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 大きな動きは、3日前に起こった。


 例の心理学の授業で、わたしは再び彼らの斜め後ろに座った(こんどは意図的に)。そしたら、彼女がすすり泣いている声が聞こえてきた。佐伯くんがややうろたえ気味に彼女に声を掛けている。一度だけ彼は奈留Aさんの肩に手を置きかけた。小動物が人間の置いた餌に近付くみたいに。でも、それはすぐに引っ込められた。


「大丈夫ですか?」って何度も繰り返すけど、彼女は頷くだけで、声を出すことができない。


 ようやく落ち着いてきた彼女が語ったところによると、どうやら、カワタくんが他の女性と一緒にいるところを偶然見ちゃったらしい。しかも、2人は腕を組んでいたんだそう。 


 典型的な展開。まあ、ああいうタイプを恋人にするなら、それなりの覚悟は必要だと思うけど、彼女たちはその瞬間が来るまで、自分の相手だけは大丈夫、と信じているらしい。だからこそ泣いているんだよね? 

 

 佐伯くんは慰めベタだ。わたしも同類だけど、こういったとき、気の利いた言葉が口から出てきたためしがない。「まあ、縛ることはできないタイプだし」とか「もう、彼も反省して二度と」とか、どうでもいいような言葉ばかり口にしている。彼女も目が覚めるような名句を期待しているわけではないはず。こういうときは優しい言葉の温もりを求めているだけなんだと思う。


 授業の中ほどで彼女は立ち直り、「ごめんね」としきりに佐伯くんに謝っていた。彼女とすれば、佐伯くんが自分の思いを寄せていることには気付いているはずだし、その相手に恋の傷を慰めてもらっているのだから、申し訳ないという気持ちがあって当然だろう。彼がこういうときにつけ込む人間ではないことを知ってて打ち明けているのだから、それはちょっとずるいとも思う。彼女は優しい女性だから、これ以上彼をつらくさせるようなことはしないと思うけど――

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