2.五門機関

2.五門機関


 指定された日は夏にしては珍しく薄曇の朝で、サイスタの街は普段よりも沈んだ色彩に見える。イチカは一日限りの休暇をとり、悩んだ末に上層部に報告することはやめた。軍装で赴くのも気が引けて、結局は何の飾り気もない私服だ。普段服装など気にも留めないのに、今日はなぜか落ち着かない。祝祭の前日の子供のようだ。想像もつかない非日常が自分の眼前に迫ることへの緊張感が胸中に細波を立てる。

「イチカ、大丈夫?」

「問題ない」

 そう言いながらもイチカはうろうろと居間を歩き回る。いつもどおりの無表情のままだが、緊張しているのがありありとわかってスノウはわずかに困惑を交えて笑った。短い付き合いながら、イチカはあまり動揺することがなく、感情表現にも抑揚がないことは知っている。よく言えば精神的に安定しているのだろう。そんな彼が緊張しているさまは珍しく、少し微笑ましい気持ちになる。

「そろそろ行こうか」

 スノウは長椅子から立ち上がってイチカの前に立った。

「……ああ。頼む」

 声が堅い。スノウはまた小さく笑って目を閉じるように言った。

「大丈夫。一瞬だよ」

 魔術の青い炎が床を走る。それは正確な真円を四つ描き、陽炎のように沸き立つ。青い光が二人を包みこみ、浮き上がるような浮遊感に襲われた。いくつもの文字が中空に浮かんでは消えていく。圧迫感が強くなる。

「目、開けないで。危ないから」

 状況を見ようとしたらしいイチカを押し留めた。転移の魔術は時間と空間を恣意的に歪め、世界の裏側に強引に隧道を通す。一歩でも動けば世界の隙間に呑まれて永遠に元の場所には戻れない。

「──目当ては五角形と二本鍵掲げし堅牢の砦。我が意に従い疾く奔れ」

 スノウの言霊が響いた。

「ついたよ」

 目を開けるなと言われてから十も数えぬうちにそう言われ、イチカは訝しげに瞼を持ち上げる。そして瞠目した。言葉が出ない。そこはイチカの住宅ではなかった。どこかの宮殿かと見まごうような広間だった。見上げたドーム型の天井からは装飾硝子を透かして陽光が降り注いでおり、純白の壁面には精緻な植物文様が象嵌されている。床は美しい斑目の大理石で金泥か何かで五角形と真円の文様が描かれ、イチカの知らない文字が書き込まれていた。魔術の余波を受けて青く光るそれをイチカは声もなく凝視する。

「イチカ。大丈夫?」

 無言で動揺しているのを察してスノウがこわごわと声をかけると、大事無いと低く答えた。

「ラーズが執着するわけだ。とんでもないな」

 長いため息をついて自分を落ち着かせようとしているらしい。

 円形の部屋の入り口がゆっくりと開かれた。両開きの、天井にまで届く扉から現れたのは砂色の髪の若い男。衛戍に訪れた男たちと同じようになでつけた髪を一つに結わえ、薄灰色の袖の大きな服に身を包んでいる。

「お待ちしておりました。イチカ・ラムダットファン・ロー」

 抑揚のない声に師団長室の風景が脳裏をよぎる。

「こちらへどうぞ」

 イチカの返答も待たずに歩き出す男の後を二人は追う。よく訓練された男のようで、歩く姿勢が驚くほど一定だ。足音一つ立てずに歩く。広間の外もまた大理石の床と装飾の壁で、イチカは半ば呆れたような息を漏らした。学生時代に見学をした総督府本館よりもさらに豪勢に見える。だが人影はなく、スノウの足音だけが遠くこだまするだけだった。長い廊下を抜けて中庭ぐるりと囲む柱廊を歩む。人工の水路が走る庭は美しく、植物も完璧に管理されている風情で、枯れた花など一輪もない。

「……まるで宮殿だな」

 思わずこぼした言葉を拾い上げ、先導の男が答えた。

「五門機関本部は他国の宮殿と同等の権威と機能を備えておりますので」

 慇懃な声音の中にどこか人を見下した調子を読み取ってイチカはわずかに眉をひそめる。

「そうか。ご丁寧にどうも」

「いえ。それではこちらでお待ちください」

 やはり抑揚のない声で言って、男はイチカに一礼して去っていった。スノウには目もくれない。

 ──不愉快な連中だ。

 取り残された部屋もまた天井が高く、白い壁と金の装飾で明るく見える。腰を下ろすに躊躇するような華麗な装飾が施された長椅子と卓が据えられ、果物と飲み物が用意されていた。大きく切られた窓からは眼下が一望できる。どうやらこの五門機関というのは山の上にあるようで、窓の外は海へと続く急斜面だった。ユルハよりも山の緑が濃い。

 スノウが身じろいで、小さくイチカを呼んだ。そちらに目を向けると、赤毛の男が近づいてくるところだった。イチカたちよりも先に部屋にいたのだろう。年のころは二十代の後半といったところで、愛想よく笑んでいる。

「当代の白と、その守人だよな?」

 癖のない、真紅に近い赤の髪を無造作に結い上げ、細身だが背丈はラズバスカよりも高い。目の色もまた髪と同様赤く、その人間離れした容貌からイチカはその正体を知った。

「赤の獣、クズミだ。当代の白とは初めましてだな」

 名乗った男はおもむろに手を伸ばしてスノウの頭をわしわしと撫でる。スノウの肩が小さく跳ね、驚きに目を見開いた。初対面の人間にそんなことをされた経験などなく、どうしていいかわからない。みるみるうちに髪が乱されていく。

