うことを曲げること』と古い記憶を持ち出されて、もうすぐ一年だ。

 桜が散り行く前に出立できることを喜ぶべきか、悲しむべきか微妙な所だ。純粋に姪の成長は嬉しいが、目指すところは戦地。危険なことは言うまでもない。かの地はまだ雪深く、冬の時期が続いていると聞く。

 美冬の危なっかしさが収まったのは雪が降るよりも前だったと思う。青白い顔と追い詰められた瞳をしたので休ませた日を境に生まれ変わったのではないかと静江は感じた。

 その付近であの異能狂いも姿をくらませたというのだから、何かあったと見ているが、真相はわからない。公爵家の令嬢も同時に消えたことから根も葉もない噂が飛び交い、戦時中だというのに一本の浪漫譚に書き上げられたのだから世も末だと静江は頭が痛くなったものだ。

 そんな世情に、ちっとも興味もない様子で、美冬は異能の力を上げた。使い方を履き違えていたのでは思うぐらいに、目に見えて成果を出す。氷を出すことに必死だった姿が、氷を何のために作り出すのか思い描けるようになったみたいだ。

 看護の知識と実技も誰もが認める力をつけた。もともと女学校で首席になるような頭だ。それに度胸と根性が合わされば、恐いものはない。学年末の試験では、夫も部下にほしいと感嘆する歴代最高の成績を残した。

 美冬を思い、彼女の母のことを思い出した静江は桐たんすから、小箱を取り出した。蓋を開け、ランプの下であたたかく染まったブローチを眺める。五十銭銀貨と同じような大きさの七宝焼きだ。珊瑚色の小さな世界に、白い梅が三つ咲きこぼれている。


「あなたも一緒に行きましょう」


 話しかけるようにそっと呟いた静江は親友の形見を手荷物の中に滑り込ませた。

 戦争の雲行きは怪しくなっている。夫は軍医として駆り出されることが決まり、静江も看護婦長としてついていくことにした。家をあけることになるが、最愛の夫を一人で行かせるほど、静江もできた人間ではない。夫や美冬が倒れたときに駆けつけるのは自分しかいないと使命感に燃えている。

 子供がいなくてちょうどよかったと思う日が来るなんて思いもしなかった。何より、自分より若い子達を戦地へ送るのはもうたくさんだ。

 夫に呼ばれた静江はもう一度だけ部屋を見渡した。嫁いできて二十年近く世話になってきた一室は、ランプに照らされて輪郭を保っている。生家の持たせてくれた一級品の家具や梅辻家に伝わる調度品ともしばしの別れだ。

 静江はもう一度もまみえることを祈ってから、光を消した。



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