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 佐伯くんが彼女に何か声を掛けた。ささやくような声なので、ここまでは聞こえない。


 これまでの展開はだいたい想像がつく。今日の昼間、奈留Aさんとカワタくんのあいだに何か決定的なことが起きたのだろう。彼女がカワタくんに、くだんの女性のことを問いルビを入力…し、繕うようなタイプでないカワタくんは、開き直って、「そんな面倒くさいこと言うんなら、別れようぜ」ぐらいの科白せりふを吐いたのかもしれない。素直に謝ってくれれば和解の道も考えていた彼女は、ひどくショックを受けて、堪えきれずに佐伯くんのもとに向かった。そこからさきは、アルコールと傷心と、それにおそらくプライドとかなりのやけっぱち、そしてもう一方に、純粋な親切心と、いくばくかの期待感なんかがあって、それらが激しく作用し合って、じゃあ、アパートに場所を移して、なんて展開になったはず。


 彼はひとの弱みにつけ込むタイプではないけれど、相手が望んでいるのに、それを拒絶してまで清廉な道を進もうとするほど堅物でもないはず。彼女にしてみれば、自分を強く求めている男性に優しくしてもらうことは、二重の意味での癒しとなる。純粋な慰めと、それに、暴落しかけた女性としての価値をリカバリーさせるってことでも。


 ここからの展開は、まあ、だいたい想像通り。彼女は図々しくならない程度に、彼の好意とその優しさに浸りながら、少しずつ回復しようとしてた。心的沐浴もくよくね。彼も図々しくならない程度に、彼女に接近し、悲しみを共有しつつ、それと同時におそらく悦びも感じていたはず。


 佐伯くんは立ち上がってキッチンに向かい、すぐに戻ってくると、今度は座る位置を彼女の正面から隣に移した。なんて見え透いた迷彩。でも、彼女はあんまり気にしていないみたい。と言うか、それを待っていたかのように、彼の腕に自分の腕を絡めた。「すがる」っていうのはこういうのを言うのかしら? 奈留Aさんは佐伯くんの腕に掴まって、自分のおでこを彼の肩に押し付けた。彼の顔が真っ赤になるのがわかった。唾を何度か飲み込み目を激しくまたたかせると、空いている方の手を伸ばして彼女の髪に添えた。最初はそっと。髪に付いた糸屑を払ったんだって、言い訳できるぐらいに。でも、彼女が何か言葉を口にすると、佐伯くんはもう少し大胆になった。髪をゆっくりと上から下にき始めた。

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