3‐3

「警察もダメです。繋がらないです」

 振り返ると、ニカが耳を当てたまま首を傾げていた。静馬はもう一度人気のない街路を振り返り、舌下に溜まった苦みのある唾液を飲み込んだ。

「通りの先にローソンがある。そこまで歩こう」

 ローソンまでは二人とも無言だった。何か言葉を交わそうにも、街路樹に変わって自生したフウインボクや民家から溢れ出てきた巨大なシダ植物をみると、喋る気が失せてしまった。街は静寂に包まれていたが、そこには無言の圧力があり、説明できない不穏な空気が騒がしく辺りを嘲っていた。


 ローソンはひどく閑散として、寒気を覚えるほど静謐としていた。空っぽの入れ物になった店内は、普段意識していない人の気配というものを、嫌というほど考えさせた。人は何気なく暮らしていても、そこに人の気配や温かさを無意識のうちに感じているのだ。

 今、どこへその神経を向けても返答はない。そこには誰かが投げ返してくれると信じて、ボールを虚空に投げるような虚しさがあった。意識も、声も、何を投げても返ってくることはない。


 コンビニの棚を手前から順番にのぞき込んでいきながら、静馬は人がいることを願っている自分に気が付いた。なぜ、願う必要がある? さも、自分たち以外の人間が一瞬のうちに地球上から消えてしまったようではないか。静馬は自分自身でその間がを嘲ることで、平静を保とうとした。

 現にニカがいる。人間が消えてしまったのなら、なぜ彼女は無事なのか。無論自分の存在もその反証の中に入れてもいいだろう。

 もし、本当に何らかの異変が起こっているのであれば、ニカがここに来るまでに気づいているはずだ。尋ねてしまえば、すぐにすむ。静馬は一番奥の列を覗き込みながら、考えた。


 通路にはセーラー服と鞄が転がっていた。胸が不気味に痛んだ。

 人間には二つの思考があり、様々な局面でそれらはぶつかり合う。一方は希望的観測を脳内に分泌し、都合よく世界を解釈する。もう一方は常にすべてを疑ってかかり、最悪の場合を想定し、恐怖をそそのかす。どちらかを排除してしまう事は出来なかった。それは人間が生まれながらに持っている防衛機制であり、人にできるのはそのどちらかを信奉し、もう一方をことごとく攻撃してしまう事だった。

 いつもならば、疑ってかかるべしを信じている静馬だったが、この時ばかりは希望的観測の一派と肩を組み、ポルカを踊ってしまいたくなった。


 そうだ。全ては馬鹿げている。そんな妄想。ニカが言うように映画みたい、漫画みたいだ。現実にはそんなことなどあり得ない。

 だが、そんな時こそ、疑ってかかるべしは最大限の力をもってして、静馬を攻撃する。ではあの植物はなんだ? ゴルゴノプスは数億年前に絶滅したんだぞ。落ちている制服は? 女子高生がこんなところで脱衣したのか? 一体何のために?


 考えを打ち消すがごとく、静馬は振り返ってニカを呼ぶ。彼女はレジカウンターを覗き込んだまま、目を見開き、口を押えて硬直していた。喉は上下に動いているが、そこから絞り出す言葉も浮かばないと言った様子だった。

 目線の先にある何かが、文字通り、彼女を絶句させていた。

 踵を返し、ホットスナックのケースを横切る。ワックスのかかった床で静馬のニューバランスがキュッキュッと鳴った。

 舌下に湧出した唾液を飲み干し、静馬はレジの中を覗き込んだ。

 そこには、“何か”がいた。


 “何か”はカウンターの中に蹲っていた。それはローソンの制服を纏い、もぞもぞとは身を捩るように蠢いている。服を着てはいるものの、挙動や大きさ、そして雰囲気が、明らかに人では―


 気配を察したそれがぬぅっと顔をもたげた。


 無意識のうちに口が開き、胃液の不快な感覚が食道を這いあがってきた。

 ドロドロの粘液の中に人の顔が埋もれていた。辛うじて皮膚と分かる物も蝋のごとく溶け落ちかけている。女性と思しき、溶けかけたその顔に感情はなく、ガラス玉の目が意志なく動いていた。


 目は静馬をじっと見つめていた。口がゆっくりと開かれたが、同時に無数の歯がボロボロと抜け落ち、そこら中に散らばった。女性が最早うめきにすらならない声を上げると、呼応するようにして両方の眼窩が落ち窪み、糸を引きながら眼球が溶け落ちて行った。


「うぅッ」とニカが嘔吐き、口を手で押さえた。

 ボロボロと顔の皮膚が瓦解し、その中から、小さな別の顔が姿を見せた。それは人間の物ではなく、小型のネズミによく似ていた。時間をかけ、体が収縮して行く間、かつて体であったものの残骸は煙を上げて蒸発し、女性は制服の中へ隠れるほど縮んでいった。

 静馬は通路にあったセーラー服を振り返り、トラックに残された制服を思い出した。


 地面に伏された制服の一部が軽く膨らみ、袖口から一匹のネズミが這い出してくる。ネズミはカウンターの中、行きつ戻りつを繰り返し、そのうちバックヤードに続くドアの隙間からサササと消えていった。