「ええと、あの」

 灰白色の眼を困惑に染めてスノウはクズミを見上げた。制止すべきなのかどうかもわからなかった。赤い瞳としばし視線がからんでそうして、ふっとクズミの表情がゆるんだ。

「ん、大丈夫だな」

「いきなり、何なの」

 ようやく解放されたスノウの髪は乱れきっていて、少年は見栄えを整えようと手のひらを頭へやった。

「初めましてと久しぶりの間を追求した結果?」

「俺は初めましてなんだけど……」

「まぁまぁ細かいことは気にしない気にしない」

 にかっとクズミが笑う。親しげで屈託のない笑顔に小さな既視感がよぎった気がした。遠い記憶の果てで彼を知っているのかもしれない。漠然とそう思った。

「サァラ」

 クズミが名を呼ぶ。すぐそこの長椅子からゆるりと人影が立ち上がった。イチカよりも少し年上だろうか。ゆるく巻いた黒髪と深緑色の瞳の、はっきりした顔立ちの女だ。白いシャツにタイを結んだ身軽な装いが快活な雰囲気を漂わせていた。

「赤の守人、サァラ・ゲレンフトよ。よろしく」

 語頭の調子が少し強い。イチカの眼前まで歩んで値踏みするようにわずか眉根を寄せる。

「イチカ・ラムダットファン・ローだ」

 他に言うべき言葉も見つけられぬまま沈黙するイチカに、クズミが横から声をかけた。

「その名前、もしかしてあんたユルハ人か。どこ? イプリツェ?」

「いや、サイスタだ」

 ラズバスカのおかげで馴れ馴れしい相手には慣れている。

「西の方か。あのへんは腸詰おいしいよな」

「知っているのか?」

 イチカが尋ねると、かつての守人と訪れたことがあると答えた。

「で、お前さんの名前は?」

 クズミがスノウに向き直る。

「スノウ」

「うん、いい名前だ」

「ありがとう。俺もそう思う」

 イチカがつけてくれたんだと少し照れくさそうにする姿にクズミがうなずく。青年はどこか安堵を匂わせているように見えた。

「お待たせ」

 少女の声がした。入り口を振り向けば、黒髪の少女が車椅子を押して入ってくるところだった。背の高い安楽椅子には大きな車輪が取り付けられており、老爺が穏やかに座している。大の男が一人座っているというのに少女は重そうなそぶりも見せずにゆっくりと四人のそばまで車椅子を押してくると、スノウとイチカに気づいて微笑んで見せた。肩口で綺麗に切りそろえられた黒髪と大きな黒い瞳の、愛らしい少女だ。十二、三歳といったところだろうか。

「あなたたちが新しい白の獣と守人ね。黒の獣のティーレよ。よろしくね」

「黒の守人の、サラザ・ソルレアルだ。アル、と呼んでおくれ」

 乾いた声だったがどこか人をほっとさせるぬくもりのある声音だ。

「白の獣のスノウ、です」

「イチカ・ラムダットファン・ローです」

 ソルレアルはまなじりをゆるめてよろしくと言って笑った。座ったままですまないと言ったソルレアルに、ティーレが暖かい茶を差し出す。

「二人ともよく来てくれた。会えて良かったよ。きっと、次はないからね」

「……どこか、悪いんですか」

 不穏な物言いに思わずスノウが尋ねるのへ、ゆるりと男は笑った。

「若い頃になかなか無茶をしてね。中がぼろぼろなんだ」

 中、と言ってソルレアルの手が腹を撫でる。その手の甲に術式の起動紋が刻まれているのが見えた。

「治せないの?」

「治さないんだ」

 このまましまいにするのだと老爺は静かに言った。スノウはティーレと呼ばれた少女を見る。ティーレはスノウのまなざしの意味を正確に理解して小さく首を振った。

「それが、アルの望みだもの」

 スノウは口をつぐんだ。彼女は自分と同じ獣だという。ならばその言葉はきっと、自分が知る感情と同じものだろう。主の望みが、獣の望みだ。

「ソルレアル。もしかしてレニシュチの方ではありませんか」

 ふと思い立ったように尋ねたのはイチカだった。

「そうだよ。よくわかったね。名前かな?」

 おかしげに笑って、レニシュチでは姓を先に名乗るのだと言った。

「レニシュチ……」 

 つぶやくスノウにソルレアルは肯定するように浅くうなずく。

「ああ。長く、戦争をしていた国だよ」

 妻と娘を亡くしてからティーレと出会い、それからずっと二人なのだと老爺は静かに言った。その榛色の瞳は深い色をたたえている。彼が背負うものを推し量ることができず、イチカは何と答えていいかわからなかった。

