紅鷹の伝記 [番外篇]

二条千河

姫君と魔法の眼鏡[前]


「やめておこうよ、やっぱり」

 紅色の袖を引っ張りながら、少年は声を殺してささやいた。

「うまくいってもいかなくても、ただじゃすまないよ」

「ただじゃすまない?」

 まっすぐな黒髪がふわりと舞って、少女が振り返る。あどけない小さな顔に不釣り合いなほど、大きく切れた眼。その眦をわずかに細め、悪戯っぽい笑みを口元に湛えている。

「そんなにこわがらなくても、わたしたちはまだだ。首をうたれたりするものか」

「首はうたれなくても、きっとおしりをぶたれる。それに、すごくおこられるよ」

「それぐらいですむなら、どうもない」

 少女はまた前を向き、隠れている茂みの葉陰から城館の外廊下を凝視する。日が長くなってくる時季とは言え、太陽はもう西に傾いていて、そろそろ吊り行灯に火の入る時分が近づいていた。

「アルハさまはそれだけですんでも、ぼくなんか、にわの木にしばりつけられて、こってりおしおきされるんだ。ごはんも食べさせてもらえないかもしれない。もう、おしろへは近づくなって言われるかもしれない」

「シッ、声が大きい」

「ぼくがそんな目にあってもいいの? ねえ」

「わかった、もうシュロはかえれ。あとは、わたしひとりでやる」

 こう言われて、少年が帰れるはずもない。説得も無理そうだ。相手は自分と同い年──厳密には半年ばかり年下だけれども、物心のついたときから、主従の関係は歴然としている。少女は従える側であり、自分は従う側なのだと、半ば絶望しながら覚悟を決めるしかなかった。

 そもそも、本を質せば、悪いのは自分だ。巷の悪童たちから聞いた噂話を、幼い主人の耳にうっかり入れてしまったのが間違いだったのだ。


──あのめがねが、まじないもの?

 聞いた途端に、アルハ姫は大きな眼を見開いて彼のほうへ身を乗り出した。

──うん、じょうだいさまはあのめがねでまじないをかけて、ふつうの人には見えないものを見てるんだって、兄弟子たちが。まさか、そんなことあるわけないのにねえ。

 相手の厄介な気性をすっかり忘れて、シュロはのんきにそう答えた。

 彼は三歳のころから西陵せいりょう城下の剣術道場に出入りしているが、そこを営んでいるのは山峡国やまかいのくにで随一の武名を誇るムカワ家の分家筋。つまり城代ムカワ・フモンの親類に当たるわけで、そのせいか門下生たちの間では面白半分に、彼にまつわるさまざまな逸話が口に上る。生まれて三日で文字を書き始めたとか、暴れ馬に説教をしておとなしくさせたとか、眉唾な噂ばかりだったが、そこに最近になって加わったのがこの「まじない眼鏡」の話だった。

 何しろムカワ城代と言えば、贅沢も好まず酒色も寄せつけずまるで石仏のように恬淡として、およそ情けやら愛着といったものとは縁のなさそうな男だ。そんな彼が肌身離さず持ち歩いて誰にも触らせないという、精緻な細工の施された片眼鏡。一体どういう所縁の代物なのか、とても気安く尋ねられるような相手ではないだけに、周囲の人々は無闇に想像を膨らませるばかりだった。

 冗談めかしてささやかれた憶測は大人から子どもへと伝わり、尾ひれも背びれも付け加わって、シュロのもとへ届いた。そこで止めておけばよかったのだが、アルハ姫から城下の話題をせがまれると、彼はつい何でもしゃべってしまう。

──よし、たしかめてやろう。

 姫が両の眼を爛と光らせて立ち上がったとき、少年はようやく己の失策に気づいたが、後の祭りだった。


「出てきた。あれがさいごのはずだ……」

 隣でささやき声がして、我に返る。見れば壮年の官吏が二人、執務室を退出して、館の外廊下を歩き去っていくところだった。

 先に室内をこっそりのぞいて、詰めている人数を調べてある。算術の得意な少女は部屋から人が出てくるたびに引き算をして、残りが一人になるのを待っていたのだ。ムカワ城代は、皆がいなくなった後にしばらく読み物をしてから帰るのが常らしい。つまり今、彼は執務室の中で独り、噂の片眼鏡を使っているはずだ。

 茂みから立ち上がった姫が、腰に手を当てて少年を見下ろした。

「じゃあ、たのむぞシュロ」

「え、たのむって、なにを」

「なんでもいいから大きな声で、ムカワ・フモンをおびき出せ。わたしがへやにはいってめがねを見てくるから、その間だけ、引きつけておいてくれればいい」

「そ、そんなこときゅうに言われても、できるわけが……」

 小刻みに首を振る乳母子めのとごに、アルハ姫はにっこりと笑いかける。人の悪い笑いかただ。恐ろしい予感がした。

「だいじょうぶ、シュロならできるとも」

 そう言って姫は、彼の目の前に手を差し出す。その指先からぶら下がっているものを見て、彼は凍りついた。緑色と灰色の複雑に交ざり合う鱗、くねくねと波打つ細長い体躯、口先からちろちろとのぞく裂けた舌──虫とも獣ともつかぬその生きものを、少年は物心のつく前からずっと忌避してきた、のに。

 あろうことか姫はを素手でつかんだまま素早く彼の背後に回り、襟口から上衣うえぎぬの中へと放りこんだのだ!

「……ッ‼」

 背中の皮膚を撫でるように伝い落ちる、おぞましい感触。

 体中の肌という肌が粟立つのと、生まれてから一度も発したことのない甲高い悲鳴が喉から飛び出すのと、反射的に茂みから転がり出るのと、すべてが同時だった。

「ああああ、いやだ、いやだ、だれか、せなか、せなかに……たすけてえ‼」

 ぐるぐる走りながら泣き叫ぶ彼を置いて、アルハ姫は素早く姿を消す。と、ほとんど入れ替わりに、苔色の長衣をまとった背の高い男が外廊下に現れた。

 少年は救いを求めて男を見上げる。しかし相手は何も言わず、ただ姿勢正しく立っているばかりで、庭に下りてこようとする気配もない。右目を眼帯で覆っているせいか、表情もよくわからない。ただ左目を細く開いて、冷ややかな眼差しをこちらに向けているばかりだ。

「いやだ、いやだあ……ぁぁ」

 ついに膝から地面に崩れ落ちたあたりで、ようやくもう一人、大人が現れた。騒ぎを聞きつけて様子を見に来た番兵だ。

「おい、どうした」

 と駆け寄ろうとする兵を、片目の男──ムカワ城代が呼び止めた。二言三言、何かを言いつけたかと思うと、あとは踵を返して去っていく。何と薄情な! あれは噂通り、人の道を外れた呪い師なのかもしれない。涙で砂が貼りついた頬をゆがめて、シュロは内心に毒づいた。

 その視界の隅を、何やら細長いものが横切っていく。緑色と灰色の入り交じったおぞましい紐状の……先刻アルハ姫がつまんでいた、そして今は彼の背中にいるはずの蛇が、庭土の上を滑るように這って逃げていく姿だった。


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