逃れることの出来ない運命。あるいはその証明

鍋谷葵

遺書

『先行く不幸をお許しください。私はこの二十年間苦しみながら生きて来ました。私は何をするにしても、不幸を感じてしまうのです。これはどうしようもない私の性分であります。誰が悪いとか、環境が悪いとかそう言う訳では決してないのです。むしろ、私はお母さんとお父さんには感謝してもしきれないほどの恩があります。私はこれをひしひしと、常日頃から感謝してきました。優秀な弟と異なり、長男なのにもかかわらず出来の悪い精神病みの私を路傍に放り出さず育ててくれ、また生活においても自由を保障してくれたことの温もりを私は胸に抱いています。ですが、どうしてもその温もりと私自身の内面が現実を苦しめてしまうのです。言い訳がましいですが、私にとって現実とは苦痛の塊です。昔も今もずっとそうでした。物心ついた時から他人と比べられ、一つ下の弟がこの世に生を受けた時からは血の繋がった愛おしい関係性を比べられ、私は酷く憔悴し、またその現実に痛みを感じて来ました。試験の点数から始まり、運動神経、背丈、容姿(一般からすれば随分と良くできた容姿ですが)、それら全てを他人と比べられて生きることが酷く辛いのです。そして、この遺書を書いている現在も酷く辛いのです。どうにも私は、弟と異なり精神の負荷に弱いのです。だから精神病みになる上に、生活も乱れるのです。こればかりは、産んでくれたあなた方に死を持って償いきれない罪です。ですから、私が地獄の底であがなってきます。ですので、どうか気を病まないでください。所詮、私一個人の人生が暗渠のように覆い隠されて終わるだけなのですから。けれども、私のこの不幸な勇気をどうか称えて下さい。精神病みが見栄だけで持ち合わせた勇気で、私は自身の魂に終止符を打つのです。今まで人の言われた通り(もっとも、私はその言われたことすら満足に叶えることはできませんでした)生きてきた一人の惨めな男が初めて自己の意志で、物事を成そうとしたのです。それだけは、不出来な息子を褒めて下さい。厚かましといことは分かっています。ですが、なけなしの勇気なのです。それを賭して私は首を括るのです。お母さん、お父さん、どうか理解をしてください。医者の知能、国会議員の活力、優れた容姿を受け継ぐことの出来なかった私に理解を示してください。一生に一度のわがままです。

『そして、私と異なり両親の願いを一身に背負ってくれた愛しい私の弟よ、お前には迷惑ばかりかけたことを謝らせてほしい。突然、書き言葉の調子が変わったと思うが、これは不出来な兄の最後の威厳であるからどうか許して欲しい。私はお前に嫌われたくないのだ。例え、両親に不出来な人間だと見捨てられ、名家の末端を汚されたとして扱われようとも私はお前にだけは嫌われたくないのだ。もちろん、お前が私の亡骸を見て軽蔑し、心の底から私を厭悪するようになったらそうしてくれて構わない。そこまで私はお前の意志を強要させる気は無いのだから。けれど、私としてはお前が私のことを嫌わないことを祈っている。私はお前が好き(もちろんlikeの意味で)なのだ。それはお前は私の周りで、唯一私のことを色眼鏡を掛けずに見てくれた唯一の存在だからだ。私は常にコンプレックスに悩まされてきた。お前と異なり、頭の出来は悪く、運動も出来ず、眼も悪く、身体は痩せ細って、愛想も悪い。けれど、お前はそんな自分とは真逆の私に対して真実の愛(私が勝手に思っていることだ)を持って接してくれた。小さいころは私の後ろをよちよちと幼い足で着いて来て、小学生のころは自分で分かるはずの宿題をわざわざ私の所に持ってきて教えて欲しいとねだってくれた。中学生のころも、同じだった。高校生の時は大学の第一志望(お前が難なく合格した国立の大学の医学部だ)を落ちて、両親の冷たい視線に晒され、心を痛めてた私を優しく励ましてくれた。これらが、どれだけ私にとって生きる励ましとなっていたか、筆舌に尽くしがたいことだ。ただ、私はお前の無邪気さ、私を頼ってくれるお前の愛情を愛しているのだ。もちろん、お前の丸い瞳、お前の潤ったふっくらとした唇、健康的に赤らんでシミ一つ無い美しい頬、お前のしなやかな髪、お前の低くも落ち着きのある声、お前が持ち合わせる常に余裕を保っている態度それら全てを愛している。気持ち悪いと思うが、本当に私はお前を愛している。心の底からお前を愛しているのだ。私は女性に愛されたことも、女性を愛したことも一度も無い。それは私の卑屈な愛想と容姿、お前から言わせてみれば努力の欠乏が原因である。しかし、私はこの努力を欠いていて良いと初めて思う。私はそこにつぎ込むはずであった愛をお前につぎ込むことが出来たのだから。けれど、私はお前に対して無礼な態度ばかり取っていた。そして、きっとお前はそのせいで私がお前を何よりも愛していることを気付けなかったはずだ。だが、私は本当にお前を愛していたのだ。ただ、愛すると同時にお前を嫉妬していたのだ。私の持ち合わせないものを全て持ち合わせているお前のことが、羨ましかったのだ。だから私はお前に対して、不躾な態度ばかり取ってしまっていた。私は本当に愛している唯一の人間の前ですら、自分の感情を優先させてしまうのだ。愛に関してすら私はあさましいのだ。でも、けれども、どうか分かって欲しい。兄の無愛想な態度の裏には、お前を愛する真実があったということを。いや、分からなくても良い。どうか、兄がお前を愛していたことを覚えていて欲しい。それが私の願いだ。

