エルフナイト

寿 小五郎

第一節

 かの地アカネアを治める貴族オーデン家、その子女として生まれた愛らしき姫がいた。名を、イザベルという。

 イザベルはオーデン家当主エゼルの妹君に当たる。十二歳の折に、隣郷カロンを治めるノースモア家へと嫁いでいった。

 しかしその六年後、カロンの地には悲劇が起きた。ノースモア家の居城は吸血鬼の手に落ち、多くの領民が攫われたという。

 この吸血鬼を恐れ、多くの人々がカロンの地を去った。偉大な賢者の手により吸血鬼は封印されたが、カロンは今も滅びたまま。

 ノースモア家も既に絶えたと思しかった。しかし、イザベルのみは異なった。

 吸血鬼が封印されて後、彼女を捜していたエゼルの前にイザベルはその姿を見せた。

 カロンへと嫁ぐ以前と何も変わらない姿。変わらない、その愛らしさで。



「……美味い」

 猪の肉を煮込んだ、まだ温い温度を保ったスープにダリウスは舌鼓を打つ。

 これは狩猟の祭りの戦果だと説明された。随分と大きな猪が狩れたのだと町人は言う。町の貧民にまで供せられており、旅人である彼らも、厚意によって相伴に預かっていた。

「確かに……おいしいです」

「ほう」

 ダリウスは従者に目を向けた。

「昔のお前は、人の作った飯は口にできぬと話していたが」

「とうに慣れました。しかし、それのみではございません。どこか懐かしい味に感じられます」

 彼女は僅かに頬を染めている。

「この大猪は恐らく、妖精の森から迷い出て地上に馴染んだ獣だったのでしょう」

「魔獣の肉など、食ったこともなかったな。食おうとしたこともあったが、やつらはすぐ灰となって消えてしまうから、手に負えぬ」

「私には逆に、人の口には合わないものかと思えましたが」

「人間は何であれ口にする。毒物ですら薬に変えねば生きていけぬのだ。食材の調理とて原理は同じだとも。人はとかく食事に凝る」

 ダリウスは眼を細める。

「お前が私と共にやってきて、何年になる。ユリア」

「八年になります」

「私が調理したものをお前が美味いと言ったことはなかった。いささか、寂しいものだ」

「あなたの剣は私の体に馴染んだのだから、よいではございませんか。師匠」

 ユリアはそう言って、微かに笑っていた。

 彼女の顔はフードに隠れている。しかし、表情は比較的読みやすい方だった。

「……ああ。そうだな」

「いかがなさいました」

 問われ、ダリウスは目を背ける。

「我が弟子よ。お前は私を正しいと思うか」

 その意味を、彼女は解さなかった。

「……と、申しますと」

「私はその実、恐れているのだ」

「……?」

 フードの奥に潜む少女の冷たい色の瞳が、やにわに問い掛けた。

 何をそれほど恐れるものか、と。

 アカネアの町、その大通りで人々に紛れ、腹ごしらえをする異郷の騎士達。

 教団を守護する騎士団に所属するこの二人は、父子に似て代え難い絆を持つ、師弟関係にあった。ユリアは若くして騎士と認められながら、ダリウスの従者として共に騎士団の任に伴っている。

