参   見舞い

「ぜったい、嫌よ!」


 また美冬の我が儘が始まった。

 大きな金切り声に屋敷中の誰もが感づく。目の前の応酬を眺める秋人もその一人だ。


「父様! 約束したじゃないっ。母様かあさまの誕生日に一緒にお見舞いに行こうって」

「すまん、美冬。退きならない案件が起きたんだ」


 厳しい表情で父は娘に謝った。日頃、娘の言い分は何でも許してしまう男ではあるが、仕事の領分はわきまえている。

 ここで素直に引かないのが自分に正直な美冬で、歳が二桁も変わらない。


「退っ引きならない案件ってなによ! 私の約束の方が大事でしょう」

「美冬、父様の仕事は何だ?」


 腕を組んだ父が癇癪を起こす美冬の目を真っ直ぐに見て訊いた。

 美冬は無言をつらぬきたかったが、父の迫力に逆らうことができない。言いにくそうに小さな声で答える。


「お国を守ること」

「そうだ。国に何かあれば、お前達が暮らせなくなる。父様はそれが一等恐い」


 父の言葉に美冬は顔を歪めた。俯いて言葉を探すが、返す言葉がない。

 父は腰をかがめ美冬の頭を撫でる。


「母様、さみしそうな顔をされるんだもの」


 こぼれた言葉はひどく聞きづらいものであったが、父の心を打つには十分だ。軍で『氷塊ひょうかい鬼人きじん』と恐れられている男ではあるが、かわいい娘にはめっぽう弱い。美冬のつむじを見下ろしながら、できるだけ優しい声音になるように努める。


「私から母様への贈り物がある。本当は私が渡したかったのだが、あいにくの仕事だ」


 そこでと父は言葉を切り、にっと笑った。続く言葉は美冬も思ってもみなかった頼まれ事だ。


「父様の贈り物を美冬が届けてくれないか?」


 いっぱいまで見開いた美冬は数拍置いて力強く頷く。

 目尻を下げた父は懐から封筒と財布を出した。美冬に封筒を渡し、秋人には十円札を持たせ、じゃあなと足早に去っていく。

 大金を手にして途方にくれる秋人をよそに、美冬は封筒を鞄につめた。


「秋人、行くわよ」


 気合いが入る美冬を座った目が見返した。


「……本当に行かれるのですか?」

「あたり前よ」

「……どうやって行くつもりですか?」


 秋人の指摘に美冬は口をへの字に結んだ。

 平時なら父の運転する車に美冬と秋人は乗せられ療養所に向かう。しかし、その父は車と共に出ていった。

 母のいる療養所まで距離があり、歩いていくのは無理な話だ。


「人力車があるわ」

「……俥夫しゃふがたおれませんか」


 噛みつくように言う美冬の意見に、秋人は首を縦に振らない。

 父の役に立ちたい美冬は諦めずに食ってかかる。


「乗合馬車で行けるわ」

「……何回、乗り換えればいいのでしょうか」

「知り合いに馬車を頼むわ」

「……急に言って貸していただけますか」


 何度か押し問答をして音を上げたのは美冬だ。


「秋人、意地が悪いわよ」


 意地が悪いと言われても美冬の無事が第一だ。秋人は箱入り娘に任せてはいけないと力のないため息をついた。

 結局、二人は執事に訊いた。屋敷から駅まで人力車で行き、汽車に乗り換え三駅先に進む。二十分ほど歩けばつくはずだと教えてもらった。執事は当然のように付き添いを見繕うと申し出る。

 その申し出を突っぱねたのは美冬だ。


「私にだって、お使いぐらいできるわ」


 美冬の挑むような目に執事は眉を下げた。こうと決めたら曲げないのが、長年仕える主の娘だ。私の言うことが聞けないの、と追い討ちをかける美冬に少々曲がっている背をのけ反らせる。仕様がないと眉と同じだけ肩も下げた。

