第二節

 アカネアの町は地獄のごとき様相である。

 炎により市壁を破壊し侵入果たした敵は、まさしく不死の軍勢であった。

 肌は青く、彫像のような顔をした者の群。振り下ろす剣は無辜の民を二つに割り、死体の絨毯を敷きながら往来を闊歩する。

 衛兵が剣で斬り付けたとて痛みを感じる様子もなく、怪力によって逆に押し返される。鎧も付けていない小者にはいかにも分が悪い相手であった。しかし彼らは増援が来るまで果敢に戦うのが己が役目としている。

「頭が痛え……。こいつぁ何の騒ぎだ……」

「おい、下がれ!」

 酒臭くふらふらと歩いてくる老人に衛兵が注意を促した。

 斧を持って近寄る不死を、老人は一瞥する。

 すると次の間際に、不死の首は宙を舞った。

 衛兵達はにわかにざわついた。

「見たことがあるぞ。俺達が追っていた猪を横取りしやがった爺さんじゃねえか」

「ああ、俺も昨日稽古を付けてもらったぜ。見かけによらず結構つええ爺さんだ」

 モゼスは魔剣を携え、肩を鳴らす。

「誰がジジイだ。ともかく逃げろ。こいつはお主らの手に負える敵ではなさそうだ」

「どこから流れてきた騎士かは知らねえが、ここは俺達の町だ! 退くことはできん!」

 古株らしき衛兵が叫んだ。

「面倒なやつらだ」

 モゼスは舌打ちする。だが、敵は彼一人で相手取れる数ではないのも確か。

「どうすりゃいいってんだ……」

 逡巡した間際、不死の頭が矢に吹き飛んだ。

 次々に矢が風を切る。それらは不死の肩や足を射抜き、後退せしめた。

 振り返れば、そこには騎士と従兵から成るオーデン家の軍勢があった。

 鬨の声を上げる兵を率いたのは、違いなくアカネアの姫君である。兵が振るう旗の下、イザベルはその小さき風体で堂々と立った。

「騎士だ! 我らが姫が、騎士をお連れしてくださったぞぉ!」

 傷付いた衛兵は沸き立ち、鬨の声に合わせ剣を掲げた。

(意外に速かったな、姫君よ!)

 その登場をモゼスは心の中で讃えた。

 一方でイザベルはモゼスの姿を見て呆れていた。

(モゼス……。昨晩から戻らないと思えば、酒場で呑んでいましたか)