 しかし、ダリウスは現在、その弟子と心を異にしていた。

「私は多くの人間を殺した。戦の中で死ねば死後に救いも見出せようが……。望まぬ形で死を迎えた者は、亡霊となり彷徨うだろう」

「騎士が亡霊如きを恐れてどうします」

「手厳しいな……。しかし私が恐れるのは、己が亡霊となり、地上を彷徨うことだ」

 ユリアは首を傾げていた。

「……私に望んだ形の死は与えられるのか。この道に正義があるならば、救われるものを」

「人が望む死の形……。その先にある救い。私は、その想念を理解いたしません」

 ユリアは外套のフードを外し、灰色の短い髪の毛を晒した。

 長く、人間離れしたその耳も共に。

「私は人ではございません。そのような私を、あなたは騎士の道へと導いてくださいました」

「…………」

「病の流行りから封鎖された村で母を失い、いわれのない理由で迫害されていたこの私を拾い上げてくださった……。そのときから、あなたは私の標となったのです」

「司法神の光は万民に加護をもたらすもの。私はその教えに従ったに過ぎない。この手は病める者、貧しい者を救うためにあった」

 その言葉にユリアは、空しい現実から目を背けるように瞼を伏せた。

「私にはそれすらわかりません。私には神というものが、未だにわかり兼ねます」

 そう語る少女は、いったい何者だったか。

 エルフ……人間とは隔絶した力、隔絶した感覚を備える、エルフなる妖精である。

 その妖精の仔細はダリウスとて知らない。しかし妖精の子たるユリアには、人が奉ずる神への崇敬など持てぬのかもしれなかった。

 たとえそうであれ、ユリアが強力な騎士となったことは疑いようがない。その事実のみが師であるダリウスにとって意味成すことだ。

 信仰を解さずとも、殺しの腕さえあらば、彼らの使命は果たせるのだから。

 風に冷たくなったスープを掻き込み、ダリウスは立ち上がった。

「ここで待っていろ。そして私が戻ることがなければ……ユリアよ。騎士団の使命は忘れ、自由に生きるがいい」

「何を、らしくないことばかり」

「未熟者のお前に私の代わりは務まるまい。師としてその身を案じているに過ぎん」

「師匠……」

「直ぐに片づけてくる」

「……はい。司法神の加護がありますよう」

 儀礼的な祈りのために伏せた瞼を開くと、師の姿は既になかった。

 ユリアは曇天の町の中に取り残された。

 そして遂に師は、帰らなかった。



 グレンステル王国の北部に広がる平野には、通商で栄えた都がある。その地は古くから、アカネアと呼ばれていた。

 規模は王都に及ばずとも町の歴史は古く、長き平穏の中にある。

 この地を治める貴族、オーデン家の姫君はどのような人物か。

 それこそがイザベル姫。カロンの悲劇より帰還を果たした貴人である。

 今、オーデン家の当主は戦で遠き地に居る。イザベルは当主たる兄より賜った命により、領地の治安を守る任に就いていた。

 その容姿は、まるで少女。

 カロンに嫁いだ八年前とまるで変わらない幼い姿であった。

 事実、この日イザベルに謁見した旅人は、こう放言した。

「お主が、アカネアの姫君か。これはまた、随分と愛らしい領主がいたもの」

 イザベルがアカネアの地に帰還してはや二年。このようなことを放言する者は随分と久しかった。

 その老人はあくまで旅の者であり、アカネアの地に縁なき者であれば、致し方ないことともとれる。しかしあまりにも礼を欠いた発言であった。

 領主玉座に座すイザベルの傍に控えし騎士は、有無を言わさず帯剣を抜いた。

「下郎……開口一番に宣う言がそれか。即刻首にしてくれる」

「控えなさい、ロバート」

 イザベルは涼やかな声と共に手で制した。

 騎士ロバートは頭を垂れ、言われるままに剣を収める。その騎士は年若いが、眉間には既に幾つものしわが刻まれていた。

 姫君は微笑みを湛えながら名乗る。

「改めまして……わたくしの名はイザベル。戦勤めを果たしている兄の名代として、領主の務めを果たしております」

 旅の老人もこうあっては律儀に礼を返す。

「我が名はモゼス。放浪の騎士に過ぎない身であるが、このように目通りが敵い恐悦至極」

「存じております、勇者モゼス」

「いや、勇者などとは恐れ多い」

「謙遜なさらず。あの猪は町中の男の手にも負えなかった厄介者でございました」

「猪めは山越えの邪魔だったものでな……。通りがかりに相手しただけのこと」

 クククと老人は喉を鳴らした。

 老人であれ、騎士は只者ではあり得ない。幼き頃より剣を握り、超人に至った者。その力こそが騎士の証であった。

「俺はこの国の出だが、戻ってくるのは随分久しいこと。この郷に何があったかも、とんと知らぬ。なにゆえお主のように幼き者が名代を……」

「いいえ。本来であれば、わたくしはとうに成熟しております。しかしこの体は幼いまま、変わることはないのです」

 イザベルは悩ましげに己のことを話した。

「そのことにも実感はございません。十二の頃にわたくしはカロンの地の領主家へと嫁ぎ、その先の記憶は全て失われておりますゆえ。二年前、気が付けばこのように」

「呪いか」

「左様でございます。恐らく吸血鬼の……」

 その途端、モゼスは険しい表情となった。

「吸血鬼と言ったか!」

「あなたは、吸血鬼に因縁がおありで」

「……そうだ。よもや、お主は吸血鬼に血を送られたのではあるまいか」

 剣の柄に手をかけるロバートを制しながらイザベルは反論する。

「まさかのことでございます。わたくしが、吸血鬼の眷属になったと仰せで」

 言い返され、モゼスは唸りを上げた。

「……いいや、あり得まい。不死の力により老いを逃れることはあれ、幼くなりはしない。因果は別にあるか」

 その見識は、要を得ていた。イザベルは胸を撫でおろす。

「あなたが賢い御方でよかった」

「失敬をした。しかしなぜ吸血鬼などと」

「……それは二年前、カロンの地が吸血鬼に滅ぼされたゆえでございます。わたくしは、かの地から生き延び記憶と時を失ったのです」

 イザベルはこのように風変わりな姫君であるが、貴族としての評判は名高いもの。

 騎士ではないが、魔法については幼くから才覚があった。その才覚こそが、幼さという枷を負う今のイザベルの武器となっている。

 昨年はその魔力により盗賊の首魁を討ち、兵を驚かせた。兄君より名代を任じられたのも、その功績がゆえである。

 何より、イザベルは領民に慕われている。公平で知恵のある貴族として人々に知られていた。概ね、イザベルとはそのような人であった。

「モゼス。あなたがこの地を訪ねたことも、吸血鬼の噂を聞いてのことでございましょうか」

「詳しくは知らぬが、『カロンの吸血鬼』とやらが甦ったと聞いた。そやつは町から人を攫い、西の森へと消えゆくそうではないか」

 彼はその目で噂を確かめんとしたが、森への道は兵士に塞がれていた。領主の城を訪ねたのはそれゆえだと、彼は事情を話す。

「不便をおかけします。今は検分の最中にて、西の森への立ち入りは禁じておりますゆえ」

「それは兵士から聞いたわ。俺は己の眼で、吸血鬼を確かめねばならないのだ」

「……お諦めになってくださいませ。そも、吸血鬼がこの地に現れることなどはございませぬ」

「なにゆえだ」

「人がこの地に移り住んでから妖精が現れたという記録はございません。古くより、この地には強固な結界が敷かれておりますから」

「……あの大猪は魔性を纏っておった。妖精が変じた魔獣だったのだろう。その結界とやら、用を果たしておらぬように見える」

 イザベルは眼をにわかに眇めた。

「あなたは魔術に通じておりましたか……」

「もはや生かしては帰せぬ」

 側近の騎士はすらりと剣を抜いた。

「控えなさい、ロバート」

「しかし……!」

 その間際、謁見室の扉が賊に蹴破られた。

 闖入者に皆、呆気に取られる。

「オーデン家のイザベル。お命頂戴する」

 近衛に立つ兵士とて、弱卒ではあり得ない。しかして暗殺者はその手に近衛兵の首を持つ。異様な気迫を纏う戦士であった。

 その者は、騎士なのだ。

「曲者ッ!」

 ロバートが斬ってかかるは早かった。

 暗殺者は兵士の首を放り投げ、ロバートと剣を合わせた。敵の気迫は只事ではない。

(なんだ、この怖気は)

 やや距離を取り、その怖気ごと貫くようにロバートは渾身の刺突を繰り出す。

 暗殺者は剣を正面に構え、突きを防ぐ。

 その干戈の響きの後に、見事にロバートの剣は折られていた。

「なんと……!」

 ロバートは板金を蹴られ、床に倒れ伏す。

「この場に居る者は、皆殺してくれる。己の運命を恨め、力なき騎士よ」

 同じ騎士であれ、ロバートとこの暗殺者が持つ力には絶対的な差があった。

 暗殺者の手にあるは魔剣。それが証拠に、ロバートの剣を折ったその刃には一切の傷が見られぬ。常ならばあり得ざることだ。

 その魔剣がロバートの首に降り下ろされる。

 このままでは、姫君の血が魔剣に濡れるは必定。

(無念、姫様……!)

 ……だが。もしもこの場に、もう一振りの魔剣があったならば。

 干戈の音が響き渡る。同時、凄まじい光が謁見室に迸った。

 魔剣が宿す、妖しき光であった。それこそ魔力の触媒たるマナの輝きであれば。

「おのれ、その剣は!」

 暗殺者は慟哭した。

 死の刃を防いだもう一振りの魔剣の使い手は、剣をせめぎ合わせ不敵な笑みを浮かべる。

「魔剣の使い手同士が見えるとは思うまいか、若造!」

 その者はモゼスであった。

 魔剣は多くの場合ドワーフの作。容易には手に入らぬ逸品である。しかしそれゆえに、強大な妖精の魔力を宿していた。

 剣を互いに弾き、両者は睨み合う。

 その間際、瞬く光の矢が暗殺者を襲った。魔剣が矢を防ぎ、煙を燻ぶらせる。

「あなたは何者ですか。誰の下知を受けて私の命を狙っておりましょう」

 イザベルは魔法の杖を暗殺者に向けながら問い質していた。

 光の矢は魔術師が用いる力の一つである。弓矢を用いず遠くに矢傷を与える術であるが、それも魔剣には通じぬ様子。

 暗殺者が返す言葉は単純だった。

「死にゆく者への答えなど、ありはしない」

「話は通じぬようだな」

 厄介なことだとモゼスは肩を竦めた。

「ならば俺がこの賊を討ち取ってみせよう。なに、これも行きがけ。下がっておるがいい、姫君よ」

「感謝いたします」

 事ここに至ってはイザベルも礼を述べ、魔剣を持つこの放浪騎士に暗殺者の相手を頼むこととした。

「ロバート、兵を呼びなさい!」

「くっ……承知いたしました」

 旅人に姫君の命を守らせるなどこの上ない屈辱。ロバートは苦汁を飲み謁見室を去った。

 イザベルは下手には動けぬ。暗殺者に背を見せればすぐさま刃が飛んで来よう。

 杖を握り、彼女は静観に入る。同時にこの放浪騎士の力量を見定めんとした。

 騎士の間に張り詰める緊張の糸が極まる。

 再び光が迸った。魔剣が合わさったのだ。しかし、今度はモゼスが押される。

 騎士の膂力は常人の数倍あるいは数十倍に比するとされる。しかし、その強靭な肉体も老いと共に衰えるものであった。

 剣圧に耐えきれずモゼスは剣を手落とす。

「弱卒!」

 すかさず斬りかかる魔剣をモゼスは籠手で防ぎ、後退する。その籠手は無惨に砕けた。

 この瞬間、モゼスは魔法を発動する。

 懐から取り出したる黒曜石が剣の形を取り、モゼスの手に収まった。

 それは変成の魔法。暗殺者は眼を剥く。

「それも魔法か。世には様々な奇妙がある。しかしそのような玩具でなんとする!」

 モゼスは石の剣を投擲した。

 暗殺者は魔剣を振るい、石の剣を砕く。

 すれば、どうだ。砕けた石の一片一片が、今度はナイフに変わり暗殺者を襲った。

 暗殺者は身を縮め、辛うじて刃の嵐を躱す。

 その隙が命運を別った。モゼスは暗殺者の横を転がり抜け、剣を拾ったのだ。

(……姫君の首はがら空き! しかし!)