「そっか。俺、全然詳しくなくて。レニシュチって何がおいしい?」

 スノウがすとんとソルレアルの前に膝をつく。何のてらいもなく当たり前につむがれた言葉に老爺は小さく首をかしげた。

「この時期だと鱒かねえ。苦手でなければ茸なんかも豊富だよ」

「チーズとクリームでパイにすると結構おいしいわよ」

「ああ、あれはいいね。うちの秋の定番なんだが、よかったら食べに来るといい」

 にこやかにソルレアルが言うのへ、スノウがそうかとうなずいてイチカを振り返る。

「聞いた? 来られないなら俺たちが行けばいいんだ」

「……それはそうだが、あまり先走るなよ」

 かろうじてそう答え、ソルレアルとレニシュチの話に興じるスノウを見る。老爺の目尻はゆるやかに下がり、ティーレもまた傍らで優しい笑みを浮かべていた。

 真似できない、と思った。レニシュチという単語を耳にした瞬間からイチカは自分の中に暗い印象しか想起できなかった。壮絶な虐殺合戦で総人口の三割以上を失い、内戦終結から十年の時を経てなお焦土と化した大地は食糧不足に喘いでいる。政府は十全に機能しているとは到底言えず、難民の流出も止まらない。そんな国の美しさを、イチカは想像もできない。

「さすが白だな」

 すぐ隣でクズミが小さくつぶやいた。上背が近いイチカにしか聞こえないほどの声に、どういう意味かと問い返す。

「俺たちはずっとこの場所で転生し続けてる。見てくれや性格が変わったとしても魂は同じなんだ」

 それぞれの根底にある性質は変わらない。

「白は神経が細い。繊細すぎて百年も生きられないやつばかりだ。でもその分、守人の気持ちを真摯に受け止めようとする」

 歌うように流れるようにクズミが言った言葉があまりしっくりこない。よく気がつくとは思うが神経が細いとまで思ったことはなく、守人の気持ちを真摯に受け止めるというのも何かが違うような気がした。ただ曖昧にそういうものかとだけ答える。

「ま、長い付き合いになるんだ。そのうちわかるさ」

 ひらひらとクズミが手を振る。どうもこの男は多くを見透かしたような話し方をする。

 再び扉が開いたのはそれからほどなくしてだった。金色の髪の娘とその母親ほどの年齢の、濃茶の髪の女。

「アル。久しぶりじゃないか。体調は大丈夫?」

 部屋に入ってくるなり女は親しげな様子でソルレアルのもとへ歩み寄る。そしてその前に膝を着くスノウを見て顔をほころばせた。

「新しい白の子だね。あたしはファランドール・ターシャ。黄の守人だ。ドールと呼んでおくれ。こっちが、レムリィリ」

 そう言って明るく笑う。短く刈り込んだ髪と体の線に沿った衣服、そして闊達な気風はファランドールを年齢以上に若く見せているようだった。

「久しいね、ドール」

 車椅子に座したソルレアルが懐かしそうに相好を崩した。

「痩せたんでないかい、アル。ちゃんと食べてるかね?」

 スノウは二人に気を使ってそっとソルレアルのそばを離れる。立ち上がると目の前でレムリィリと呼ばれた娘が待っていたように声をかけた。

「名前をうかがっても?」

「あ、スノウです」

「レムリィリです。レム、とお呼びくださいな」

 スノウを越える長身の娘だ。背の中ほどまで伸ばされた髪は見事な金色で、瞳も同じ色彩であった。

「イチカ」

 スノウがイチカを呼ぶ。イチカは応じてそばへ行き、何度目かわからぬ自己紹介をした。ファランドールがイチカを下から上まで丁寧に見上げる。

「いい体してるねえ。何を着せても似合いそうだし、スノウと並べると絵になる」

 ファランドールは眼を細め、何度もうなずいた。

「……それはどうも」

 どう反応していいかわからない。

「せっかくだ、一枚仕立てさせておくれよ。とびっきり似合うやつを贈るさ」

 仕立屋を営む彼女は祝祭の終わったこの時期は手持ち無沙汰だから是非にと言って笑った。イチカは断り方がわからず沈黙を守るほかない。

「ほとんど押し売りじゃない、ドール。パンジュみたいよ」

 ティーレの声音はどこか揶揄する調子だ。

「そうかもね。あれは気は合わないが趣味は合うんだ。腹の立つことに」

 ファランドールは肩をすくめ、そうしてふと尋ねる。

「軍人かい?」

「いや、軍歴はあるが今は事務方だ」

「え、軍服着て仕事に行くのに軍人じゃないの?」

 スノウが驚きの声を上げた。

「毎日定時に帰ってくる軍人がどこにいる。俺の所属は会計監査部だ」

 知らなかったとつぶやくスノウを見てティーレとレムリィリが笑う。クズミもまた同様に笑っていたが、わずかに声の調子を変えてイチカを見た。

「俺が言うのもどうかと思うけど、イチカ。転職できそうならしたほうがいいぜ」

 予想外にまっすぐな双眸が何を言わんとするのかを理解し、イチカはゆるく首を振る。

「もう遅い」

「……そうか」

 気づけばずいぶん人数が集まっているが、これで全部ではないようだ。誰かを待っている気配がある。

「あとは誰が来るんだ?」

「紫の二人」

 紫、と思わずイチカはつぶやく。レムリィリと言葉を交わしていた黒髪の少女が笑った。

「あなたが想像しているようなのは来ないわよ。まぁ、ちょっと派手ではあるけど。パンジュも来るならずいぶん久しぶりに全員そろうわね」

 心なしかティーレは嬉しそうだ。イチカは一同を見渡す。年齢も国籍もばらばらな四人の守人と、それぞれに色を冠した獣。これが、子供の頃から何度も繰り返された五門を担うものたちなのかと思うとどうにも不思議な心地がする。その中に自分がいることも、スノウがいることもだ。