『私の亡骸は、およそ見るに堪えないものとなると思います。首を括るということはそう言うことなのですから。そして、誰にも連絡を入れず、ゴミに塗れたアパートの一室で、哀れな虫けらが一匹閉じ込められた虫かごの中で死ぬということはそう言うことなのです。今は春の初めです。私の亡骸の腐敗の進行は、夏程早くないと思います。けれど、私の様子を不審がってくれる誰か機微のある人が見つける頃には私の身体は白くなっているでしょう。ですので、私はここに一枚私の遺影として写真を残しておきます。スマホで撮ったものであまり上等な写真ではありませんが、私の生涯にわたって最も自然な笑みだと思います。どうか、この愛想に満ちた写真を遺影として使ってください。それから、この遺書を初めに読む人にお願いがあります。どうか、私の両親に私の死を伝えるのは一歩遅らせてください。まず、初めに伝えて欲しいのは東京の墨田区に住んでいる私の叔父と私の弟にしてください。叔父には私にとって唯一の趣味と言えるピアノを教えてくれた恩があります。そして、弟に関しては前述したとおりです。ですので、どうか、私の死を両親に伝えるのは一歩待ってください。これは私が両親を嫌っている訳ではありません。私の意地悪です。私の亡骸は、私に生きる意味を与えてくれた人たちに見せたいのです。恩をあだで返すというのは、このことでしょう。分かっています。けれども、私はそうしたいのです。ですから、お願いします。

『遺書にしては長くなりました。もう書くこともありません。ですので、ここで私の言葉を終わらせてもらいます。そして、私のこの遺書は私のゴミに溢れた一室の中で、もっとも整頓されている机の上に載せておきます。遺書の傍らにある聖書は私が神に救いを求めた結果です。残念ながら私は聖書を信じることはできませんでした。ヨブのように最後まで神を信じることはできませんでした。

『エリ・エリ・レマ・サバクタニ(神よ、神よ、どうして私をお見捨てになったのですか?)傲岸不遜を承知で私はこの遺書をこの言葉で綴じさせてもらいます。そして、生涯における最後の言葉としてもまた、これを残させてもらいます。』


 唯一片付いた木机の上で、随分と長い遺書をA4のコピー用紙二枚半に、我ながら達筆な字で書いた僕は、少々の疲労感を覚えた。そして、体を包み込む心地よい疲れに任せて僕はインクの切れかかった百均のボールペンを机の上に転がした。春の日差しが薄暗い部屋を照らして、机上に光の柱を作っている。ボールペンのプラスティックがきらきらと僕の遺書の上で光る。


