わたしがアパートに帰ると、すでに隣の住人は帰宅していた。彼の名はサエキ。わたしが「牧野です」って言ったら、「ああ、サエキです」って言ってた。わたしが手渡した引っ越し挨拶のタオルをじっと見つめながら、ぼそぼそ声でそう言った。彼の顔は赤く染まっていた。その瞬間、わたしは彼に好意を感じた。でもそれは、気の弱い人間に接したときのわたしの条件反射のようなもので、別に特別なことじゃない。フランク=サエキはわたしと同い年か、あるいはひとつ上ぐらい。キャンパスで彼の姿を見かけたことはないけど、きっとあそこに通っているはず。


 この夜わたしは、商店街にあるお総菜屋さんで買ってきた薩摩揚げをおかずにして夕飯を食べた。デザートに苺の練乳掛けを食べ、すべての食器をきれいに洗ってから、お風呂に入った。水色のレゴブロックでつくられたようなごついレトロな浴槽にお湯をはり、肩まで浸かる。膝を思いっきり胸に引き寄せなければ収まりきらないような狭い浴槽だけど、お風呂が付いているだけありがたい。シャンプーしたら髪がいっぱい抜けたので、排水溝がつまりかけた。春と秋、わたしは森の動物みたいに身体の毛が抜け替わる。裸のままで、10分ほどお風呂掃除をした。


 風呂から上がるとわたしはGAPで買ったコットンパンツを穿き、ブラジャーは着けずにTシャツを着て、その上からさらにジップアップのパーカーを羽織った。自宅にいたときはお風呂を使ったら、そのあとはすぐにパジャマ姿になっていたんだけど、ひとり暮らしだといつ訪問者があるか分からないので、とりあえず無難な格好をしておく。


 それからしばらくは、読みかけだったバーバラ・ヴァインのミステリーに没頭する(ふりをする)。こうやって、自分に抑制を掛け、期待の瞬間を先延ばしにするという行為には、奇妙な高揚感が伴う。自分で自分を焦らして欲望の炎を煽ってる感じ。もうどうにも我慢できないとなったところで、わたしは本を置き立ち上がった。ふと気付いてトイレに向かい、用を済ませてから押入の襖を開けた。


 ハンガーパイプは、まだ昨日のままで服は掛かっていない。わたしは押入の上の段に上り、まだ少し湿っている髪をゴムバンドで束ねた。それからハンガーパイプに掴まり、ゆっくりとフランクの穴に顔を近づけた。そこからは隣の部屋の灯りがポケッタブルサイズのライトサーベルみたいな形で差し込んでいる。わたしはギャロップする心臓に身体まで細かく弾ませながら、穴に目を合わせた。


 いた――彼がいた。胸がずきんと痛くなる。

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