 しかしモゼスは心強い味方でもある。彼がここにいたことに安らいだのも確かだ。

「……しかし、やはりこの数は」

 魔術師ルイスがイザベルの隣に立つ。

 騎士の動きが速いのは彼の功績でもある。敵は夜闇に紛れ町に近付いたが、彼の結界がその接近を感知したのだ。

 伝承には神々の裔とも謳われしオーデンの始祖が仕掛けた大結界には遠く及ばずとも、魔術師は小さき力を大きな力に換えるもの。

 しかし結界は同時に敵勢の有利をも知らしめていた。敵数は五十を越している。

 対して此方は、イザベルを含め三十六人。いずれも精強な兵士であるが、やはり数に劣った。

「臆さずに下知をお下しくだされ、姫。さすれば我ら、万の軍勢にも立ち向かえましょう」

 護衛役に立つ騎士ロバートがそう述べた。

「わたくしも、力を尽くします」

 イザベルはそう応じ声を張り上げる。

「勇敢なる騎士たち、今こそこのアカネアを守るための戦を!」

「おおっ!」

「かかりなさい!」

 四人の騎士が、手勢を率いて不死の群へと突撃していった。

 すぐさま町の大通りは乱戦の様相を呈す。

 此方は数に劣り、並の兵では一体の不死に二人がかりでなくば抗せない。

 自然に隙は大きくなり、乱戦を抜け出した不死がすぐさま後陣へ迫り来る。

「来るか……! 矢を撃てい!」

 後陣に残るロバートの配下たる兵士が弓を引き絞り、不死に向けて撃ち放った。

 額や胸を射られた不死は倒れるが、尋常の矢傷で不死は止まらぬ。

 その隙を縫うように光の矢が飛び、確実に不死の頭を撃ち抜いていった。

「お見事にございます、イザベル様」

「いえ……あなたの魔力には及ばないかと。ルイス殿」

「いざというときには、我が魔法で敵の足をお止めいたしましょう。イザベル様は、力を使い過ぎませぬよう」

「……ええ。感謝いたします」

 力尽きし不死は、灰となって消えていく。

 モゼスは剣で不死の首を斬り落としつつ、既に幾度目かの灰化を見届けた。

「次はどいつだ! 俺が安らぎを与えよう、眠りから遠ざけられし者どもよ!」

 騎士は並の怪物には劣らぬ。オーデン家の騎士とて猛威を振るった。辛うじて、彼我の戦力は拮抗しているかのように見える。

 兵士の屍を食む不死がぬらりと立ち上がり、モゼスに首を巡らせた。

「お前か!」

 モゼスが振るった剣は盾に受け流された。彼は軽く目を瞠る。

 不死は槍を突き出した。

 モゼスは辛うじて上体を逸らして躱す。

 否、僅かに脇腹を抉られている。速い。

「こいつは……騎士! 不死の騎士か!」

 然り、騎士を擁するのは向こうとて同じ。

 それは同時に、カロンの吸血鬼は騎士すら御す力を有している事実を指し示す。

「騎士を従える悪鬼など……! アンドレ、お前なのか。お前ならばッ!」

 モゼスは叫び、不死騎士と干戈を交える。

「モゼス……彼の様子が」

 イザベルは戦況を見渡し訝しんでいた。

 ロバートも同時に唸りを上げる。

「一部の不死は、まるで動きが異なる様子。これでは……」

 不死騎士の一体がアカネア騎士を討った。

 一方では相討ちに追い込まれる。

 アカネアに残された六人の騎士はいずれも実戦鳴れしておらぬ若輩達。不測の強敵に遅れを取らされたのだろう。

 しかしミック、コナーという名の二人の騎士は善戦した。モゼスと共に、不死騎士とそれぞれ交戦を続けている。

 そして不死騎士の姿はもう一体があった。乱戦を抜け後陣に迫ってくる。

「射撃をやつに集中させよ!」

 ロバートの下知により、弓兵は不死騎士に狙いを定めた。そして矢が放たれる。

 降り注ぐ矢の雨を騎士の鎧兜が受け止め、何本か矢が突き立ったが、歩みを止めるには至らなかった。

「……! それがしが参る!」

 騎士ロバートは槍を携えて突撃した。

 その槍の速きは疾風に至るほどであった。槍の穂は板金を穿ち、不死騎士の腹を抉った。

 しかし彼は槍を引き抜こうとして悟った。捕らえられたのは此方だと。

 不死は腹筋に槍を締め付け離さなかった。

 乱雑に槍の穂が腹を掻きまわしても苦悶の表情ひとつ浮かべず、不死騎士は無言で短剣を掲げた。そして槍を、叩き折ろうとする。

「させぬ!」

 ロバートは脚で不死騎士を蹴り飛ばした。引き抜かれた槍を回し、構え直す。

「姫様、後退を! 敵が寄っております!」

「し、しかし」

 騎士を欠いたことで趨勢は向こうに傾く。不死は続々と乱戦を抜け、後陣へと迫ってきていた。

「障壁よ!」

 ルイスは魔法を発動した。

 広範なる光の壁が戦場に生じ、不死の群の歩みを阻む。

「長くは持ちません。イザベル様!」

「ロバート、退きなさい。矢を使います!」

 イザベルの声にロバートが素早く後退し、

「マナの障壁よ、細く速き矢を通せ……!」

「放ちなさい!」

 矢の一斉掃射が行なわれた。

 イザベルも杖を掲げ、力の限りを尽くして光の矢を放つ。雨のように降り来る矢に悉く不死は打ちのめされていった。

 しかし不死騎士は狡猾に足掻いた。手近に立っていた不死を己の盾にして矢を防いだのだ。

 攻撃が止み、光の壁は消失した。吹き荒ぶ血風の中、不死騎士の瞳が赤く輝く。

「姫! ここはお退きくだされ!」

 ロバートは咆え不死騎士に立ち向かった。その背は勇敢な猪そのものである。

 長物を握るロバートの攻撃を、不死騎士は短剣により正確にいなした。

 懐に踏み込み、不死は短剣を刺してくる。

 その刃を紙一重で躱したロバートの頬に、赤い傷が走る。

 後退はすまいと、彼は蹴りによって相手を引き離す。しかしその反撃も、苦し紛れであった。

 狼の牙のように強烈な短剣の一撃を防ぎ、彼はよろめく。

 その隙に不死の短剣は彼の首筋を狙った。

「ロバート……!」

「来なさるなッ!」

