19

 

               *


いまようやく、アパートに帰ってきたところ。4限目まで授業を受けて、いつものとおり上野三郎博物館で孤独な受付係をやって、閉館したらすぐに自転車を飛ばして帰ってきた。


 彼の部屋の前を通りながら、中の気配をうかがう。何も聞こえない。耳を当てて確かめたい誘惑にかられたけど、さすがにそれはしない。部屋に戻ると、すぐにオーガニックコットンの部屋着に着替えて、しばらくのあいだ封印していた押入に向かう。ときおり、空気を通すために開けることはあるけど、じつはまだこの場所には何も収納していない。それほどモノがないっていうのが一番の理由だ。もし他に理由があるとすれば、それはどちらかというと潜在意識的な暗い呼びかけから来ているのかもしれない。


 いつもの指定席に腰を落ち着けると、わたしはフランクの穴に目を近づけた。


 隣室はキッチンのオレンジ色の光に染められていた。部屋の蛍光灯は消えている。虹彩が光の調節を完了すると、すっと輪郭が現れてきた。ベッドに彼が寝ている。とたんにぎゅっと心臓がすぼまって、急性胃炎みたいな痛みが胸に広がる。


 自殺? 


 なんの根拠もなく、そう思ってしまった。わけのわからない感情が込み上げてきて、泣きたくなる。我慢して、さらに目を凝らしてみる。


 あ、動いた。佐伯くんが毛布の下で寝返りを打った。


 身体の力が抜けて、呼吸が楽になる。ほっとしたらほっとしたで、また泣きたくなった。レンズの下に人差し指を差し込んで、目頭の水分を拭う。


 しばらく見続けているうちに、わたしは彼の具合がかなり悪いことに気付いた。何度も苦しそうに寝返りを打って、ときおり、うなり声のようなものも上げている。もしかしたら熱があるのかもしれない。かなり貧相な食生活だから、免疫力も落ちているだろうし。


 わたしはしばらく考えてから、押入を抜け出し、もう一度服を着替え直した。本来は奈留枝さんの役回りだろうけど、連絡のつけようがないし、それに早ければ早いほどいいに決まってる。


 わたしは、玄関に置いたスタンドミラーで服装をチェックして、それから顔を近づけて、メイクの状態も確かめた。まだ顔を拭っちゃう前でよかった。たいしたメイクじゃないけれど、すっぴんで男の人の前に立てるほど勇気はない。


 彼の部屋の前に立つと、ひとつ大きく息を吐いて、それからドアをノックした。遠慮がちにすると聞こえないかもしれないって思って強めてに叩いたら、借金の取り立てみたいな威圧的な音になってしまった。


 

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