 意気揚々と玄関に向かう美冬を追いかけようとした秋人は執事に止められる。掌に黒水晶の守石まもりいしを握らされた。


「大丈夫だとは思いますが念のため持っていきなさい」


 特別、疑問に思わなかった秋人はズボンのポケットに守石を入れ、一礼した。抜け目のない執事のことだから、きっと必要なもののはずだ。

 執事に見送られながら、二人は屋敷を飛び出した。


⊹ ❅ ⊹


 美冬と秋人は駅員に切符の買い方を教わり、汽車に乗り込んだ。

 空いた席に座ろうとしていた秋人が急に立ち止まった。

 ぶつかりそうになった美冬は不機嫌丸出しの顔でどうかしたかと訊ねる。


「あの人、さっきも見たと思いまして」


 秋人からこぼれた言葉に美冬は目だけで示された先を見る。

 自分達より五つは上に見える青年が汽車の外で何かを探していた。黒の詰襟に目深にかぶった学生帽から明るい髪色がのぞく。二人には覚えのない青年だ。


「気のせいじゃない?」


 一言で蹴った美冬は秋人を追い越し、車窓を開けた。

 一定の調子を保ちながら吹き出る蒸気が車内を振動させている。何処かから木蓮の香りが流れ込んだ。

 人目のある場所でさらわれることもないだろうと考え直した秋人も向かいの席に座った。


「早く夏休みになればいいのに」

「行儀が悪いですよ」


 肘掛けに肘をつき、手の甲に顎をのせてぼやく美冬に秋人はすかさず注意する。美冬の奔放さは秋人が腰を落ち着かせる暇もない。

 頬を膨らませた美冬は、はいはい、と背もたれに体をあずける。


「夏休みになったら母様の所へ毎日行くわ」

「習い事や宿題でそれどころではありませんよ」

「母様の方が大事だからいいのよ」


 秋人が何を言ってもすぐに屁理屈を返される。

 そんなわけにはいかないだろうと思いつつも、諦めている秋人は車窓に視線を移した。

 澄んだ空の中、わた雲がゆっくりと流れていく。

 秋人の時間は雲のようにのどかに過ぎることがない。いつだって美冬が想いも寄らないところに飛び込んでいくし、そのたびに秋人を必ず呼びつける。秋人は彼女のことを放っておけない自分がいることを、とうの昔に気が付いていた。自分が彼女のものだと言われた時、必要だと言われた気がしたのだろう。今も必要なのか甚だ疑問だが、呼ぶということはいるのだろうと判断している。

 人は線路を走る汽車のように動かない。奔放に行き先を変え、我を押し通す美冬を諭せる人は限られる。いつか、気まぐれな彼女に捨てられるのだろうかと秋人はもやのような疑問を抱いていた。