「ヴィーユール、来たぞ」

 紫の獣だとクズミが言う。紫、という言葉にイチカの中で小さな好奇心と期待が首をもたげた。何となく全員が沈黙して扉を見守る。やがてしゃん、と鈴の音がした。

「あれ、もしかして僕たち最後?」

 そんな言葉とともに入ってきたのは黒髪の青年だった。長い髪を複雑な形に編みこんで後頭部にまとめており、その上からいくつもの金細工とビーズの飾りを連ねている。薄い布を幾重にも重ねた衣装の裾には鈴が縫い付けてあって彼が動くたびに涼やかな音を立てた。秀麗な顔はどこか女性めいていて、左目の周囲に魔除けの文様が顔料で描いてある。

「また派手になったねえ」

 つぶやいたのはファランドールのようだ。

「パンジュも大概いい趣味してるよな」

 クズミが笑う。それに対して青年は憮然とした表情を浮かべた。

「最近は奥方たちもだよ……。人を着せ替え人形みたいに」

「ま、身長から髪の色から長さまで自由自在だからな。飾りがいもあるだろうよ」

「君たちだってそうだろ」

「俺たちには飾る金がない」

 からからと笑い声を上げるクズミの隣に見慣れぬ姿を見てとって、青年は歩み寄ってくる。足首には真鍮の足環が重ねてあって、やはり優美な音を纏う。

「君たちが新しい白だよね。僕はヴィーユール。紫の獣だ」

 スノウと同じくらいの背丈だろうか。首が細いせいか、スノウ以上に中性的な印象を受ける。イチカを見上げる瞳が深い紫色をしていた。

「さすがに紫色の髪じゃないんだな」

 イチカの言葉にいくつかの笑い声が重なる。どうやらここにいるものの多くが、イチカの反応を予想していたらしい。

「だから言ったでしょう? 想像しているようなのは来ない、って」

 ティーレだ。この小さな少女は話好きのようで、くるくるとよく笑う。逆にあまり前に出ないのがレムリィリで、おっとりと笑んだまま皆を見守っている。

「紫色の髪なんて目立って仕方ないだろ」

「赤と白も充分目立つと思うが」

 スノウについてはいつの間にか見慣れてしまったが、クズミの赤は視界の端で鮮やかだ。

「目の色以外は変えられるから気になるなら頼んでみれば?」

「本質は変えられないんじゃないのか」

「染められるってことは本質じゃないよ」

「……わからん」

 魔術による線引きがいまいち認識できず、イチカはため息をついた。そしてまだ名乗っていないことを思い出した。

「俺はイチカ。イチカ・ラムダットファン・ロー」

「パンジュほどじゃないけど長いね。君は?」

 紫色の瞳が白い少年を見る。

「スノウ」

 短く答えたスノウをまじまじと見つめながらヴィーユールが何か言いたげに見えたが、何を言おうとしているのかはわからない。するとクズミが横から口を挟んだ。

「初めての弟の感想はどうよ?」

「別にどうとかないよ。ただ、やっぱり若いんだなって」

「お前さんも十分若いぞ」

 クズミの言葉にティーレとレムリィリも笑ったようだった。そのしぐさからおそらくその三人は他の二人よりも年が上なのだろうと思う。

「パンジュは?」

 尋ねたのはクズミの守人だった。サァラの物言いはやはり調子が強く、時折なじるような印象を与える。ヴィーユールは小さく首をすくめた。

「すぐ来るよ」

 彼の守人は自分で転移魔術を行えるのだという。その言葉と時を同じくして魔術師のような気配が降り立ったことを獣たちは知覚する。五門機関付きの魔術師でないことはすぐにわかった。魔術師のようでいて、どこか気配が違うのだ。スノウはその理由がわからず、小さく首を傾げた。ヴィーユールがその横顔につぶやく。

「……パンジュを見せるの、恥ずかしいなあ」

 苦笑を浮かべる紫紺の瞳に困惑し、スノウはまたたく。

「口で説明しにくいんだけど、多分驚くと思うよ。見た目も中身もあくが強いから」

 違いない、とつぶやいたのはクズミで、ティーレとレムリィリも声を潜めて笑っている。首を巡らせてみれば、ファランドールとソルレアルも笑みを浮かべていた。イチカとスノウだけが状況についていけていないらしい。

「わざわざ到着時間ずらしたってことは絶対何か企んでる」

 ヴィーユールが大仰にため息をついたのと扉の向こうで鈴の音がしたのが同時。その獣と同様にしゃんと音がして扉が開く。

「そなたが、新しい白の獣か」

 低く響く男の声が鼓膜を震わせた。薄紅色の花びらが舞い、どこからともなく乳香が香る。見たことがないほど豪華な衣装と装飾品に身を包んだ男が傲然と扉をくぐるところだった。褐色の肌をした堂々たる偉丈夫だ。複雑な模様の織られた布をゆるく頭に巻き、端を肩にたらしている。高襟の裾長い服には金糸銀糸で華麗な縫い取りがほどこされ、羽織る紗には小さく砕いた輝石がちりばめられていた。漆黒の鞘に螺鈿細工が美しい刀を腰に佩いている。年のころは四十を越えるかどうかといったところ。全身が金粉をまとうようにきらきらと光を弾き、風もないのに花びらが男の周囲を舞っていた。