 イザベルの悲鳴を聞き、ロバートは裂帛の声を上げる。凶刃を籠手によって払い除け、槍の柄で不死騎士を押し退けた。

 ここからは一歩とて退くことはできない。決意を改め、再び槍を構え直す。

 ロバートが倒れれば姫君を守る盾はないに等しくなる。たった一騎の兵が戦場の運命を左右するのだ。それこそ騎士なる者の重み。

 ゆえに、天秤は傾く。

 背後から首を狙いすまされた剣の一撃を、不死騎士は寸前で躱した。

「見てられんな!」

 モゼスは石の剣を投じる。

 不死騎士は横に跳ね避け、それを躱した。

 ロバートはその動作に合わせ槍を振るう。

 不死騎士の首は、掻き切られていた。

 首を失った騎士が灰に変わるのを見届け、ロバートは大きく息を吐く。

「また、貴様に助けられるとは」

「助けただと。思い上がりだな」

「人が感謝しようというに……!」

 ロバートが文句を付けんとしたその間際にモゼスは膝を突き、脇腹を抑える。彼は苦痛に顔を歪ませた。

「モゼス!」

 イザベルが駆け寄った。モゼスの脇腹には血が大きく滲んでいる。

「相手の騎士どもは討ち取ってきた。これで幾分か楽になろう」

「今は喋らぬよう。この怪我のままで戦っていたとは、驚かされます……」

 イザベルが手をかざすと、モゼスが受けた傷はたちまち塞がっていった。

 ルイスはイザベルの働きを危惧する。

「イザベル様、ご無理はなりません。魔法は本来、人の手などには余る力ゆえ……」

「いいえ。騎士達の奮闘に比べれば、決して無理などではございません」

 玉の汗を浮かべながらイザベルは言う。

「すまぬ、イザベル」

「此方に騎士は残っております。このまま、身を休めてください」

「……ああ。しかし」

 果たしてこのまま押し切れるものか。

 モゼスが案していると、そのとき、新たな鬨の声が戦場に鳴り響いた。

 現れたのは、棍棒や、簡素な槍で武装した町の男達であった。先頭に立つ小太りの男がイザベルを見やり、礼をする。

「遅ればせながら、領主殿と交わした義務に従い、民兵四十九人がここに参上いたしました!」

「市長!」

 遅れたと言うが機を伺っていたのだろう。しかしこれで数の上は有利になった。

「苦労にございました。数を活かし、確実に敵の頭を潰していくように立ち回りを……」

「お待ちください……イザベル様! まだ、民兵を前に出してはなりませぬ!」

 ルイスは切羽詰まった声を張り上げた。

 大路の半ばに炎の嵐が生ずる。

 炎は敵も味方もなく兵を巻き込んだ。

 騎士達は己の足で炎を逃れ無事。しかし、被害は甚大であった。

 焔のさなかには鉄仮面を具した男が佇む。

「やつが敵将か! 魔力により、今まで姿を隠していたか……!」

 モゼスは舌打ちをする。厄介な敵だと。

「皆、あの男には……っ」

 イザベルは声を上げようとして咳き込む。小さなその喉で声を張りすぎたのだ。

「そやつに、みすみす近づいてはならぬ! 燃やされるのみぞ!」

 ロバートが代わって警告を発した。

「矢を放てえッ!」

 苦し紛れの武略であった。鉄仮面の男に向けて放たれた矢は、空中にて燃え尽きていく。

「無様、アカネア。いくら数を揃えようと、この力には敵わぬものと知れ」

 鉄仮面は異形の腕を晒し、火球を生ずる。真夏の陽のように巨大であった。

 ルイスはその魔力により炎を防ごうと試みる。しかし光の障壁が生ずるより先に、炎は襲い来た。

 その間際、火の明るさに金の髪が萌えた。

 大剣が振るわれる。その剣圧は炎を断ち、火球を消滅へと至らしめた。

「なに……」

 鉄仮面は僅かに怯んだ。

 訪れた静寂にイザベルの擦れた声が響く。

「マーレ……」

 イザベルはその騎士の名を口にしていた。

 静寂の中、騎士マーレは姫君を振り返る。そしてすぐさま跪き、首を差し出した。

「参集に遅れましたっ! いかなる処罰とてお受けいたします!」

「い……いいえ、もはや責めは問いません。よく、今の炎を止めました」

「姫様……!」

 マーレは滂沱の涙を流していた。

「マーレ、泣いている場合にございません。彼女は今、どこにおりましょうか」

「は……! 左様でございます! 今ここに駆け付けたのは私のみにあらず!」

 イザベルは今、視界の端を駆け抜けていく少女の姿を認めた。

 灰色の髪の隙間に覗く長い耳。剣を手に、横顔はただ、目前の敵を見据えていた。

「あいつがなぜここに」

 モゼスは呆けた。

「しかも、まだ寝巻じゃねえか」

 炎に肉体を爛れさせた不死の軍勢が、骨を剥き出しにしながらユリアの前へと立ちはだかる。

 ユリアはそれらを斬り捨て、敵の喉元へと矢のように飛び込んでいった。

「ユリアさんは既に意を決しておられます。この地を守るために戦うこと、そして、自らの師と再会いたしますことを」

「マーレ……! それは」

 イザベルはマーレのその言葉に振り返り、そして小さく、かぶりを振った。

「それは……」

 その声ももはや、か細かった。

「私にはせめて、その道を切り開くことしかできませぬ」

 マーレは大剣を抜き放つと、走るユリアに追い縋ろうとする不死に斬り掛かった。

 それを切欠に、ロバートは号令をかける。

「我々も行くぞ! 弓はいい、剣を持て! 残る不死どもを殲滅する!」

 一気呵成する兵士達の怒号が響き渡った。数々の民兵もそれに呼応していく。

 イザベルは胸に手を当て、拳を握った。

 そして小さく、ユリアの名を呼ぶ。

 ユリアは一度だけ背後を振り向き、そしてまた前を見据え、より強く地を蹴った。

 炎を斬り裂き、魔剣が鉄仮面の男を襲う。男は僅かに身を逸らして、後退った。

 仮面が割れ、ユリアはその顔と対面する。

(このような結果となることに、わたくしは目を背けていたのでしょう)