 暗殺者は判断を迫られ、そして背後の敵を迎え撃つことを選ぶ。

 モゼスは更なる石の剣を取り出し、斬りかかった。その手に戻った魔剣との双剣にて。

「こ、小癪!」

「暗殺者如きに劣るようでは吸血鬼の首など狩れんわ!」

 石の剣が大きく振り上げられる。

「吸血鬼だと、ふざけたことを……!」

 暗殺者はその一刀を防いだが、次の間際、血飛沫と共に右腕が宙に踊っていた。

 魔剣が空しい音を立てて床を滑る。

 暗殺者の血に濡れた剣を片手に、モゼスは再びイザベルを庇う位置に立った。

「曲者だ! 出会え! 出会え!」

 謁見室の外から騒々しい声が迫る。

「……潮時か」

 暗殺者は片腕で煙筒を放った。

「出会え!」

「な、なんだ、見えん!」

 兵士が謁見室に雪崩れ込む。煙幕に巻かれ、曲者の姿を捉えることは困難であった。

 煙が晴れると、暗殺者は姿を消していた。剣と、片腕を置き去りに。

「何を呆けている! 探せ! 必ずや捕らえ、曲者の首をここに差し出すのだ!」

 ロバートの指揮に従い、兵士は慌ただしく去っていく。

「ロバート、大儀でございます」

「はっ……。しかし、それがしは姫をお守りできずに」

「責めは言いません。わたくしはしばらく、居館に控えることといたします。かの騎士も客人として通しますが、構いませんね」

 それはモゼスに投げかけた言葉でもあった。彼は頷き、またロバートも頷く。

「はっ。当然のことにて」



 ……後日。

 謁見室から血痕などは全て消え失せていた。モゼスは再びここに呼ばれ、イザベルの前に跪いた。

 ちらと見やれば、昨夜は眠れなかったものか、イザベルの目元が僅かに赤く腫れている。

 さもありなん。昨日の話を聞く限り、イザベルの本質は少女と何ら変わりはない。しかしながら彼女は気位を保ち、粛々と告げた。

「昨日はお助けいただきました、モゼス殿。わたくしから最大の感謝を」

「勿体なき言葉」

 モゼスは感情の伴わぬ声でそう述べた。

「褒美を取らせます。ロバート、あれを」

「はっ」

 イザベルはロバートの手から一振りの剣を受け取る。

「モゼス、近くに」

「うむ」

 そしてイザベルからモゼスへと、その剣が手渡された。

 それは、暗殺者が使っていた剣であった。しかし剣よりも鞘に目を引かれる。そこには豪奢な装飾が施されていた。

 モゼスは引き下がって刃を抜いた。魔剣は疲れを知らぬ剣だ。つい昨日死闘を演じたにも関わらず、刃こぼれ一つ見当たらない。

「ありがたく受け取っておこう」

 モゼスは剣を鞘に収めた。

「して、賊は捕らえられたか」

「いいえ。正体も明らかではなく」

「あれは、ケインズ病院騎士団の手の者やも知れんな」

「ケインズ……知らぬ名でございます」

「この頃は司法神一柱を奉ずる教団が勢力を増しておろう。ケインズ騎士団とはその一角。政敵に暗殺者を送り排除すると聞く」

「ああ……たしかオーデン家は教団の僧侶が武装することを禁じておりますから」

 イザベルは神に対する了見を持たないが、それにつけても、と彼女は思う。

 民が偉大な神々に救いを頼むのは当然の理。アカネアの町にもいくつかのカルトがあるが、司法神の教団は特に多くの信徒を得ていた。

 かの教団に属する修道僧は医師でもあり、イザベルも過去に幾度か世話になった記憶がある。かつて疫病が流行していた際、積極的に患者を受け入れ治療を試みたのも教団であった。彼らは決して悪党ではない。

 しかし同じ信仰を持つ者であれ、己の病を癒す者もあれば己に刃を突き付ける者もいる。その事実がイザベルには空恐ろしかった。

 何事にも善い側面、そして悪しき側面はあるものだ。殊更に、そう思えた。

「旅の御方の話は貴重と存じます。その騎士団には、充分に気を付けることといたしましょう。重ねて、あなたにお礼を」

 イザベルは玉座の上で深々と頭を下げた。

「随分としおらしい。俺はそこまでのことをお主にした覚えはない」

「お兄様に代わってこの地を治めるわたくしが、倒れるわけには参りません」

 イザベルは張り詰めた声で言にしていた。

 モゼスは瞼を重く伏せる。

「戦か。どいつもこいつも、聖戦だと煽り立て、蛮族との戦に駆り出されている。俺には縁のない話だが」

 イザベルとて、兄にはまだ城に居て欲しく思っていた。しかしそれを許さぬ時勢もある。北西の島に住まう蛮族は大陸に覇を唱えんと上陸した。これに対し、大陸の国々は連合を組んで打倒せんとしている。グレンステルもまたそこに与する国の一角であった。

 オーデン家は今や、グレンステルにあって隠れなき名家。この戦の参集に応じなければ臆病者の誹りは免れなかった。

 イザベルはなるべく臆病を口にせぬようにしている。しかし今のは、臆病の裏返しと取られることだろう。彼女は居住まいを正した。

「……今の言は忘れてくださいませ」

「よかろう」

「して、昨日の用件につきましては」

 モゼスの眉が持ち上がった。

「西の森へ行けるか」

「はい。……どうも、斥候の帰りが遅い様子。何かがあったのやもしれません」

 イザベルがそう述べると、場の空気は固く張り詰めた。

「これよりはわたくし自ら西の森へ検分に向かいます。あなたには護衛を願いたく」

「護衛だと? なぜそのような話になる」

 モゼスは心底から面倒だという顔をした。

「この城の守りも、万全とは言い難い様子。今はあなたのような強い騎士を側に置くのが無難なことと思い」

「保障はできんぞ」

「善事は急ぐべきです。ロバート、あなたは小隊を率いなさい。そして……ルイスもここに」

「はっ」

「馬車の手筈も願います」

「承知」

 応えるや否や、ロバートは素早く謁見室を離れていった。

「仕方なし」

 と、モゼスも腹を据えた様子。

 すぐに兵士は参じてきた。ロバートを含め、六名の組となっている。

 そして、ローブを着込んだ謎めいた少年。

「あの若造は一体」

 モゼスの訊ねに、イザベルは軽く頷いた。

「彼はルイス。かねてよりこの城を訪ねていらした旅の魔術師でございます」

「若造が魔術師とな」

「二年前に、カロンの吸血鬼を封印なされた賢者のお弟子様と聞き及びます」

「ほう、吸血鬼を封印した魔術師がいたとは」

「はい。しかし……」

 イザベルは言葉を躊躇う。

「彼はその師の使い魔の報せで、この城を訪ねられたとの仰せにございました。吸血鬼が、甦ったと」

「なんと」

 イザベルは確かに吸血鬼は甦ったと言った。それは先日の彼女の言と異なる。

「なぜ甦った」

「昨日、アカネアには結界があると申しました。それはしかし、破られております」

 イザベルが語った真実は、次のようなことであった。

 アカネアと呼ばれしこの地は本来、異界と深く繋がる場所であった。人から魔境と恐れられし妖精の楽園であったともいう。

 オーデン家の祖はこの地の外縁に築きし五基の塔によって異界から流れ込む膨大なマナを制御し、結界を成した。異界と共に妖精は去り、これを以って現在の都市たるアカネアは築かれたのだ。