 スノウの灰白色の瞳が大きく見開かれたまま固まっていた。ヴィーユールが大きくため息をつく。

「ふむ、確かにヴィーよりも若いようだ」

 通った鼻梁と丁寧に整えられた髭。低く笑う男の、年を経た醸造酒のような色の瞳。その鋭い眼光に射すくめられる。スノウはまばたきを繰り返すばかりで何も言葉が出てこない。男は、人を無条件に惹きつける強烈なまでの華を持っていた。しゃら、と服の裾の細かな真鍮のビーズが音を立てる。

「お初にお目にかかる」

 背が高い。イチカと同じくらいあるだろうか。

「アフタビーイェ五大部族が一、マニハーイーの次期総領にして金鷲の旗を持つもの。弱きものの希望、孤児の親、ヒラーの獅子たらん戦士、パンジュ・ジス・ルムート・マニハーイーだ。よしなに」

 言われた言葉の半分も拾い上げることができない。

「だから、それやめてって言ってるのに。初対面の相手を困らせて楽しんでるだけだろ」

 状況についていけていないスノウと、楽しげに笑みを浮かべたままスノウを見る男の間にヴィーユールが割って入った。

「花まで散らして恥ずかしいったら」

「マニハーイーの礼を尽くしただけだぞ?」

「……本当性格悪いよね。スノウ、大丈夫?」

 長いため息をつき、ヴィーユールはスノウに声をかけた。スノウは何度かまたたいてもう一度パンジュに視線をやる。気づいたパンジュが満面の笑みを浮かべた。

「スノウ、です」

 他に言えるようなことも思いつかない。何とも言えない沈黙が落ちる。スノウはぼんやりと何かで見た砂漠の王様を思い出した。すぐそこでイチカもまた何度目かわからぬ自己紹介をしている。パンジュは何かイチカに尋ねていたようだったが、やがて一同を見渡して笑った。

「話には聞いておる。アフタビーイェに来るときは是非訪ねておくれ。一族を挙げて歓待しようぞ」

 大げさな身振り手振りの芝居がかった言動をする男にスノウはどう対応していいのかわからず、ただ曖昧に笑った。

「それはいかんな」

 パンジュが大きく息をついて、スノウは首をかしげた。

「愛想笑いなどすべきではない。つまらぬときはつまらんと言って大口を開けて笑えばいいのだ」

 動いた拍子にその衣からも馥郁とした香りが上る。あくまで芝居がかった言動にティーレが呆れた声音を漏らした。

「パンジュ。あなた、新しい子に興味津々なのはいいけど色々度が過ぎているから警戒されるのよ」

「はしゃいでるんだよ、これ」

 ヴィーユールがため息をつくが、パンジュは意に介さない。

「せっかくの守人同士獣同士、仲良くやりたいだけなのだがな。手土産もちゃんと持ってきておるぞ? 人間関係は挨拶が肝心であるからな」

 一向に聞き入れる気配を見せない砂漠の男にティーレがお手上げとばかりに肩をすくめる。パンジュは綺麗な硝子瓶を取り出し、机の上に置いた。広口の瓶の蓋には小さな石が飾られており、石は薄青い燐光を宿してちりちりと明滅している。スノウの目がその石を追う。

「それ、術石?」

「そうだ。純度は四、密度は三。一番汎用性の高い透石を持ってきたぞ。ちなみに瓶の中身は棗椰子の砂糖漬けだ」

「ちょっとやりすぎよ、それ」

 呆れきったサァラの言葉にイチカがすいと眉をひそめ、低くスノウの名を呼ぶ。具体的な価値は、ということらしい。

「金額はわからないけど、容量は執政府通りの街路灯全部を丸一日分くらい」

 イチカが渋面を浮かべる。到底手土産と呼べる金額ではない。ため息をついたのはファランドールだった。

「およしよパンジュ。趣味が悪い」

「何がというのだ刀自。わが国の名物を贈ろうとしておるだけだ」

「あんたが何を考えてるのは予想がつくけどね。それはほとんど悪意だよ」

 その言葉に反論するものはいなかった。パンジュは笑みを崩さぬままイチカを見る。

「ならば本人に問うとしよう。いらぬか?」

 値踏みをするようなまなざしに気づいているのかいないのか、いつも通りの無表情のままイチカはあっさりと首を振る。

「必要ない。気持ちだけ受け取っておく」

「そなたが使わずともなかなかによい値で売れるぞ?」

 いまや同じ重量の金よりもなお高値で取引されるのが術石だ。アフタビーイェ以外で産せず、ゆえに魔術の徒であれば誰もが欲しがる。だがイチカは首を縦に振らなかった。金額よりも出所を疑われるほうがよほど面倒なことになるからだ。パンジュは矛先を変えた。

「スノウはどうだ?」

「もらっても困るなぁ。使い道もないし」

 イチカとの生活で魔術が必要となることはほとんどない。持て余すことが明白だった。

「欲のない主従だ。ならば棗椰子の砂糖漬けだけでも持っていくがいい。これは手土産の範疇であろ?」

 喉の奥で笑うパンジュをヴィーユールが小突く。試すような真似をして何をと言いたげだった。

「パンジュは、魔術師なの?」

 スノウがパンジュを見つめていた。彼の周囲に渦巻く魔力が不思議な流れをしている。彼自身の魔力だけとは思えぬ魔力溜まりのようなものがいくつも形成されており、時折風となって男の回りを吹きすぎる。淡い花弁を舞わせていたのはこの風のようだ。