 イザベルは今更に思う。

 マーレに泣くなと言ったばかりであるのに、つと涙が零れだしていた。

 モゼスは敵を斬り捨てながら呟く。

「ああ、やはりか」



「やはり、やはりあなたでしたか、師匠」

 ユリアは歯噛みした。

「そのように御大層な仮面を付けていたとて私にはわかります。私の闇討ちを躱せた者は今までにおりません。私に剣を教えた、あなたを除いては!」

「ユリアよ……」

「なぜこのようなことを。騎士団の大儀とは人々を救うことではなかったのでしょうか。権勢を保つために要人を殺すことはあれど、民を虐殺せねばならない由がどこにございます。まるで逆しまではございませんか」

「そうだ……私は今まで、お前にそう教えてきたのだった。しかし……」

 ダリウスは外套を翻す。

 鱗に覆われた、異形の腕を露わとなった。彼が失った右腕の代替。吸血鬼に与えられし新たな生命の証である。

 異形の腕から魔力が放たれ、炎が生じた。ユリアはその魔力を思念によって跳ね除け、背後に炎が広がる中を歩み進んでいく。

 周囲に広がった火の檻は二人を閉じ込め、誰をも近づけさせなかった。曇天へと変わる空の昏さに異彩を放つ明るさであった。

「これが魔法……。お前が見ていた景色か。私には、ついぞ得られなかった視座だった」

 ダリウスの言には答えず、ユリアはただ、かぶりを振って睨んだ。

「私の問いに答えろ、ダリウス」

「……結末は元より定められていた」

 家屋に火が燃え移り、炎上した。この町は今、滅びへと向かおうとしている。

「これぞ、公爵殿下の描いた画だ。騎士団はその目論見に手を貸したに過ぎん」

「何を言っている……」

 公爵殿下。そう呼ばれる者はこの王国において一人のみ。アドラス公セドリック。

 グレンステル王ダスターの実弟である。

 戦に王が出征した後、王都に入城し暴政を敷いた悪しき治世者のことでもあった。

「公爵だと。そのような者と騎士団の間に、どのような関係がある」

「殿下はアカネアの滅亡を望んでおられた。この地の富を妬んだか。我ら騎士団は領主の名代を暗殺するよう殿下より密命を賜った」

「結界を解いたのは公爵の走狗か。己の手を汚さず、妖精がこの地を滅ぼすように」

「恐らく。だが私の知るところではない」

「なぜ公爵の命に従った。騎士団は何者かの配下ではなかったはず。私達が奉仕するのは司法の神と民だけだと……」

「まことにそう思うか。権力の闘争のためにこの手を血に染める暗殺者が、その行ないがまことに民への奉仕だったと言えるのか」

「……わかりません。あなたにわかり得ないことなら、私にわかるはずもない」

「愚かな。お前は知らぬふりをしているだけだ。本来のお前ならば聡明であるはず。無知なままで、美しいままでいようとする。その傲慢な愚かしさが私を苦しめていたとも知らずに、お前はッ!」

 ダリウスの瞳は異常な光を湛えた。

 ユリアはその男に、そのとき初めて恐怖を覚えた。まるで知らぬ人間だ。顔かたちこそ見知った師のものであるはずが……。

「師匠……」

「もはや、権威すらも騎士団は捨てている。我々は報酬のためにこそこの手を汚すのだ。私の故郷たる騎士団はいつしか、そのような組織に変わり果てていた! 無力がゆえ……無力がゆえに、変わらねばならなかった!」

 ユリアは項垂れ、血が滲むほどに固く拳を握る。

 その言葉は、滴となって落ちた。

「……たとえそうだとしても。私はそれが、人の世の正義なのだと疑わずにおりました。なぜ私の元に戻らなかったのです、師匠! あなたの導きであれば、今も私はそれを信じどこまでも供をしていけたというのに!」

「……否。たとえこの身に何が起きようとも、私がお前の元に戻ることは、なかったのだ。ユリアよ」

「…………」

「あの日、私は使命を果たせぬまま森へ逃げた。この身は吸血鬼に攫われ、新たなる力を授かった。まさしく神の所業のように。私はこの力で、あるべき結末をこの世に刻み付ける。それが今の私に残された、全てだ」

「いいえ……師匠。あなたは吸血鬼の傀儡と成り果てたに過ぎない。あなたはもはや私の知るあなたではなくなった」

「今の私を、醜いと思うか。ならば、殺せ。その手で何を殺し、何を殺さざるべきか……己の意思に、ゆだねるがいい」

 ダリウスは鋼の剣を異形の腕で引き抜く。

 その切っ先を躱しユリアは後転を打った。ダリウスの剣はかつてのものより遥かに速い。

 思えばユリアが師と全力で剣を交えたことなどなかった。今のダリウスは明確な殺意を以って剣を振るう。それが速きにも繋がる。

 だが、それはユリアとて同じこと。

(もはや師の居場所を聞き出す必要はない。その正体が他ならぬあなたであったのなら、私は!)