 二百年続いたその結界が破れしは、一人の魔術師の仕業であった。

 魔術師が町の地下の祭壇で発見されたときには、邪悪な儀式に全ての魔力を注いで死に果てていたという。その目的は素性と共に、不明のままである。

 結界を形成する五基の塔には魔術師の呪いによる鎖がかけられ、アカネアの結界はその機能を剥奪された。これが、現在に至る経過である。

「アカネアの結界が破れたことで現世と異界の繋がりが強まり、吸血鬼を封じていたカロンの地にも影響が及び甦らせたものと考えられます」

 結界が破れたことは秘事である。未だ明かすべき段階ではなかった。

 まして旅人になど。しかし、事情は変わったのだ。イザベルはその旅人を信用し、このアカネアに起きている異変を今、詳らかにした。

「結界を元に戻す手はないのか」

「かつてはございました。しかし今は失われております。魔術師が栄えていた時代の古きマナ……。アカネアの結界はその力によってしか干渉できませぬ。あるいは塔を封ずる儀式にはその古きマナが使われたのやもしれません。しかし古きマナは非常に不安定な素材でございます。強大な魔力の持ち主でなければ扱えませぬ。我が一族もかつての魔力を長き歴史の内に失っております……。手立ては、ございませぬ」

 イザベルはそこで、魔術師の少年を見やった。

「ルイス、あなたは塔の検分に走っておりましたが、見出すものはございましたか」

「この場で言上いたします」

 若き魔術師ルイスは恭しく礼をして言う。

「イザベル様の見立て通り、塔を封ずる鎖は賢者に比肩する魔力と古きマナによってその形を成しております。無念ながら、解呪は敵いません。面目もございませぬ」

「いえ、苦労にございました。これよりは、喫緊の懸案である西の森の怪人の正体を検めます。ルイス、あなたも供を願います」

「これは、またとないこと。この身が帯びる使命とは他ならず、吸血鬼の再封印を果たし師の仇を取ることにございますから」

 魔術師ルイスの眼は、昏い意思に燃える。己を見ているようだとモゼスは思った。

 そのモゼスの目に気が付いたか、ルイスは姿勢を改めて笑みを浮かべた。

「あなたが、モゼス殿ですか。噂は兼ねてから聞いております、この難事にあるアカネアで出会うは、よき運びと言えましょうか」

「噂とはなんだ」

「モゼス殿は有名な吸血鬼狩りかと存じます。旅の間でたびたび耳に挟みましたが」

「そんな風に言われていたとは知らなんだ」

「わたくしもとんと知らない噂でした……」

 イザベルは驚く様子を見せた。

「もしそうと知っていれば、初めから森へと案内していたやもしれません」

「よもや。それに、風聞は風聞だぞ」

 モゼスは遠慮せず溜め息を吐いた。

「この手で殺し切れなかった吸血鬼も数多い。こうして俺が生きていられるのは単に運気が働いたからよ」

「運が強いのは良きことかと存じます。わたくしも、その運にあやかることといたしましょう」

 その軽口を締めにイザベルは立ち上がる。

「それではこれより、西の森へ向かいます。まずは先に送ったマーレ隊との合流を目指し、その後に森に潜む賊を探ります。敵はカロンの吸血鬼であるやもしれません。油断はなさりませぬよう」