「さあ、どうであろうな?」

 パンジュはにやりと笑んで見せた。またもや大ぶりな動きで両手を広げ、役者のようにくるりと回転する。きらきらと彼の周囲で光がまたたいて、スノウはようやく男が身につける宝石の全てが術石であることに気がついた。透明のものだけではない。とりどりの色石がその身を飾り立てている。

「そんな純度の色石なんかそもそも市場に出回らないのになんで……」

 色のついた術石は希少で、自然現象に作用する力を有している。石に蓄積されるうちに魔力の質が変容するのだ。畢竟、一般人が手を出せるような価格では出回らない。

「ほう。スノウは魔術に明るいようだな」

 男は満足そうに笑うばかりで答えを与えてはくれない。さらに言葉を重ねようとしたスノウに声をかけたのはイチカだった。

「お前、マニハーイーの名前に聞き覚えは?」

「あるような気はするけど、わからない」

「そうか」

 イチカは嫌がりもせずに説明をする。アフタビーイェは一人の王が統べる国ではなく、部族による合議制をとっている。国を実質的に動かす有力部族を五大部族と呼び、中でもマニハーイーはさらに有力な血筋にあたる。パンジュはそのマニハーイーの次期総領としての地位を約束された男だ。今はアフタビーイェの外交政策の陣頭指揮を執っており、イチカが思い当たる程度には名前が知られている。

「つまり、他の国の感覚で言えば王子様ってこと」

 差し継いだのはクズミだった。

「親父殿が七十を過ぎても現役だからな。わしも四十でまだ王子様というわけだ」

 言いながらまだおかしいのか、パンジュが低く笑う。よく笑う男だ。

「もしわしで役に立てることがあればいつでも連絡をくれればいい。わが名に懸けて、わしはそなたらを助けよう」

「あんたの立場でそんな軽はずみな約束をしていいのか」

「構わぬ。世界でたった五人の同じ境遇の人間だ。いくらでも身びいきくらいしてやろう」

 そう言われ、イチカは改めて五人の守人を見回す。自分と同じ境遇の人間、という言葉が耳の中に妙に残っていた。獣と契約を交わし、その命の主導権を譲り渡した五人。五門機関の言うことが正しいのならば、この五人の上に世界が乗っている。

「魔術職が、いないな」

 守人になることは絶大な魔力を手中に収めると同義で魔術的な成功を約束された人間だと五門機関の男は言ったが、ここにいる守人は皆それぞれの生き方をしている。ソルレアルは故郷でティーレとともに穏やかな生活を送っているといい、ファランドールはレムリィリとともに服飾の仕事をしている。女手一つで育てた子供たちは全員独り立ちしたのだそうだ。サァラは移民や難民を支援するための財団を運営し、パンジュは王族稼業と術石交易の仲立ちと、どちらかといえば魔術からは縁遠そうに思えた。そう告げてみれば、クズミがあっさりと答える。

「たまたまだよ。魔術職に転向する守人は何人もいたし、獣の魔力使って財をなしたなんて珍しくないぜ? 有名人で言えばゼーレンヴィッツ世界銀行の初代総帥は守人だ」

 転移魔術を使って世界各国に支店を作り、今の銀行という業態の基礎を一代で築き上げた。その他、貿易業に従事したもの、未開の土地の開拓をしたもの、魔術研究に没頭したものなど、道の選びようは様々だ。

「うちもまぁ裏では色々やってる。表の財団守るためには必要なことだ」

「本当はやめてほしいのだけれどね」

 サァラが柳眉をひそめるのへ、クズミは肩をすくめてみせる。

「まぁいずれな。今はきれい事だけで回せる地力がない」

 そうしてイチカの名を呼んだ。

「パンジュじゃないけど、何かあったら頼ってくれ。本部はダジューだ。アフタビーイェよりは近いだろ。一人二人、便宜を図るくらい問題ない」

 旅券がなくても訴追される身であっても何とかしてみせると、真摯な声が告げる。初対面で向けられるには重いその感情をどう受け止めていいかわからず、イチカはただうなずいた。

「さて、一通り自己紹介も終わったわね。スノウ借りるわよ」

 委細構わずティーレがそう言って、半ば連行するようにしてスノウを部屋から連れ出していく。困惑しきったスノウが声を上げるが、意に介してもらえない。

「色々積もる話もあるだろうし、説明よろしく」

 クズミが後ろ手にひらひらと手を振って、そうして扉が閉じられる。止めようもないままにイチカは何度かまたたいて思わずつぶやいた。

「戻ってくる、んだよな?」

「大丈夫、同窓会みたいなもんさ」

 ファランドールが言って、サァラがため息をつく。

「先代の白の守人は、一度もあの子を来させなかったのよ」

 吐き捨てるような口調だ。サァラの言葉はどこか強い。無意識にイチカの体に緊張が走る。

「何か、問題が」

「おおありよ」

 サァラが肩に落ちかかる巻き毛を払いのけながらイチカを見た。

 元々、獣と呼ばれる五人は一つの魂を分けて生まれた。不完全な魂は本体が眠る五門に来ることで安定する。特に若い個体はそれが顕著で、目に見えて体調が違うらしい。

「……想像に余る」

 その類いの話に正直付き合いきれないというのが本音だった。何一つ実感を持つことの出来ない当たり前を押しつけられることにいい加減辟易している。だがそれを言葉にしてしまえばサァラはこちらを責め立てるのであろうことは容易に想像できて、イチカは言葉を飲み込んだ。魂がどうのという話は理解しがたいし突き詰めるつもりもないが、己が今後どう行動するのが望ましいかということだけは了解した。