 剣を紙一重で躱しながら懐へと飛び込み、ユリアは魔剣の刃を閃かせた。

 体格の差を敏捷で補い、全身を捻りながら干戈を鳴り響かせる。そのたびに火花が散り、両者の殺意に満ちた眼に瞬いて消えていく。

 未熟ながら、エルフの体術の限界は人間のそれを遥かに超越していた。

 ダリウスは初めユリアを騎士にしようとは考えていなかった。しかし、彼と同じように剣を握ることをユリアは望んだ。死を恐れず彼女は鍛錬に励み、若くして騎士となった。

 いずれユリアは誰とて敵わぬ騎士になるとダリウスは予感した。果たしてそれが正しき果を結ぶか、誰にも知れなかったが。

 いずれ己が老いても魔剣は錆びずに残る。ならばそれはユリアが継ぐことになろうと、漠然と明日の先の出来事を思い描いていた。

(……強く、なったな)

 ダリウスの異形の腕が断たれる。

 鱗が粉々に砕かれ、肘から先が失われた。彼にとって屈辱の痛みが再来する。

 ユリアは決して過たず、ダリウスの喉元へ直ぐに刃を放とうとする。

「……させぬ」

 残された肩から顔へ、異形の鱗が広がり、ダリウスの右目が赤く光を放った。

 光線はユリアの腕を掠めてゆく。

「あっつ……!」

 背後の地面が赤く膨れ上がり、爆発した。

 同様にユリアの左腕から火炎が立ち昇る。己の肉を焦がす臭いが酷く不快だった。

 ユリアは魔法で左腕を凍結し火を殺した。そしてダリウスから距離を取るように後退る。

「逃げられはせぬ! この地は滅びるのだ、私の力によって……!」

「誰が、逃げるなど!」

 ユリアは魔剣を地面に突き刺した。そして凍結の魔法を、ダリウスへと向ける。

「凍れ!」

 氷が地面を這い、ダリウスの足を止めた。更には脚からその総身に氷が張り付こうとする。ダリウスは炎熱によって氷を融かそうとするが、ユリアの魔力はそれを遥かに上回った。