 待ちかねた兵士達が「はっ」とイザベルに呼応する。

 そうして最初の冒険は始まった。モゼスは姫君と馬車に乗り、西へ。

 その後を追う影と共に。



 秋の空気は空寒い。従卒の兵士と共に馬車を警固しつつ歩を進めるロバートの耳には、幌の中の会話がにわかに漏れ聞こえている。

「聞きそびれておりましたが、モゼスはなぜ吸血鬼を追っておられるのでしょうか」

「……それは、易々と人には語れぬことだ。許されい」

「いえ、構いません」

「あっさりと引き下がるな、姫君よ」

 幌の中のモゼスは、設えられた座席の正面に座るイザベルをじっと見た。

「野暮はいたしません。誰にも触れられたくない勘所はございましょう」

 それきり、イザベルは静かに目を閉じた。

 眠っているのかと思えたが、馬車の揺れはそれほど快適ではない。たとえその中であっても、イザベルの姿勢は常に正しい容を保っていた。

「……僕には」

 モゼスの隣に座すルイスが呟く。

 彼は背を丸めながら、上目遣いにモゼスを覗き込んだ。

「どことなく、わかる気がいたします」

「ほう、言ってみろ」

「僕には師の仇という大儀がございまする。おそらくモゼス殿の儀も似たようなものではございませんか」

「…………」

 モゼスは認めずとも沈黙した。

「しかしモゼス殿は、僕より遥かに長く吸血鬼を追っておられるご様子。その知識と経験を、是非お教えくださりませぬか」

「お前がその賢しらに見合う魔術師ならば、話してやることもあろう」

「はあ、よろしいので。ならば一層の努力をいたしましょう」

「ルイス殿は、勉強熱心なことで」

 イザベルはふと笑みを見せた。

「生粋の魔術師というのは知識を得るために墓を暴くことも厭わん連中よ」

 モゼスはそう腐した。

 魔術師が知識を学ぶのは、驚異の存在から人々を遠ざけるためでもある。その行ないを世間は厭うが、悪しきこととも限らない。

 少なからずモゼスもそうした傾向を持つ。吸血鬼を憎むがために、人より多く吸血鬼についてを知っていることも事実だ。魔術師がその知識を欲することとて、不思議ではない。

「わたくしも魔術師ではございますが……。生粋とは、程遠いのやもしれません」

 イザベルは、そのように述べていた。

 と、そのとき、馬車が大きく揺れた。

 馬車はその場に停止し、外からはにわかに兵士の声が聞こえてくる。

「何かございましたか」

 イザベルが幌から顔を出すと、ロバートが急いで告げた。

「前方に倒れ伏したる者がおります!」

「まあ……」

 気付けば馬車は森の中に入っていた。

 森道の道端に、細く真赤な血を流しながら伏せる者の姿が確かにある。

 鉄の兜を具した男の姿であった。

 同輩らしき兵士の一人が男に駆け寄って、助け起こそうとしている。

「意識がある。おい、返事をしろ!」

「だ、誰か……いるのか……」

 男の顔は蒼白であった。その命は、もはや風前の灯火のように見える。

「き、吸血鬼が……。このことを姫君に……伝え……」

 男は事切れた。

 騎士ロバートも、確かにその声を聞いた。彼は呻く。

「今、確かに吸血鬼と」

「やはり……」

 やはりと言いながら、イザベルは目の前の犠牲を見て、信じられぬような気持ちが勝った。

 一方モゼスは冷静に死体を見つめた。このような死体は飽くほどに見慣れている。

「この男はいったい」

「覚えがございます。言葉数は少なくとも、実直に物事をこなす兵士でした」

 イザベルは死体の傍に跪き、冷たくなった男の手を取った。

 その頬には涙が伝う。

「大変な役目を負わせました。どうかお眠りになってください……」

 ……貴族が兵士の死一つに涙を流すなど、馬鹿げているとモゼスは思う。

 そして、この姫は自らの死よりも他者の死をこそ恐れるのではないかと。

 それは慈愛か、あるいは、亡霊の声を聞く魔術師の宿痾に囚われているのか。

 魔法とは人の歴史において災害や病、妖精などといった驚異の事象に抗すべく重用された力である。

 そしてその驚異には、人の亡霊も含まれる。ゆえに、亡霊が眠りに付けるよう導く役目も魔術師は負っていた。

 しかしその役目は、人と人とが相争い徒に亡霊を増やす時代においては生き辛いものとなる。古くは魔術師が貴族となり驚異を退けたが、今の世の貴族とは騎士のことであった。

 オーデン家も元は魔術師の家系でありながら時代に応じて変容し、騎士を輩出している。イザベルは稀な子であった。魔術師らしくあり、しかし時代にそぐわぬ精神を育んでいるのだ。

「……姫様」

 ロバートが駆け寄って姫君に声をかけた。

「ロバート……。ええ、わかっております。しゃんとしなければなりません」

「今はよろしゅうございます。それは正しき人にしか宿らぬ心でございましょう」

 主従は少ない言葉を交わした。死者の元を離れ、イザベルは周囲の兵士を見回す。

「祈りは済ませました。死体の移動は後に。今は先を急ぎましょう」

「待て」

 モゼスが張り詰めた声を上げた。

 閑散とした森道に、冷たい風が吹く。

「モゼス殿、何か感じましたか」

 ルイスの問いに、モゼスは視線をくれずに頷きだけを返した。

「そこで見ておるな。姿を現せ」

 木陰から声が返る。

「……気取られたか」

 ぬらり、と影が現れた。

 手には小剣を抜いている。目深にフードを被った、小柄の人物である。

 その存在を、ルイスは空恐ろしく思った。

(凄まじい妖気。この気配を隠し、ここまで尾けてきたか)

 あるいはこの娘の魔力、師にも劣らぬか。ルイスの背に冷たい汗が流れた。

「お前……何者だ。ただの人間ではない」

 吸血鬼か。凡そ、そうであろうとモゼスは確信し、剣の柄に手を掛けた。

 その手元に、フードに隠された妖しき者の視線が吸い寄せられた。

「……それは、師匠の剣」

 漏れ聴こえた声は、微かな驚きと戸惑いが混じり合っていた。更に、高揚も。

「そうか。貴様が、殺したか……」

 外套のフードを取り、妖しき者は顔を晒す。灰髪と長い耳の少女であった。

 モゼスはそのとき、忘我の淵に立った。

「お前は……」

 八年もの歳月追い続けた吸血鬼のことも、この時ばかりは忘れ去った。

(なぜだ)

 なぜならば。なぜならば。

(なぜ、お前がここにいる)

 それは己の人生から余分として切り捨ててきたもののはずであった。

『とうさん』

 空白から古い記憶が浮かび上がってくる。森の中の小さな庭。草と土の匂い。青い空。まだ幼い……。

「ユリア、なのか」

「なぜ私の名を知る」

 あっ、と声を漏らす。モゼスは額を抑えつつ、何事か必死に考えを巡らし、やがてこう答えた。

「お前の師匠とやらが、口にした名だ」

「そうか。師は最期に、私の名を呼んだか」

「待て、待て! 師匠とはどういうことだ。なぜ暗殺者の弟子になどなった!」

「これ以上交わす言葉はない。我が師の仇、取らせてもらう」

 ユリアの小剣が陽光を受けて白く閃いた。

「やるしかないというのか!」

 モゼスは武器を抜いた。彼の剣ではない。『師匠』の剣だ。

(悪いが、使わせてもらうぞ。お前には俺の呪われた剣は向けられん……!)

「曲者」

 ロバートがモゼスの隣に立つ。

 彼は槍を手にしていた。それは実際、彼が得手としている得物だ。

「……命は取るなよ」

「風来坊が指図をするな。まず手加減が効く相手かどうか。兵はひとまず、下がっておれ。騎士の相手が務まるものではあるまい」

「はっ……」

 ロバートの指揮に従い兵士達はイザベルの周囲を固める。

 イザベルはそのときふと、少女がこちらを見やったように感じた。

 奇妙な感覚だ。だが気付けば、少女は再びモゼスの方を見据えている。

「行くぞ」

 ユリアが地を蹴ると同時に、二人の騎士が前に立ちはだかった。

 突き出された槍を舞うように躱し、小剣を振るう。少女の細腕が放つ切っ先は淀みなくモゼスの喉を狙った。

 モゼスはそれを辛うじて躱し、舌を打つ。

(やはり人とは違うか!)

 隙が生じたと思い踏み込めば、またも素早い身のこなしで躱される。捉えどころを掴めぬ動きであった。

 しかしユリアの方とて二体一のこの状況、やり辛くはある。ロバートが向ける槍の先が彼女の動きを止め、次第に追い詰めた。

「取ったり!」

「……邪魔!」

 槍がユリアの手首を斬り落とさんとした、そのとき、不可思議な突風が生じた。

 ロバートは風に高木の枝まで吹き飛ばされ、そこにしかとしがみ付いた。

「な、何が起こった」

「ロバート卿、ご無事ですか!」

 地上から兵士の声が飛ぶが、ロバートには風の音でよく聞き取れなかった。

「何を見ている! 姫様をお守りいたせ!」

 一閃、少女が振るった剣を、奪われし魔剣がその刃で防ぐ。

「それは貴様が使っていいものでは、ない」

「知らんな……そんなことは! これは俺の戦利品よ!」

 モゼスは咆え、動揺を誤魔化そうとした。目の前にあるのは騎士だ。決して油断はならぬ。

 魔剣はその力を発し、淡い光を帯びた。

 ユリアは危うきを察して跳び退る。

 そこをモゼスの右脚が追い、ユリアの体を蹴り飛ばした。

 正面からの蹴りを辛うじて防いだユリアは、折れた左腕をだらりと垂らす。

 その瞳の戦意は消えない。むしろ、好奇に輝いているようでさえあった。

「あの子は……」

 戦いを見守る中、イザベルは絶句した。

 獣のようだ。仇と叫びながら、少女の目には確かに戦に対する高揚が入り混じっていた。

「これが、師を殺した者の力か」

 少女の口元に微笑が浮かび、大気に震えが生じた。地面が割れ、幾つもの礫が宙に浮き上がる。

 違いなく、それは魔法であった。

「感情に任せ力を使うか。愚かな……!」

 ここに至りモゼスも魔力を行使し、三個の石を剣に変じた。

 数多の礫が矢となり彼を襲う。

 三本の石の剣がモゼスの思念に手繰られて礫の矢を弾くが、防ぎ切れぬ。肩や腿が礫に貫かれ、血が迸った。

 霞む視界にユリアの小剣の刃が白く閃く。モゼスは流血する肩を抑え、後退った。

(このような死に方を……)