 汽笛と共に車両が動き出す。

 窓から身を乗り出しそうな美冬を見張るのは秋人の勤めだ。浮き足立つ美冬は風に遊ばれる長い髪を押さえ、遠くまで延びる線路の先を見つめている。

 席の後ろから気さくな声が聞こえた。席を譲ってもらった老婆が礼を言っている様子は平穏を切り取ったような情景だ。

 穏やかな日常を秋人は思い描いてみた。簡単に思い付かないのは秋人のせいか、周りのせいか。答えが出ない。

 咳き込む音に秋人が視線を戻せば、美冬が汽車の煙にむせている。

 秋人は嘆息を飲み込んで、窓を閉めてやった。


⊹ ❅ ⊹


 二人は拍子抜けする程に何事もなく療養所にたどり着いた。受付で怪訝そうに見られたのは子供二人だけだからだろう。


「ご家族の方は?」

「お使いに親は必要ないわ」


 美冬のませた物言いに受付は軽く目を見張った後、声を出して笑っていた。

 受付の紙に二人の名前を書き込み、母の居室に向かう。

 最初は慎ましく歩を進めていた美冬も母の姿を見れば行儀なんて言葉は意味をなさない。


「母様!」

「まぁ、元気なこと。いらっしゃい」


 病床に座っていた母は笑みをこぼしながら、娘の抱擁を迎え入れた。戸を閉める秋人にも、ご苦労様と微笑みかける。


「美冬、父様は?」


 未だに腹に顔を押し付ける娘に母は問いかけた。

 抱きついたまま顔を上げた美冬は覗きこむ形で口を尖らす。


「こんな大事な日に仕事よ!」

「そう」


 母が声色を低くしたのを美冬は敏感に感じ取った。いつもとは違う不穏な空気に首を傾げる。


「母様、怒ってる?」

「大丈夫。美冬には怒っていないわ」


 笑顔が戻ってきて安心した美冬は体を離す。鞄に潜ませた本を取り出し、得意気に母に見せた。


「母様、誕生日おめでとう!」


 祝いの言葉と共に渡したのは、母が以前、好きだと言っていた作者の新作だ。

 美冬から受け取った本を膝にのせた母はありがとう、と娘の頬を撫でた。

 美冬はくすぐったそうに笑う。

 母と子の仲睦まじいやり取りに、秋人は水に一滴ずつ墨が落ちるような違和感を覚えた。溶け消えるが確実に溜まっていく。なぜ違和感を抱くのか、感情に疎いのでわかりようがない。一番最初に思い付いた、羨望とは確かに違うことだけはわかった。答えを探すように二人を見つめる。

 娘の期待に満ちた目はまだ輝いていた。

 母は不思議そうに本を見下ろす。少しだけ頭を覗かせた栞を見つけ、美冬に視線を寄越した。

 問いかける母の瞳に開けてとうながす娘の破顔が写る。

 宝箱を開けるようにめくった母は、四方に広がる葉に出迎えかえられた。花のような葉に、白詰草シロツメクサねと呟く。

 大きく頷いた美冬は栞を見ながら続ける。


「学校で幸運のお守りと聞いたの。素敵でしょう?」


 上機嫌の美冬に、とても嬉しいわと返した母は部屋の角で存在を消していた秋人にも笑いかけた。

 何もかもお見通しのような目を向けられ、秋人は逃れるように小さく礼をする。

 栞にされた四つ葉は秋人と美冬が探しだした。学校の裏庭に群生する白詰草をかき分け、朝から日暮れまで探してやっと見つけた物だ。それは土に汚れた横顔に秋人が明日にしようと言いかけた時の物だった。

 諦めかけた自分を申し訳なく思い、秋人は視線を落としたまま親子の邪魔にならないように徹する。

 思い出したように鞄から封筒を出した美冬は父からの贈り物だと告げた。

 封筒を受け取った母はまぁ、と小さな声を上げる。


「ねぇ、何が入っているの?」


 開けて見せて、と美冬がねだる。

 母は糊付けもされていない封筒を壊れ物を扱うようにそっと開けた。取り出した中身は観劇の券だ。

 美冬が覗きこんで読み上げた演目に秋人は覚えがあった。自分達が生まれるよりも前に上演された名作。万を期しての再公演だと女中達が噂をしていた。

 母は喜ばず、困ったように眉を下げる。


「母様、何か書いてあるわ」


 母の様子に気付かない美冬は券の端を指す。

 娘の指に導かれ、母はやっと気が付いた。期限の日にちに横線が引かれ、その上に『無期限』と書き込まれている。


「覚えていたのね」


 父の贈り物を見て母は笑みをこぼした。

 あまりにも優しい笑顔に美冬はつい確かめたくなる。


「母様、泣いているの?」


 高熱を出しても、全身が痛くとも凪いだ瞳で笑う母だ。その母にできた濡れた一筋は慈愛に満ちた笑顔と相まって幻に見える。

 母は娘の言葉に首を振り、とっても嬉しいのと小さな体を抱きしめた。




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