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 それは、壁の穴を見つけて二日目の夜のことだった。


 ああ、その前にこの壁の穴のことを説明しておかなくちゃいけない。

 

 わたしは高校を卒業すると、家から60キロほど離れた街にある大学に進学した。通うことは可能だった。電車を二度乗り換えて、二時間掛ければキャンパスに辿り着くことはできる。けれど、一限目の授業を受けるには、どうあっても朝の通勤ラッシュを覚悟しなくてはならなかった。高校は自転車で通っていたから、それはわたしにとって初めての体験だった。


 スチール製の大きな箱の中に他の人たちと一緒に吸い上げられ、激しくシェイクされてまた吐き出されるというのは、あまり気持ちのいいもんじゃない。見知らぬ人と身体を接触させるのはすごく不快だし、過剰な音と匂いは、わたしをひどく不安にさせた。だいたい、見も知らぬ異性同士がこれほどまでに身体を密着させ合うというのは、どう考えても問題があるように思う。面識のある男女がここまで接近したら、それはもう性行為の始まりと言っていいはずだ。わたしは思春期を迎えてからこの年齢になるまで、異性とこんなふうに身体を寄り添わせたことはなかったし、相手の呼気を吸い込めるほど顔を近付けたこともなかった。


 朝の満員電車は、まるで集団で行う性行為のようだ。シリンダーの中のコロイド溶液のように、男女が撹拌され交じり合い、糸を引くほど粘性を帯びたところで勢いよく射出される。いくらなんでもこれはひどい。わたしは男性と一度も付き合うことがないまま、性的な接触の第一段階を越えてしまった。


 初めてわたしの下腹に手を押し当てた相手は名前も知らない30歳ぐらいのビジネスマンだった。当たり前だけど、躊躇いも探り合うような会話もなかった。うんもすんもなく、乗車時の混乱が終わったあとにはもう彼の手はわたしのお臍のすぐ下あたりにあった。指先は左鼠径部にまで届いていた。その人はまったくの無関心を装っていたけど、なんとか自分の指が目の前の女性の不快感を煽らないようにと気を配っているのが感じられた。


 わたしはどちらかというと非性的で、あまり男性の関心を集めるタイプではない。入学した頃はいつもデニムパンツを穿いていたし、トップスは長袖のTシャツに男物のジャケットという装いが多かった。「アニー・ホール」のダイアン・キートンを少しだけ意識していたように思う。あの砂浜でウディ・アレンと向かい合って佇んでいるときの彼女。


 スリープライスショップで買ったアセテートフレームの眼鏡を掛け、ブックバンドで束ねた教科書をむき出しのまま手に持ち(あきらかにこれは演出過剰かもしれない)、髪は頭の天辺でお団子にしていた。ダイアン・キートンというよりは、もしかしたらオリーブ・オイルに近かったかもしれない。実際、わたしは平均的な女性よりも7、8センチは背が高かったし、ウエストのサイズは56センチしかなかった。


 まあ、そんなわけで、満員電車の中でも、たいていの男性はわたしに関心を持たない。身体を密着させても、退屈そうな視線を向けてくるだけだ。あるいは、初めてわたしの下腹に指の感触を残した彼のように紳士的に振る舞ってくれる。だから、とくに男性が嫌で電車通勤を諦めたというわけではない。結局のところ、あの非人間的な攪拌機の中に身を置いておけるほどわたしはタフでなかったということなんだと思う。


 すでに入学してから時間が過ぎていたので、学校近くのアパートはほとんどが埋まっていた。残っているのはかなり距離のある場所で、しかも築15年とか20年とか、そうとうに古くなった物件ばかり。わたしは少ない選択肢の中から、キャンパスまで徒歩35分という格安アパートを選んだ。自転車を実家から取り寄せれば、10分もあれば通学できる。悪くはない物件だった。2Kでバストイレ付き。築37年というのは気になったけど、二階の一番奥の部屋でベランダは南向きだった。これで家賃三万五千円、共益費千円はお得だと思う。一月あたりの定期代とそんなに違わない。アパートを借りる条件として、通学費との差額は自分持ちという一項が親から言い渡されていたので、安いに越したことはなかった。両親と妹、それに彼女のボーイフレンドに手伝ってもらって、わたしはこの古びた木造モルタルアパートの二階に自分の生活道具を運び込んだ。

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