葉桜

多田いづみ

第1話

 信号待ちをしていたとき、おれはズボンのポケットに手を入れた。

 ポケットには落花生が入っている。

 それは子供の頃からの癖だった。いつからそうだったのか覚えていないが、アメ玉やゼリービーンズなんかを、ハムスターの頬ぶくろみたいにズボンのポケットいっぱいに詰め込んで、それを家にいるときも外に出たときも、ほおばりながら過ごした。


 親はまだ子供だからと大目にみていたけれど、いつまでたってもそのままだったから、さすがにこれはおかしいということで、なんとかやめさせようとしたが駄目だった。手遅れだった。おれは子供のくせにそういうところは強情で、一度ついてしまった癖はどうにもならなかったのだ。そのせいで学校に通う年になってからは大変だったが、そのことにはあまりふれたくない。


 とにかく、それからずっとたって、いまポケットに入っているのは殻つきの落花生だ。

 おれはそれを手さぐりでひとつ掴むと、親指の腹で割った。殻はぱちんと弾けて、きれいに二つに割れた。なかの実を口に運んでぽりぽりとかみくだく。

 これは別におかしなことじゃない。ガムをかんだりするのと同じだ。

 それなのに、こうして道ばたで落花生をほおばっているのは、他人には奇妙にみえるらしい。なかには蔑んだような目で見てくるやつもいる。

 そうした不躾な視線はいつもおれをイライラさせた。が、そのイライラを落花生と一緒に飲み込んでなんとかやりすごす。


 言っておくが、殻つきの落花生は服にじかには触れないし、衛生的にもまったく問題ない。おれは潔癖な方ではないからあまり気にしないが、キャラメルやチョコレートなんかは湿気や体温でベトベトしてくるから、それに比べたらずっと清潔だ。

 殻も捨てずに持ち帰るし、たばこみたいにまわりに迷惑をかけるわけでもない。おれが道ばたで落花生をどれだけかじろうが、他人にとやかく言われるすじあいはないのだ。

 それに落花生は健康にもいい。テレビなんかでよく宣伝している健康食品みたいに食物繊維だとか抗酸化成分だとか、体にいいものがたくさん入っている。さらには血圧をさげたり肌をきれいにしたりする効果もある。


 だが一見いいことずくめの落花生にも問題はある。

 それはあっというまに食べ終わってしまうこと。小さくて食べごたえがないからすぐ口が寂しくなる。それでつい、次の落花生へと手がのびる。気がついたときには、目の前に殻が山のようになっている。

 このような悪循環をなくすには解決法はひとつしかない。


〈落花生は続けて食べない〉


 これだけだ。単純だが、そういうことなのだ。

 もちろん、それを実践するための強固な意志も必要だが。

 自慢ではないが、この理論は誰に教わったわけでもなく自分で編みだしたものだ。まあ理論というよりもただの理屈だ。だが、真理だ。

 これのおかげで、おれは落花生をほんのちょっとポケットに入れただけで長いこと外で過ごせるようになったのだ。もし知らなかったら、あっというまに食べ終わってしまい途方に暮れていただろう。

 だからひとつ口に入れたあと、おれはポケットから手を出して落花生のことをきっぱりと忘れた。そこにもうないふりをした。


 ちょうど落花生を食べ終わると信号が青にかわって、道を渡ろうとしたときのことだった。

 路肩に停まっていた白いワゴン車から、ひとりの女が降りてきた。

「あのう、すみません。道を教えていただきたいんですけど――」

 女は涼しげな声でおれにそう呼びかけると、艶のある長い黒髪を耳のうしろにかきあげた。手には使い込んで折り目のついた地図を持っていた。


 何日も降りつづいた雨は朝方には止んで、空はからりと晴れている。が、道ばたにはまだ水たまりがところどころ残っていた。女はそれを避けて、おれの方に歩みよってくる。

 でこぼこの田舎道だったから水たまりの数も相当なもので、女の姿は歩くというよりむしろ踊るようだった。

 そしてその歩き方は、まるで血統書つきの猫みたいに優雅だった。体にぴったりとあったパンツスーツは、たぶん目が飛び出るほど高価なんだろう。

 人形のように整った顔からは白い歯がこぼれて、一見愛想よく見えた。が、その表情はどこか不自然だった。ぎこちない笑顔の裏に、人を見下すような不愉快な感情を隠しているようだった。


 いつもならそうした視線を感じた途端、あわてて逃げ出しているはずなのに、おれはなぜかその場に突っ立ったままだった。というのも、これだけ見栄えがよければすこしくらい高慢になるのはあたりまえだと思ったし、性格にいくらか難があったとしてもおつりがくるほど魅力的な美人だったからだ。

 それにふだんおれにかけられる嫌味や難癖に比べたら、少なくとも悪意は感じられないし、それだけでも許容範囲だ。


「ひゃっ。おれも、あーいや、わたしもこのへんに詳しいってわけじゃないんだが――」

 ただでさえ会話は苦手なのに、それが若い女となるとなおさらだったので、意味もなく緊張して声が裏返った。やたらとのどが渇いて何度もつばを飲み込む。

 予定外のことがおきると、すぐ動揺するのはおれの悪い癖だ。おちつけ、おちつけ。こんなことぐらいであわてていたら変に思われる。

 深呼吸をしてなんとか気を静めようとしたが、妙な汗は吹き出てくるし、手がぶるぶると震えた。おれは服で手をごしごしと拭いて――でも悪くはなかった。舞いあがるような気分だった。


 しかし、このとき気づくべきだったのだ。いまどき地図を持って道案内を頼むなんておかしいということに――。

「ああ、ここです。ここに行きたいんです」

 そうして女が差し出した地図をどれどれと覗きこんだとき、ふわりといい匂いがして、女の息がおれの耳にかかった。

 と、同時にうなじに強い痛みを感じると、目のまえに暗闇が広がった。

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