 ユリアの剣が見えざる壁に阻まれ、甲高い音を鳴らす。

 否、目を凝らせばそこには淡いマナの輝きが。モゼスの周囲には、光の壁が生じていた。

「……これは!」

 モゼスは振り返る。

 ルイスの魔法であった。彼は杖を前に掲げ、その瞳は仄かに青く光を灯していた。

 ユリアは幾度も光の壁に小剣を打ち付け、舌打ちした。

「厄介な……!」

「けして刃を通さぬ結界にて。却って戦いの邪魔になるかと思いましたが、こうなれば致し方なく」

 飄々と宣う魔術師をユリアは睨んだ。

「ならば、貴様を殺すまで」

「お待ちを!」

 声を上げたのはイザベルだった。

「もはや、この戦いは無益にございます! あまりに多勢に無勢。これ以上は……」

「貴様は何者だ、小娘」

「そんな、小娘はあなたも同じかと」

「お下がりください、姫!」

 木の上から声が響いた。

「やはり……貴様がアカネアの姫君なのか。なぜだ。なぜこのような者の為に、あの人が死ななければならなかった」

 この暗殺者は移り気が多い様子であった。しかしその身が帯びる使命を思い出したか、瞳から光が失せた。

「覚悟、イザベル。その命を貰うぞ」

 その間際。

「ぐわっ!」

 突然の悲鳴が上がる。ユリアは信じられぬ光景を見ていた。

「……なんだ、あれは」

 兵士の死体が、動き出している。二度とは動かぬはずの死者がその足で立ち、同輩の兵士の肩に喰らい付いたのだ。

「な、何をしている!」

 異常に気付いた兵が死体を引き剥がした。

 否、それはもはや死体などではなかった。不死と呼ぶべき怪物である。

 不死は凄まじき膂力で兵士を振り解いた。その目と、イザベルの目が合う。

 イザベルがその者のために涙を流した屍は、今、獣のように眼を光らせていた。

「なぜ……」

 不死はイザベルに喰らい付く。

 イザベルは寸でのところで杖を噛ませたが、それ以上の抵抗はままならなかった。

 ユリアは目を眇める。

(もはや、私が手を下さずとも)

 その側頭に、背後から手刀が入った。

「え……」

 意識が遠のき倒れ伏した少女を、モゼスはただ哀しげな目で見下ろす。

「愚か者め」

 姫君の方を見やれば、木を飛び降りたロバートの槍に助けられ事なきを得ていた。混沌は一先ず、治まったのだ。



「大事はございませぬか」

 ロバートの問いに、イザベルは槍に斬られた死体から目を離さず頷く。

「わたくしは無事です」

「幸いでござった」

「……ええ」

 死体には再なる異変が起きる。さらさらと灰が流れ落ち、その身が崩れていく。

「……む。死体が、灰に……」

「そやつはおそらく、吸血鬼の眷属であろう。死の間際に血を送り込まれ、不死となったか」

 モゼスが言った。

 彼は気絶した少女を荷物のように抱えていた。両者とも、傷は深いが無事に生きている。イザベルはそのことに一先ず安堵を覚えた。

「不死……死を超越する力にございますか」

「左様だ」

「吸血鬼が現れた二年前より、カロンの地は不死が蔓延っていると聞き及びます。理性を失い、人の血を求めて彷徨う怪物の群だと。それゆえ、かの地は滅びたのです」

 吸血鬼が封じられた後にも変わりはない。その魔力の影響は常に及び続けていた。ゆえに、かの地へ近づく者もまたいなかった。

「アカネアにも、そのような者が現れるとは」

「眷属となった者は吸血鬼の意思に染まる。お主を襲ったこととて、本来のそやつの意思ではあるまい。気に病むな」

 吸血鬼は血を得ることで不死の力を保つ。眷属には血を分け与える代わりに、より多くの血肉を喰らわせて己に還元するのが常だった。

 しかし不可解ではあった。人里を滅ぼす程吸血鬼が眷属を増やすことは滅多にないのだ。カロンの地の出来事はその例に漏れている。

(何か、異な目的があるか)

 合点はいかぬが、モゼスはそう感じた。

「わかっております。しかし……アカネアの兵を悪意によって操った行ないは許せません」

 イザベルは怒りを露わにしている。しかしその胸の内では、怒りよりも悲しみが勝っていた。

 心の波を落ち着け、彼女は兵士達に向けて下知を飛ばす。

「これより森の奥へと進みます。まず生存者を探し出し、救出することを第一の儀といたします」

 皆は沈痛な面持ちをしていた。しかし声は威勢よく、「はっ」と応じた。

「……モゼス。その子は野営地にて捕らえます。そのまま運んでいただければ」

「承知。……迷惑をかける」

「それはわたくしの方ではございませんか」

 イザベルはそこで、やや悪戯そうに笑った。

(……ばれている)