 糸が切れたようにニカはその場にへたり込むと、両手で顔面を覆った。とてもではないが、ここへ来るまでの事を聞けるような状態ではなかった。

 静馬はリーチインからいろはすを二本取り、菓子類の棚からスニッカーズとガルボを一つずつ手に取った。水とスニッカーズをニカの足元へ置くと、自分はレジの方へ向かった。


 カウンターに寄り掛かり、サッカー台へ商品を置く。ズボンからは財布を探った。

 黙ってくすねてしまおうという気持ちは起こらなかった。それをしてしまえば、この異変を肯定してしまう事になる気がした。

 財布を開き、小銭を出そうとした時、内ポケットの隙間から、何かが落下し、床に落ちた。乾いた音をたてたそれは、床の上を滑り、ニカの足元で止まった。

 最初小銭かと思ったが、ニカが拾い上げてくれたそれは、バイクのスペアキーだった。何かが起きた時のため、財布に入れたままにしてあったのだ。


 キーを拾ったニカの顔は意外にも、いつも通り、快活で朗らかな笑みが浮かんでいた。

 鍵を受け取り、ジーンズの後ろにねじ込む。

 ニカは笑ったまま、いろはすを矢継ぎ早に飲んだ。そして静馬は察した。笑顔が固い。彼女は常に明るいわけではない。彼女は屈託のない雰囲気を醸し出すのが上手いだけなのだ。ニカから受け取った鍵をジーンズの後ろにねじ込みながら、静馬は初めて理解した。

 何層にも隠された感情と本位の向こうに、悲しみと不安が隠れている。彼女はそれが誰かに知られるのを恐れているかのように、笑顔というベールで隠していた。


「………先輩。私の家、毎週金曜日は家族で外食に行く決まりなんです。今日も、今日もそのはずでした。でも、家にいるはずのママはどこにもいないし、パパも電話繋がらない。で、怖くなって先輩に会いに来たんです。そしたら………そしたら、」

 彼女は再び、流れ出しそうになる何かを押し込めるように水をがぶがぶとヤケクソになって飲んだ。

「確かに、ここに来るまで変だったんです。環七はずっと渋滞してるし、救急車と警察もめっちゃいました。事故してるのも………………ねぇ、先輩。リビングの所に、ママの、ママのスカートが落ちてたんですよ、ねぇ、先輩………」


「万城目、俺は……」

「………大丈夫、大丈夫ですよ、先輩。先輩が、先輩が無事だったんですから。それで、それで充分です!」

 ニカはえくぼを穿って歯を見せ、スニッカーズを頬張った。静馬はかける言葉もなく、もうほとんど日の落ちたコンビニの外を見つめた。

「体は、なんともないか?」

「大丈夫です。先輩は?」

 自分にも異変がないことを伝え、静馬はスペアキーを手の中で転がす。


 ニカは思い出したようにスマホを取り出すと、静馬にも見せてくれた。

 Twitterやネットニュースはこの異変に怯え、分析しようとしている人で溢れかえっていた。写真や動画は見る気が失せるような不快なものがほとんどで、事態を考察する文章のほとんどが荒唐無稽な推測の域すら出て行かない巷説に過ぎなかった。分かったのは異常事態がここだけの話ではなく、少なくとも東京全土で起こっているという事。

 ニカの安否を気遣うLINEが数件入っていたが、彼女が返信してもそれ以降の応答はなかった。


 バックヤードに入ってみると、縞模様の制服がパイプ椅子にしな垂れかかるように伏せてあり、目の前に食べかけの弁当とすっかり冷めきったインスタントの味噌汁が置いてあった。

 粗末な木で組み上げられたテレビ台の上には20型の小さなテレビが載せられてあった。点けてはみたものの、カラーバーと電子音を流すだけで変化はない。台の下に有線の機械があり、ラジオを拾おうかといじくってみたが、結局使いこなすことは出来なかった。


 こういう場合、どうするのが一番賢明な判断なのか、静馬には分からなかった。ニカであればそれは尚更で、彼女はずっとネットで見たオカルトめいた考察をまくしたて、何とか自分を保っているかのようであった。

 倉庫と兼用になっているコンビニのバックヤードには、搬入口と思しきシャッターの扉があった。扉には丁度、目の高さにプラスチック製の覗き窓がはめ込まれている。

 外へ出ようかと、そこから眺めてみたが、深く降り立った闇がそれを躊躇わせた。このしじまへ漕ぎ出していく勇気はとてもない。それに、闇は恐怖であると同時に、奇妙な誘惑を揺蕩えていた。日が昇り、朝になれば事態が収まり、好転している。

 またも、心の中で希望的観測が囁いた。今度ばかりは「疑ってかかるべし」も抵抗することは出来なかった。そしていつの間にかそれは静馬の身体を絡めとり、屈服させてしまった。


 電気を点けたまま、バックヤードへ退去し、鍵をかける。シャッターも店へ続くドアもしっかり施錠されているのを確認した。

 ばらしてあった段ボールを積み重ね、簡易の寝床を作ると、ニカをそこへ寝かせた。まだ、7時を回ったばかりであったが、眠ることに二人とも異議はなかった。眠気があったわけではなく、2人とも早くこの状況から意識を遮断してしまいたかったのだ。

「先輩、私が眠るまで起きててください」

 ニカに言われ、静馬は壁に背を預けたまま、彼女が寝息を立てるのを見守った。

 うつらとして、意識が混濁していくのを静馬は期待した。壁にもたれ掛り目を瞑ったが、現状に対する不安や恐怖は瞼の奥で渦巻き、なかなか遮断することを許してくれなかった。

 不快な眠り。自分の意識を、自分自身でどやしつけ、目を閉じることで静馬は思考をシャットダウンした。

 無論、そんなものは何の気休めにもならなかった。

 彼を眠りから呼び起こしたのは、けたたましくなるスマホの着信音であった。



 つづく

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