「お……おおおお……!」

 今に氷に封じられんとしているダリウスの右目が、再び赤い光を帯び始める。

「さらば……!」

 一際瞳の光が増した、

 ユリアは剣を地から引き抜く。

 その刃は風を切った。

 光線が放たれるその間際、ダリウスの眼は魔剣に、貫かれていた。

「ユリ……ア」

 倒れたダリウスの残った左眼には、もはや如何なる感情も浮かんで来ない。

 虚無だけがそこに残っていた。

「……汚い手を使いました。でも、あなたが悪いんだ。力なんかに驕っているあなたを、私は見たくなかった。あなたは私とは違う。力などなくとも、あなたは……」

 彼の顔に刺さった剣を引き抜き、ユリアはそれを逆手に構えた。

「お休みください。……師匠」

 ユリアは師の首を刎ねた。

 ダリウスは、灰となった。ユリア一人が、そこに残された。

 火の檻が消え、町に風が吹き、朽ちた灰を彼方へ攫っていく。

 堰き止めた流れが溢れ出すように、心臓が早鐘を打ち始める。

 勝ち鬨が遠くに聞こえる。

 師の首を断った感触が、未だその手の内に残っている。

 冷たい雨粒がその掌に落ち、やがて天から降る水が、ざあざあと地に叩きつけた。

 そうしてどれほど長く、立ち尽くしたか。

 ふっ、と糸が切れたように地に膝を付き、彼女は倒れ込んだ。

 ……否、その体を、支える者があった。

「よく、来てくださりました」

 ユリアを背中から抱き留めたイザベルは、治癒の魔法を施した。ユリアにとり、それはさして意味を成さないことだと知りながら。

 ユリアは一言、問い掛ける。

「敵は、どうなった」

「全滅いたしました」

 イザベルは微笑む。

「わたくし達は、勝ちを治めてございます」

「そう……よかった」

「皆の、尽力のお陰と存じます」

 その声は、ふと沈んだ。

「しかし、あなたはこれで……」

「気にしなくていい。師匠は間違っていた。ただ、それだけの話だ」

「……左様でございますか。ならば」

 たとえその本心は知れずとも。

「わたくしはあなたを讃えます。ユリア……あなたは、勇敢でございます」

 イザベルは小さき腕でユリアを強く抱き、やがて、徐々にその力が解けていった。

「イザベル?」

「よかった……。この町が、守られて……」

 そう息を零すように呟いた後、イザベルはユリアの背にもたれたまま、気を失う。

 戦の疲労はあまりに大きなものであった。姫君は一時、深い眠りに落ちていった。



 戦勝の宴は翌日、イザベルが目覚める日を待って執り行われた。

 身命を賭して戦った戦士達を労うための、祝いの日であった。

 前日、ユリアはその時を待たずにこの地を去ろうとしていた。

 屋敷を出るその前にユリアを呼び止めたのは他ならずマーレであった。彼女は、

「すっかり、渡し忘れておりました」

 と笑って一枚の手紙を差し出した。

 その手紙はイザベルがユリアに宛てたものであった。文面には短く、こう書かれていた。

『目を覚まされましたら、城をお訪ねになってください。あなたにお渡ししたい物がございます』

 それゆえユリアは、この賑やかな宴の日に城を訪れることとなったのだ。

 城の中庭には長卓が何脚もしつらえられ、料理と酒が振る舞われていた。

 奥の席に座す英雄の面々には鎧を具した格好の者もいれば、そうでない者もいる。

 マーレは後者であった。

 ユリアもその日、マーレから白いドレスを借り受けていた。

 ユリアの細い体に合うようマーレ手ずから仕立て直したドレスであり、飾り気はないがユリア自身の魅力を存分に引き出している。

 彼女達はこの宴席の数少ない花であった。人目を浴びながら奥の席へ手を引かれていくユリアは、俯きつつ文句を付ける。

「ねえ……どうしてこんな格好をするの」

「それは、せっかくの宴でございますから。少しくらい目立った格好の方がよいかと」

 マーレはからからと笑っていた。

 ドレスは裾が長くてとかく歩き辛かった。苦労して席に辿り着くと、ようやくユリアは一息吐く。

 本来ユリアは席にも着かせてはもらえぬ身分だが、此度の主賓は彼女達、戦の英雄であった。騎士たれ旅人たれ、今は同じ卓を囲んでいる。

「ユリア殿」

 と声をかけてきたのは、向かいの席にいた騎士ロバートであった。

 ユリアは肩をそびやかせながら応じる。

「な、何……」

「先の戦の活躍は見事であった。それがしはそなたを不埒な賊としか見ておらなかったが。その認識を改めねばならぬようだ」

 ユリアは言葉を失う。賊だったのは事実だ。

「酒は好いておられるか」

 ロバートの問いにユリアは首を振った。

「飲んだこと、ない」

 それは師が酒を飲まなかったためだろう。

 酒で失敗したと語られたこともあったが、何があったのかはついぞ聞かなかった。

「ならば本日はいくらでも飲まれよ」

「飲めば楽しくなりますよ」

 マーレが相槌を打った。

「……そうさせてもらう」

 適当に話を切り上げ、ユリアは檀上の席をちらと見やった。

 淡い紫色のドレスを纏ったイザベルが、そこに静かに佇んでいた。人形のような姿にユリアはしばし、目を奪われる。

 そうしていればイザベルと目が合い、なぜか微笑みを返された。

 顔を逸らし、ユリアは溜め息を吐く。

「居辛い……」



 イザベルは武勲高き勇者達に金貨や財宝を手渡していった。放浪の騎士や魔術師の姿もそこにあり、ユリアも同じく褒美を受けた。

 ユリアが賜った褒美には金貨の他、大きな緑の宝石があしらわれたブローチがあった。

 壇上でそれを手渡すとき、イザベルは耳に口を寄せ、このように囁いた。

「手紙は、ご覧になりましたか」

「読んだ。昨日」

「では、このブローチが『お渡ししたい物』でございます。オーデン家に伝わる家宝にて」

 ユリアは目を見開く。

「そんなものを……!」

「どうかお聞きになってください。このブローチは我が一族に『エルフの王の魔石』といわれる名で伝わってきた品でございました」

「エルフの……王……」

「その名がどのような謂れかは存じません。この品が何処から伝わったものかも。しかし、思えばここは妖精の楽園とも呼ばれた魔境。遠い昔に滅びたとばかり伝え聞くエルフにも生き残りがおり、この地に流れ着いたものとは思えませぬか……。あなたと出会い、わたくしは一層その思いを強めてございました」

 それは、残酷な推測でもあった。

 オーデン家は、エルフからこの美しい石を奪って家宝としたのだろう。『王』の所以はユリアも知らぬが、古き品だったに違いない。

 ブローチを持つユリアの掌に、イザベルの手が重なる。

「そうであれば、この宝はエルフに返すのが道理というもの。どうかお受け取りを」

「……エルフに対するその思慮を重んじる。感謝を、イザベル」

 ユリアがそう応じブローチを受け取ると、イザベルは何やら、苦笑を浮かべた。

「どのような建前で家宝を渡そうものかと、悩んでおりましたが。それも杞憂でございました。勇者としてあなたをこの城に迎え入れることが敵い……わたくしは、そのことを嬉しく思います」

 安堵のようなその笑みに何を感ずるべきか、ユリアには量りかねる。

(……勇者、か)