 もはや姫君には逆らえぬと思い、モゼスは溜め息を吐く。

 ユリアはモゼスの背で、静かに眠っていた。



 陣幕は血に染まっていた。

「野営地近くに怪しき影はありませぬ。今は心丈夫にしてよいかと」

「苦労にございます、ロバート。ルイスは」

「ルイス殿はしばらく探索を続けるとの由。それがしのみが言上に仕った次第」

「承知しました。彼は自在に任せます」

 ユリアは夢心地で各々の声を聞いている。

「一息吐けそうで何よりだ。しかし姫君よ、お主が治癒の魔法を得意としておったとは。このような魔力は貴重だ」

「この力でも治せない傷はございます。騎士の丈夫な体に感謝してくださいませ」

「これは手痛いな」

「次は……彼女の怪我を看ます。ロバート、傍に付きなさい」

「はっ……」

 つと、腕に冷たい指が触れた。

「あら……?」

「いかがなされましたか、姫」

「……既に、治っています」

 ユリアは目覚めた。

 目の前には姫君の顔があった。

「…………」

 ユリアの視線に気が付けば、困惑の色から一転してイザベルは笑みを浮かべた。

 どのような意味の笑みかわからぬ。

「私に近寄るな!」

 ユリアは顔を赤くして叫んだ。

 気圧されてイザベルは軽く後退る。

 ロバートが前に出て、槍を向けた。

「槍を降ろしなさい、ロバート。縄に付けた相手に怯えてどうします」

「こやつは魔法を使いまする。万一のことがあれば」

「事を起こせば危ういのはこの子の方です。下知に従いなさい」

「……御意」

 騎士は槍を脇に控えた。

 ユリアは周囲の状況を伺う。

 血に染まった陣幕。煌々と焚かれた篝火。草土の匂いに、どこからか漂ってくる死体の匂い。異様だが、敵地であることには違いない。

 己は、手足を縄で縛られている。

 何をしているのだと自問した。師の仇を追い、皆殺しにしてくれると決めたではないか。

「どうか、心を落ち着けてくださいませ」

 イザベルは穏やかに告げた。

「この場であなたを、どうこうするつもりはございません。今は人質に過ぎませぬ」

 声すら聞かずにおきたい女の顔をユリアは強いて睨んだ。

「あなたはケインズ病院騎士団とやらの手の者にございましょうか」

「話すことは何もない」

「知らぬのなら知らぬと言えばよいのです」

 イザベルの指摘は手痛い。ユリアは舌打ちする。

「なぜわたくしの命を狙います」

「知らないな。私は何も教えられていない」

「……知ることだけを教えていただければ、これ以上のことはせずに済むのですが」

「本当に、答えられることは何もないんだ。私の命にそれほどの価値があるものか」

 ユリアはそう吐き捨てた。

 イザベルは僅かに目線を落とす。

 この地にいる限りは死を待つ運命か。哀れな少女だと思わずにはいられなかった。

「一つ、条件をお出しできます」

「姫様……!」

 ロバートが諫めようとした。

 しかしイザベルは手振りで制する。

「……聞こう」

「今、わたくしどもは吸血鬼の退治へ向かう道中。その退治に充分な助力を成せば、あなたを自由にいたしましょう」

「吸血鬼」

 ユリアは口元に笑みを浮かべる。

「化生一匹のために己の命を危機に晒すか、イザベル。助力をすると見せかけそっ首取り、私はこの地を逃げおおせるかもしれないぞ」

「できると宣うことは、しないということに等しいかと存じます」

 ユリアは笑ったままに頷いていた。諦めに近い笑みだった。

「それでも、あなたに助力はできない。私達は所詮は敵同士だ。自由を得たところで師匠が戻るわけでもない」

「……左様でございますか」

 なら、致し方ない。過ぎた情けをかけることもできない。牢に送る他ないかと思われた。

「まことにそれでいいのか」

 と、口を挟んだのはモゼスであった。彼は自前の酒瓶を携え、酒気を漂わせている。

「モゼス……怪我人であれば、あまりお酒は」

「俺は酒を呑んだ方が早く傷が癒えるゆえな」

「阿呆め」

 ユリアは悪態を吐く。

「誰が阿呆じゃ」

「うるさい。なぜ貴様のような阿呆に師匠が殺されたのか! 阿呆、阿呆!」

「阿呆はお前だ。殺されたとばかり抜かすが俺を含め誰もやつの死にざまを見ておらん。剣はやつが片腕と共に置いていったものぞ」

「なに……!」

 ユリアはイザベルの方を見やった。

「それは、本当なのか」

「彼の言は真実にございます」

「師は逃げおおせられたのか? それなら、なぜ私の前に姿を見せない」

「やはりお前もその姿を見ていないのか」

 モゼスは呆れて頭を抱える。

「だ……黙れ。師匠は私を見捨てはしない。お前が嘘を吐いているんだ」

「頑ななやつめ」

 このままでは埒が明かなかった。

「……少しばかり、よろしいでしょうか」

 と、このとき声を上げたのは先の森道では見られなかった若い女の騎士だ。

「マーレ……。何事でしょう」

「少し、この御方とお話しを。姫様にも是非耳に入れていただきたく」

「許します」

 イザベルは場所を譲り、女騎士は長い金の髪を揺らしてユリアに頭を下げた。

「私の名はマーレ。末席ながらオーデン家の騎士の座に連なる者にてございます」

 妙に恭しい態度に、ユリアは眉を潜める。

「話を聞いていますとあなたは自らの師匠とはぐれ、その師は片腕を失っているとの由。しかし、あなたはそれが信じられないと」

「ああ、その通りだ」

「私、その御仁を見かけております」

 ユリアの目が、大きく見開かれた。

「私は人攫いの怪人を探るべく、小隊を率いこの森を偵察しておりました。そして、現実にこの森で怪人と遭遇し……」

 マーレはやや言葉を躊躇った。

「隊は、私一人を除いて壊滅いたしました。怪人とは音に聞く吸血鬼そのもの」

 血に濡れた陣幕。布に覆われ安置されている死体の匂い。この場所に起きた惨事を雄弁に物語っていた。

「吸血鬼は部下を殺し、己の血で操りました。同胞を斬るわけにもいかず苦戦を強いられ、私も膝を屈しようとしておりました」

 顔を青くしながら騎士マーレは忌まわしい出来事を語った。

「そこで吸血鬼は、どうしてか私を殺さずにいずこかへ攫おうとしたのです」

「攫う……?」

「ええ。そしてその際に現れたのが、片腕を失くした騎士の御仁でございました」

「まさか……」

「御仁は、既に自身の運命を悟っておられたのでしょうか。私を攫うならばご自分を攫えと吸血鬼に言い放ち、その言葉通りに……」

 ユリアはもはや、その男が己の師であると確信した。

「……なんて、こと」

 ダリウスは義に厚い人であった。暗殺業に関わらぬことなら、むしろ他者を助く行為を重んじていたとすら言える。

「結果として私はその御仁に救われました。あの御方があなたの師であるのなら、これも縁。私は恩を返しとうございます」

 マーレは周囲の耳目を気にせず告げていた。イザベルがマーレを咎めることも、なかった。

 そのとき見張りの兵士が陣幕に分け入り、イザベルの傍に跪いた。

「ルイス殿がお戻りでございます」

「通しなさい」

 ルイスはユリアの周囲に人が集まっている状況に訝しい表情を浮かべつつ、イザベルに頭を垂れた。

「成果はございますか」

「は……北に妖しげな洞窟があり、人攫いの棲み処と思わしいかと」

「承知いたしました。ロバート、すぐに兵を集めなさい」

「はっ」

 ロバートはイザベルの元を素早く離れた。

「イザベル様……よもや、彼女の力を借りるおつもりで」

 ユリアを見やって、ルイスが囁く。

「左様でございます」

「よきお考えかと」

 ルイスは表情に薄く笑みを含めた。

 時は近い。事ここに至って、ユリアは未だ己の行く末を定められずにいる。

「私は、何を信じればいいのか」

 ユリアには、皆目それが見当が付かない。師の導きを失い、今は自ら師を探しに行けと状況は告げている。

 それはユリアにとり、真っ暗闇に放り投げられたと同じであった。その暗闇に細く光を差し込むように、イザベルは言葉を告げた。

「あなたの心を信じてください」

 ユリアは姫君を仰ぎ見た。

「師の仇を討つと宣ったその義心は、偽りでございましたか」

「それは……!」

「これ以上は何も申せません。決心を。時はあまり与えられぬのです」

「私は……」

 惑い、その心を固める。

「……感謝を、イザベル。私はこの時限り、あなたに助力しよう」



 出立の前、モゼスはユリアに剣を渡した。ダリウスの剣であった。

「この剣は、渡しておこう。俺には二振りもいらぬからな」

 くだらない情けだとユリアは噛み付いたが、ではいらぬのかと問えば彼女は何も言わずに受け取った。