「スノウくん若い上に前の守人が十年しかもたなかったから、ずいぶん弱ってたって聞いたわよ」

 その言葉に少しだけ引っかかりを覚えたが、正体が知れない。ただ違うことを思い立ってそちらを尋ねた。

「五門機関にいたんじゃないのか」

「守人のいない獣は五門に近づけさせないのよ。どういうわけか」

 サァラは肩をすくめた。

「何か隠してることがありそうなんだけど、クズミもだんまり決め込むのよね」

「物事には話す順番てものがあるからね。そう焦らなくてもいいだろうよ」

「わかってるわ」

 ファランドールにたしなめられ、我慢してると言ってサァラがふいとそっぽを向く。ふとイチカがパンジュを見れば、先ほどまでの饒舌さが嘘のように黙してこちらのやりとりを見守っていた。三人掛けの椅子を一人で占領してくつろいだ様子に見えるが、双眸はどこか思案げだ。

「ん? どうしたイチカ」

「いや、何でも」

 ゆるりと首を振って、イチカはため息をついた。情報量が多すぎてそろそろ疲弊してきたのを自覚する。

「まったく、手に負えない話ばかりだ」

「わかるよ。僕も突然のことに最初はずいぶん戸惑ったものだ」

 ソルレアルだった。なだらかな声が耳に心地よく、イチカをねぎらう調子にふっと肩の力が抜ける心地がした。

「大きな話にばかり目がいってしまうけれども、結局は人と人の話だ。大丈夫、君たちはうまくやれる」

 スノウくんを見ればわかると言って、老爺はやわらかく笑った。

「……彼のありように俺は寄与していません」

「彼が年相応に振る舞えるというだけで充分だよ。本当に、充分だ」

 噛みしめるように言って、ソルレアルがポットを手に取る。いつの間にか花の香りの茶が用意されていた。

「矢車草の花を入れてあるんだ。良かったら少し持って帰るかい?」

 レニシュチの茶葉なのだという。

「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

 イチカはカップを受け取った。





 スノウはクズミらに連れられて五門機関の中を右に左に折れながら進んだ。自分がどのあたりにいるのかわからなくなるような、広大な施設だ。山肌の傾斜に沿うように建てられているためか階段が多く、大小の尖塔とドーム天井の回廊を備え、そのいずれにも圧巻としか言いようのない装飾が施されている。しかも恐ろしいことに装飾に使われた顔料ひとつ、装飾模様ひとつとっても何らかの術式の起動装置であったり、術陣を意匠化したものであったりする。この建物自体が強固な防御結界をなしているのだ。

「イチカ、大丈夫かなぁ」

「大丈夫大丈夫。アルがいる」

 クズミが軽い調子で笑う。

「パンジュも一応全部わかっててやってるから本当に困らせることはしないよ。……多分」

 ヴィーユールもそう言って、五人は階段を上る。紫の獣の真鍮のビーズと鈴の音が遠く反響していった。

「こんなところまで来るの初めてかも」

 スノウは周囲を見渡す。中庭はとうに途切れ、窓のない白い回廊がまっすぐに伸びていた。見たことのない景色も付き従うものがいないことも少し不思議な心地がする。

 スノウはナナを見つけるまでの数年間と、イチカを見つけるまでの二年間をここで過ごした。行き交う人間は皆表情に乏しく、スノウへの対応も冷淡なものだ。豪華な装飾はかえって無機質な冷たさを感じさせ、あてがわれた部屋の広さが孤独を突きつける。そんな場所をぞろぞろ雑談を交わしながら歩いている。

「守人のいない獣は入れてくれないんだよ」

 言ったのはヴィーユールだった。スノウと変わらぬ高さに、紫色の瞳。そういえばイチカは見上げるような背丈をしているし、ラズバスカもスノウより長身だ。自分と同じ目線の相手と会話をするのはずいぶんと久しぶりのような気がした。

「いつも誰かぴったり張り付いてるでしょ。あれ、こっちに来させないようにするため」

 ヴィーユールは不愉快そうだった。この場所に居心地の悪さを感じているのが自分だけでないと知ってスノウは少しだけ安堵する。気のせいではないのだ。

「百年くらいの辛抱だ。あいつらの寿命を越えるくらいで態度変わるぜ」

 その言葉にティーレが笑う。

「ほら、私たち成長とかないじゃない? なのに生きてきた時間で子供だとか小娘だとか思うみたいなのよね。だから自分が想像できないような年齢になるとわりところっと態度変えてきたりするわよ」

「まぁ、最終的には個人の性格によるけどな。年齢関係なく仲良くできるようなやつも時々いるぜ。最近だとパゼル師とか結構話がわかる。今いねえけど」

 この施設に携わる人間の数は多く、そして出入りも激しい。各国へ出向していったり、自分の師業所を開くために国に帰ったりと、気が合う人間を見つけたとして関係が長続きしない。強固な守秘義務を課していることもあって、あまり友好的な人間には巡り会えないという。特に獣を相手にまっとうに話をしてくれる人間は多くないとクズミが苦笑する。