 酒宴に入り、皆が酔いに耽り出した頃。

 ユリアは気分が悪くなったと言って早々に席を外していた。

 マーレはユリアに付いて行こうとしたが、断られたため宴の席に残った。

 オーデン家の騎士達は互いの武勇を讃え、同輩の死を惜しみ合う。

 イザベルは酒を舐めつつ、その場は一言も声を発していなかった。

 その静かな様子を見て、マーレは前の席に座るロバートに呼びかける。

「ロバート卿、少しお耳を」

「何用か、マーレ卿」

 両者とも小声で話し合う。

「姫様……何かに悩んでおられるような」

「姫はまだ酒が得意ではござらん。果実水で薄めたものをお出しするよう給士に伝えはしたが、やはり口に合っておらぬやもしれぬな……」

「そのような事情でございましょうか」

 やがてイザベルは口を開いた。

「モゼス、ルイス。話がございます」

 騎士達は歓談を止め、イザベルの言葉に耳を傾ける。

「いったい、何用で」

 ルイスが畏まって聞くと、イザベルは杯を手にしたままに答えた。

「あなた方がこれからどうなさるつもりか、お聞きしたいと存じます」

「まさしく今、モゼス殿と語らっておりました。僕達は明日にでも、共にカロンへと旅立ちます」

 おお、と何処からか歓声が漏れ聞こえる。

「やはり、あなた方は吸血鬼と戦いますか」

 イザベルは杯に口を付け、ワインを呷る。顔がだいぶ赤くなっていた。

「姫様……?」

 マーレは不安を覚える。

「わたくしも……あなた方に付いて行きとうございます」

「姫……何を仰せにあるか!」

 ロバートが立ち上がった。もはや宴の席は鎮まり返っている。

「町の復興と治安維持は如何にいたします。姫様のお力は未だ欠かせませぬ!」

「わかっております。しかし、死した同胞の無念に報いなければ。そして……」

 そして、悲劇に立たされたかの少女にも。

 その手にある酒杯が小刻みに震える。

「わたくしは吸血鬼を、許せそうには……」

 イザベルの憎悪が伝わる杯にひびが入り、無惨に割れ散った。零れたワインがドレスを汚し、ようやくイザベルは酔いから醒めた。

 感じたのは、兵士達の視線である。

 不安の表れであった。あるいは憐れみが、あるいは恐れが、そこに感じられた。

 彼らが仕えているのはイザベルではない。イザベルは兄の名代に過ぎぬ。彼であれば、兵に不安を覚えさせはしなかったのだろう。

「……失言をしました。皆さま、お許しを。わたくしは席を離れます」

「わ、私が供をいたします。着替えが必要となりましょう」

 イザベルは皆に頭を下げ、マーレを伴って宴の席を離れていった。

 マーレは時折このようにして女官のような役目を果たすこともあった。今の姫君には、彼女に付いていてもらう他ない。

 後には鉛のような重い空気が残った。

「姫様……」

 ロバートは唇を噛んだ。皆の前で姫君を叱責するべきではなかったかと、後悔もする。しかし強く言わねば、イザベルは明日にでもカロンに向け旅立ってしまったであろう。

 ロバートは、彼の主たる領主エゼルと以前話し合ったことを思い返す。

『よもや妹を私の名代として置いていくことになろうとはな……。

 わかっている。私が、止めるべきだった。イザベルは幼き頃から父上の補佐をしていたとはいえ、領主の務めが敵う器ではない。

 イザベルは情が深すぎる。誰にも公平で、理知的であるように見え、その実己の感情に振り回されている。哀れな妹だ……。

 だが、なぜ私に妹のことを否定できよう。私は取り返しの付かぬ罪を犯し、その代償にイザベルはノースモア家へと差し出された。己が身が焼かれようと構わぬ覚悟で。私は、妹の覚悟を尊重せねばならないのだ。

 此度こそイザベルが務めを果たせるよう、側で助けよ、ロバート卿。しかし決して妹を再び火の中に飛び込ませることは敵わない。己が感情に振り回され火に飛び込むならば、そのときには、貴殿が代わって火を受けよ。それこそが貴殿の役目なのだ……』

(……無茶を仰せられる)