 マーレとユリアを新たに加えた隊は、森を分け入って北の断崖へと歩を進めた。

 松明の火が揺れ、洞窟に大勢の影が入る。兵士はイザベルを中心に警固しながら奥へと潜っていった。

 洞窟は予想されたより遥かに広々として、奥へと長く続いている。人が広げた地下道であるやもしれないが、誰もこの洞窟のことを関知していなかった。

「もう随分と、歩いています」

 イザベルはついにぼやいた。

「ここに吸血鬼はおりましょうか」

「この先に妖気は漂っております」

 これはルイスの言だ。魔力に優れし者は、妖精や悪鬼の気配を容易に感じ取れる。

 ユリアもその気配を感じ取っていたため、ルイスの言葉に偽りはないとわかる。

 しかしユリアは今更ながら不安であった。果たしてこの先に師匠は居るのだろうかと。己はこの人間達にいいように利用されるだけではないかとも思えた。

 それも己の足で確かめる他にないことだ。ユリアは迷いを振り切る。

 そして剣の柄に触れた。

「誰かいる」

 ユリアの言葉通り、そこには人影があった。

 松明に照らし出されたのは鉄仮面を具した男であった。ローブを纏うその形貌は判然としない。

 鉄仮面の男はこちらに歩んでくる足を止め、槍を向ける兵士達に対し一礼をする。

「あの男から妖気を感じます」

 ルイスの言葉にイザベルは眉を潜める。

「では、吸血鬼」

「いいえ、姫様」

 騎士マーレが即座に否定する。

「私が見た吸血鬼は鉄の仮面を具してはおりません。何より総身を刺すようなあの怖気が感じられませぬ」

「貴様、どこから来た。よもやカロンか」

「その通りだ、若き騎士」

 ロバートの問い掛けに鉄仮面は応じた。

「やはり。この地下道は、かつてアカネアとカロンの間に起きた抗争に使われたものか。それも百年の昔のことゆえ、言い伝えにしか聞かぬことであったが」

 カロンの城にでも記録が残されていたか。この男の素性も、大方察せられるというもの。

「私は吸血鬼の眷属である。その使いとして、アカネアに参らんとしていたところだ」

「吸血鬼がアカネアに使いを? 何用です」

 イザベルの声音は緊張した。

「交渉だ。近く不死の軍勢がアカネアの城を落としに参る」

 両者の間に敵意が膨れ上がった。

「……大儀はどこに」

「魔境だ。魔境を奪い、その地に集う妖精を己が眷属に変えることこそ、かの御方の望み」

「なにゆえ眷属を増やす」

 モゼスが唸りを上げる。

「いずれ世界を手中に治めるためか」

「よもや。眷属は神への供物に過ぎないとの仰せだ」

「神だと……?」

「然り」

 鉄仮面の内から聴こえるくぐもった声は、いっそ不気味ですらある。

「戦を避けるならば、民を生贄に差し出せ。さすればしばしの間は生き永らえよう」

「断ります」

 イザベルは即座に答えた。

「アカネアの民は先祖より我がオーデン家に守りを託されたもの。それがお兄様が継いだ意思であり、わたくしの意思にもございます」

「……そうか。ならば」

 鉄仮面は剣を抜いた。

「ここで散れ。アカネアの守護者よ」

 その間際、鉄仮面の背後に少女の影が迫る。

 完全な不意打ちを、しかし振り向きもせず鉄仮面はその剣で防いだ。

 奇襲を仕損じたユリアは舌打ちし、果敢に小剣の突きを繰り返す。

「あの子……!」

 イザベルは呆気に取られかけたが、すぐに下知を下した。

「鉄仮面の男を囲み、捕らえなさい!」

 兵士は槍を、松明を持つ者なら剣を持ち、ユリアと鉄仮面の周囲に展開した。

 洞窟内は煌々とした灯火の明かりに満ち、剣の影が壁面に踊った。

 鉄仮面は少女の剣を躱し間合いを取った。

「逃がすものか。師匠の居場所を吐けッ!」

 尚も迫るユリアに向け、吸血鬼の眷属たる男は鱗に覆われた掌から光を放った。

 洞窟にユリアの悲鳴が響き渡る。

 その全身は魔法の炎に燃え上がっていた。火に責め苛まれながらユリアは地を転げ回り、声にもならぬ声を荒げ続けた。

「ユリア……!」

 イザベルは思わずに悲鳴を漏らしていた。兵士の間にも動揺が広がる。暗殺者といえ、うら若き乙女の身を炎で焼くなど誰の目にも許せぬ非道であった。

「怪物め!」

 斬りかかる兵士を返り討ちに遭わせつつ、鉄仮面は舌打ちをする。

「いささか、遊びが過ぎたか」

 鉄仮面の男が放つ光の矢に柱が破壊され、支えを欠いた天井は崩落を始めた。

「姫様、お逃げを!」

「撤退だ! 撤退ー!」

 兵士は互いに呼びかけ撤退を始める。

「くそっ……あいつめ」

 逃げる兵士の波に逆らいモゼスは走った。その腕に倒れた少女を抱き起こし、崩落する天井を見上げる。

 ルイスが天井に張った光の壁が僅かな間、崩落を押し留めた。

 その間際、イザベルの耳には悪夢のように鉄仮面の声が鳴り響いていた。

「戦場で会おうぞ……姫君よ」



 もうもうと立ち込めた土煙が晴れていく中、イザベルは起き上がった。

「皆は……」

「て、点呼!」

 ロバートの声が響く。

 兵士は一人一人、名乗りを上げていった。マーレ、ルイスも無事であった。

 応えぬ声もあった。吸血鬼に斬られた兵は無論だ。モゼスの姿もなかった。

「ユリア……彼女も」

 これはルイスの呟きであった。声は小さく震えていた。

 イザベルは視線を落とす。

 ユリアを巻き込んだのは、己であった。その後悔の念が、イザベルの内からじわりと沸き上がった。

「おおい……」

 声が遠くから鳴り響く。

 否、耳を澄ますと洞窟の小道を塞ぐ落石を隔てた先から声が届いていた。

「……この声は」

「姫、私が見て参ります」

 意気を上げたのはマーレであった。彼女は若輩だが、アカネア騎士随一の怪力でもある。

「マーレ……慎重に願います」

「承知しました」

 マーレは落石に手をかけ、

「ふんっ!」

 と意気よい声を発すればたちまち岩は持ち上がった。兵士の間から歓声が上がる。

 造作なく岩を放り投げたマーレは、小道に囚われていた者の様子を確かめた。

「無事でおられますか」

「どうにかな……」

 モゼスは信じられぬというように首を振る。

 その腕には、消し炭のようになった少女が抱えられていた。

 マーレは少女の身柄を引き受け、モゼスは小道を這い出た。

「どうやら、生き残った者も多いようだな。重畳、重畳」

 彼は皆を見渡し、疲れ切った笑みを見せる。

「モゼス……しかし、この子は」

 イザベルはマーレの傍に駆け寄った。

 その背にある少女は、微かに息をしている。

 イザベルは少女を地面に降ろすよう命じ、ボロボロの灰となった衣服を手で払い除けた。鎖帷子は破れ、傷は中にまで及んでいる。

 イザベルは焼け爛れたユリアの肌にそっと手を触れた。

「きっと、助けます」

 治癒の魔法を試みる。

 しかし効果は一向に現れない。傷があまりに大きすぎるのだ。

「姫様……もはや、よろしいかと存じます」

 そう宣ったのはロバートであった。

「見殺しにしろと……」

「その娘は姫様のお命を奪わんとしました。その者のためにあなたが御心を砕かれることなど……!」

「言葉を控えなさい……ロバート」

「なにゆえ、なにゆえにございますか……。姫よ……」

 答えが返ることはなかった。

 もはや、全ては戻らぬのかもしれない。

 苦しみが残るだけであるかもしれない。

 だが。だが……。

「……! これは」

 イザベルは瞑った瞼を、見開いた。

 傷の治りが、速すぎる。波が引くように、火傷は消え去っていった。

 これは、イザベルの力ではない。

 ユリアの呼吸は次第に安らかになり、胸は薄く上下に拍動を繰り返し始めた。

「なぜ……」

「それが、妖精というものなのです」

 そう宣ったのは、魔術師ルイスであった。

 彼の目は驚嘆に見開かれ、しかし口元には不可解な笑みを浮かべてもいた。

「……妖精。ユリアが、妖精?」

「左様。彼女の正体はエルフ。吸血鬼と同じく、不死の力を持つ妖精でございます」

「エルフ……」

 イザベルの唇はその種族の名をなぞった。

「彼女が、エルフでございましたか。しかし、なぜ。エルフは……」

 イザベルは暫し言葉を呑み込む。恐ろしい事実を口にする気がしたからだ。

「エルフは既に、滅びた種族であるはず」

 しかし確かめずにはいられなかった。

 この大地に刻まれた足跡を。過ぎ去った歴史を。

「……左様。これは、奇跡と申せましょう。このようにして、エルフという存在が我々の目の前におりますことは……」

 ルイスは拝み奉るようにして両手を組んだ。その口前は、荘厳にすら響いた。

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