「……綺麗な光だ」


 数か月ぶりに僕の口は滑らかに動いた。そして、僕の中で眠り続けてきた悩みの種をある程度、吐き出せたことでどこか僕の暗鬱な気は楽になったような気もした。ただ、そんな安堵が長く続かないことを私は良く知っている。僕の病んだ精神は、僕に少々の安堵を与えるとそれ以上の痛みを与えてくる。このことを私は良く知っている。それだから、私はこうして自殺をしようとしているんだ。

 遺書に書いた通り僕はもう生きるのが辛い。僕は生きているだけで、息をしているだけで心が痛むんだ。芥川龍之介を馬鹿にするつもりは無いけれども、僕は漠然とした不安で死ぬわけじゃない。僕は僕自身の辛さから解放されるために自殺をするんだ。そして、もうその準備は整っている。机の上には睡眠導入剤の入った小瓶とペットボトルの水、土壁には僕の首の高さ辺りに合わせて釘で打ちつけた荒くて太い麻縄、玄関の鍵も閉めてある。後は小瓶に入った睡眠薬を飲みほして、あの荒縄に首を掛けるだけだ。それで、僕の汚辱と苦しみに塗れた辛い人生は終える。

 ああ、でもその前に、この遺書に僕名前と指紋を押しておこう。確か、朱肉はこの間買って道具入れに仕舞ったはずだ。ペットボトルだとか、コンビニ弁当のゴミだとか、大学の教材だとか、紙くずに塗れた畳の上は歩きづらい上に、物が潰れる音がする。それに、僕が叩き壊した父親から貰った電子ピアノの白鍵と黒鍵がそこらかしこに散らばっている。僕は静かな空間で死にたい。


「あった……。がらくた塗れだ」


 普段、探し物をしても大抵の物は見つからずに終わるのに、僕が自殺を覚悟した今日という日には見つかる。僕は遺書の中で神を信じないと言ったけれど、もしかしたら神は居るのかも知れない。その神は死神だろうけど。

 この期に及んでどうでも良い冗談は良いんだ。僕が本人が、僕の意志で死を選んだことを証明できる証を残せるんだからそれで十分だ。僕はインク臭い朱肉を弟とはまるで違う痩せ細って、鳥の足みたいに骨ばった手で開けると、右手人差し指に朱肉を付けて、遺書の右下端に力強く押し付ける。最期の生の証明だ。僕は出せる全力でもって指を押しつけた。じわりじわりと圧力が指を昇ってくる。じわりじわりと僕の人差し指が赤らんで行く。ああ、もう少しでこんな生理現象も見れなくなる。悲しくは無い。僕が望んだのは、生きることの否定なんだから。

 指先が痛むまで押し付けた僕の人差し指の指紋は、くっきりと紙の端に写った。滲む朱色の指紋は最後の力強さを表しているみたいだ。これで僕の一生涯の証明は終える。気が楽だ。

 さて、薬を飲もうか。

 睡眠導入剤の入った小瓶を僕は開けて、中に入っている睡眠導入剤を右掌に全部出す。掌が埋まる程度の量だ。これを全部飲むと思うと、喉が勝手にえずく。けれど、僕が安心して地獄に行くには、これだけの量が必要だ。僕は覚悟のために、掌に乗った白い錠剤をギュッと握り締める。そして、ペットボトルのキャップを開けて、口の中に握り締めた錠剤を放り込んで、一挙に数日前の水で飲みほした。常温で放置された水が、美味しいはずが無く口の中には錠剤の不快感と水臭さが残った。

 けれど、僕はこれで楽に行ける。口の中の気持ち悪さもすぐに消え去って、僕は暗い暗い底なしの死に横たわることが出来るんだ。僕は飲み干したペットボトルをゴミに溢れた部屋の中に投げる。


「ああ、よろける。意外と効き目って早いんだ」


 くらくら頭が揺れ始めてきた。視界もぼやけて、薄汚れた土壁が濁流みたいに見える。そして、足は千鳥足になり、思考は薄ら呆けて、死へ誘う安楽の象徴に向かう。それから、荒縄に自分の首を通して、肩まで伸びたぼさぼさの白髪交じりの髪を荒縄の外に出して、緩んだ麻縄をおぼろげな力で締める。喉仏に麻縄の毛が擦れてかゆい……。


「これでようやく……」


 ああ、眠くなってきた……。

 これで僕はようやく楽になれるんだ……。

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