 ロバートは、腹を据えた。

「案じ召されるな、皆の衆。姫様のお考えは確かに一理がある。ここでアカネアの騎士が出ねば恥となろう! であればそれがしが、姫様の名代となりカロンへと向かおう!」

 宴の席は騒然となった。

「正気か、ロバートよ」

 まず訊ねたのはモゼスであった。

「正気も正気にござる。それがしは貴殿らの旅に同行を願う」

「足手纏いはよせ。敵は只者ではない」

「心得ているとも」

「……ならばよし!」

 放浪の騎士とロバートが握手を交わすと、一層宴の席は騒がしくなった。

「卿のみに任せはしませぬ!」

「我々も思いは同じ! 供をいたします!」

 血気冷めやらない兵士達が次々に名乗りを上げたが、ロバートは手で制した。

「落ち着かれよ、既にこの地に兵は少なく、疲弊しておる。オーデン家から出向かうのはそれがし一人。それ以上はまかりならん!」

「ロバート卿、己のみの手柄にするつもりか。姑息なことを考えおる」

 せせら笑ったのはアカネア騎士が一人、コナー卿である。

 他方、もう一人のアカネア騎士であるミック卿はコナーの言葉を聞いて、大笑いをしていた。

「そのような生意気な口を利くのは怪我を治してからにした方がいいぞ、コナー卿」

 コナーは席の傍らに杖を立て掛けていた。彼は脛に傷を負ったのだ。

「姫様の術を受けずともよかったのか?」

「姫に必要以上の負担はかけられぬ。その上、傷が塞がったとてこの脚が使い物になるかはわからんのだ」

 コナーは舌打ちする。

「申し訳ない、コナー卿。そしてミック卿。それがしの勝手を許されよ」

 ロバートが頭を下げると、コナーは椅子にふんぞり返って鼻を鳴らした。

「仕方あるまい、男が頭を下げたとあっては。だが蛮勇で死しだ者の骨を拾う者はおらぬぞ」

「心配はござらん。それがしは勇者達と道を共にするのだ。必ずや、生きて参ろう」

 ロバートの表情は自信に満ちていた。

 モゼスは肩を竦め、呟く。

「あてにされても困るがな」

「勇者は我々のみではございません」

 ルイスはモゼスの隣でそう呟いた。

「ユリアの力をお借りできるならば、心強い味方となりましょうが」

「……あいつか。しかし、姿が見えんな」

 モゼスは周囲を見回す。

「俺が探してくるとしよう」

「よろしいので? あなたとユリアの間柄はいかんせん……」

「余計な世話だ。あいつには旅立つ前に一度話をせねばならんからな」

 そう言い残しモゼスは宴の席を後にした。

 よもや旅立つ前に刺されることはあるまいと思いながら、ルイスはその背を見送った。



 城主の居館には外に突き出た露台がある。そこからは晴れた月がよく見えた。

 時は夜更け、ユリアがアカネアで迎えた、五日目の晩である。

 この館にユリアは部屋を与えられている。

 彼女が望む限りはここにいられるという。しかし、まことに城に留まってよいものか。ユリアは未だに考えを巡らせていた。

「宴の日に、酒も飲まずにいるのか」

 その声にユリアは振り返らず答える。

「……飲んだよ。おいしいの、あれ」

「妖精にも酒は効くというが、エルフは特に酒に弱いのではあるまいか」

「あなた、私の他にエルフを知ってるの?」

「さあな」

「何の用?」

 ユリアは苛立って振り返った。

「別れの挨拶だ」

 モゼスはユリアの隣に立った。

 彼が帯びる酒気にユリアは顔をしかめる。

「別れって……」

「俺はカロンへ行く」

「……そう。それだけか」

「お前はなぜ、騎士になった」

「あなたに話して何になるの」

「そりゃ、そうだな」

 そのときイザベルは一人、寝室へ戻ろうと廊下を歩いていた。

 ユリアとモゼスの話し声が聞こえたのは、ちょうどそのときであった。イザベルはそっと外の露台を覗き見た。

「……私は早くに母を失ったから。そうして生きるしかなかった」

「そうか」

「昔の話だ」

「そうか……」

 夜の空気は冷たかった。モゼスは目を瞑り、それから長く沈黙していた。

 ユリアは彼が眠り込んだものかと思った。だが、モゼスはやがて、口を開いた。

「……お前の師を殺したのは、やはり俺だ」

 ユリアは大きく目を見開いた。

「俺がやつの仕事を邪魔立てし、結果としてやつの生は終わった。俺が殺したのだ」

「なにを、今更」

「俺を憎むのなら、ここに剣を持って来い」

 ユリアの口から、クッ、と笑いが漏れた。

 笑いは徐々に大きくなり、取り繕いもせずユリアは大笑していた。

「阿呆だ。私はもう、どうだっていいのに。あなたのことも、師匠のことも、何もかもがどうでもいい!」

 月明かりは清々しく、廊下に立つ姫君には色濃い影を落としていた。

 ユリアはその夜、やけに饒舌であった。

「ああ……私も本当ならば何かに怒ったり、悲しんだりするべきなんだろう。だけど私は所詮人の振りをしているだけの妖精なんだ。だからあのように容易く師匠を殺せたんだ。私の胸の内にあるのは、虚しさだけだった。師匠は弱くなってしまった。あなたに師匠が負けるも当然のことだった。私はただ、それを確かめたかっただけだ。初めから復讐心など私の中には存在していなかった……!」

 ユリアという少女の言葉には、常に虚実が入り乱れていた。己でも何が本心であり、何が建前であるかを理解しないのであろう。

 今、己がどのような表情をしているかさえユリアはわからずにいるのだ。

「だから、ごめん。ごめんなさい……。私は気まぐれであなたを殺そうとしたんだ……。ただ、それだけだったんだ……」

「お前が、俺に謝罪をせねばならない謂れがどこにあるという!」

 ユリアの肩が跳ね上がる。

 モゼスの顔を、彼女は見上げた。そこに浮かんでいたのは、いかなる思いか。その心を、ユリアはやはり量りかねた。

 ユリアはただ、物分かりがいい振りをして頷いた。かつての師に対してもそうしてきたように。

「わかった。あなたにはもう何も言わない」

「……城への滞在は許されているのだろう。充分に休め。お前にはその時間がある」

 モゼスは身を翻し、屋内に戻っていった。

 彼はイザベルの姿を見出す。

 イザベルは無言だった。モゼスもその場は何も言わず、立ち去った。

 イザベルは胸元で握っていた掌を開いて、力なく腕を下ろす。そして独り言ちた。

「ユリア。あなたを残したまま、わたくしは何処へと参りましょうか」

 気まぐれなのは常に人ではなく運命である。イザベルがユリアに情けをかけたこともまた。それがどのような果を結ぼうとも、人の情は嘘を吐けないのだとイザベルは知っていた。

(あなたが悲しむのはあなた自身に対して。それでも泣けぬのなら、わたくしはあなたを想い密かに涙を流しましょう……。あなたが失ったもの、失わなければならなかったもののために)

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