「大抵のらりくらり逃げるからな。このへん入れてくれるようになったのもここ百年くらいで、元は絶対入れるもんかって感じだった」

 本来わざわざ五門機関の顔色などうかがう必要はないのだが、人の世界のしがらみに対処するためにそれなりに有用な組織ではある。面倒は少ないに越したこともない。

「あの、根本的な疑問なんだけど俺はどこへ何をしに行くの」

「んー、兄弟水入らずで親交を温めようかと」

 しれっとつむがれた言葉にスノウはぱちくりと眼をしばたたかせた。

「きょうだい?」

「兄弟だろ?」

 すぐにはその言葉の意味を理解できず、思わずスノウは立ち止まった。四色の瞳がそれを見る。そこにたたえられるのは今まで向けられたことのない穏やかな光。その感情を何と表現していいのかわからない。だが、突然理解した。

 ──このひとたちは、同じなんだ。

 五分の一の不完全な魂。それをこの四人も持っている。周囲の人間と自分は本質的に違うのだと、そう本能がささやきかけてくる孤独を知っている。この広い世界にただ一人放り出されたような寄る辺のない寂しさを、知っているのだ。

「どうした? 変な顔して」

 からかうようにのぞきこんでくるクズミから視線を逃がす。スノウのくちびるがその言葉をなぞる。

 ──きょうだい。

 大理石の模様を目でなぞりながら、段々と早くなる心音を数える。じわりと涙が滲むようだった。自分は一人ではないのだという事実が実体を得たかのようにスノウに寄り添う。

「ほら、行こう。話はあっちでしよう」

 ヴィーユールにうながされ、スノウは歩き出す。五人はさらに廊下を奥へと進み、巨大な扉の前へとたどり着いた。ここにも見事な装飾が施されているが、これまでの道程に比べれば質素と呼んでいいようなものだ。すかし硝子と金の縁取り。魔術の匂いもしない。だが、それは間違いだった。

「スノウ。こっちだ」

 クズミに呼ばれて真正面に立った瞬間、鳥肌が立った。本能的に半歩後じさる。そこがこの建物の中心に位置することがわかった。わからされた。施設全体に施された結界は全てこの場所へ向かって収束している。常軌を逸しているといっていい。尋常ではない圧力に扉の周囲の空気がわずか青みを帯びて、流動する魔力が物理的な負荷をかけてくる。制御をするとかいう以前の話だ。この高圧の魔力に耐えるためにこの建物は、あの恐ろしい数の魔術装飾は、存在しているのだと知れる。それはもはや執念といってもいい。一級魔術師を凌駕する獣をもってしても、呼吸が苦しくなる心地がする。

「この扉を守るためなら、五門機関は何でもする」

 クズミの声が遠い。そうして開かれた扉の先には岩壁を貫く一本道。明かりはなく、整備もされていない岩肌の奥は暗く、どこに通じているのかがうかがえない。

「明かりはないから足元気をつけてな」

 クズミが一歩を踏み出す。ティーレとレムリィリがスノウのすぐ隣についた。慣れていないスノウを案じてのことのようだが、少女の服は胸の前に合わせがあって裾は足首を隠すほど長い。レムリィリも丈の長い服を着ているし、歩きにくかろうとスノウは手を差し出した。

「あらありがとう。でも私の方がお姉さんよ?」

「年齢は関係ないよ。ティーレもレムリィリも歩きにくそうだから」

 小さく首をかしげるスノウの姿に二人の獣は顔を見合わせ、そして破顔した。

「ふふ、じゃあお言葉に甘えようかしら」

「では私も」

 スノウを真ん中に左右に二人の手を引いて歩く。手のひらがわずかにぬくんで、何ともいえない面はゆい心地がした。

 隧道は蛇行を繰り返しながら奥へと伸びる。壁面に明かりはなく、装飾もない。濡れたように黒い岩肌だけが続いて、かろうじて足元だけは平らにならしてあるばかりだ。ヴィーユールの衣服の鈴の音が反響していた。漆黒の闇ではあるが、彼らの視界は光がなくとも周囲を認識することができた。空気は澄んで、気温も低い。奥へ行くほど清浄になっていくようだった。同時に、スノウの気持ちが落ち着かなくなる。

 ──ここを知っている。

 遠い記憶。それは自分のものではない感情の断片。この先に何がと問いかけた矢先、突然視界が開けた。洞窟の中らしい広い空間の真ん中に今度は大きな竪穴がまっすぐに落ち込んでいる。明るい日差しが穏やかな空気をともなってその場を満たしていた。上を見上げれば、洞窟のちょうど真上に明り取りのように丸い穴が空いているようだ。滑らかな岩肌がきらきらと陽光を反射しており、遠くから鳥の声がする。深い緑の匂いがした。

 ──かえってきた。

 また、誰かの声。それは自分の声のようで他人の声のようで、スノウには正体がわからない。強い郷愁だけが胸をつかむ。

「ここが終点じゃないんですよ」

 レムリィリが笑んだ。そうしてスノウの視線を穴の方へと向けさせる。

「あっちです」

 クズミが穴の上に一歩を踏み出し、そのまま地を蹴った。まっすぐに落ちていく。何の感慨も見せず、ティーレとヴィーユールがそれに続いた。鈴の音がこだまする。

「結構速度が出ますから、調整してくださいね」

 促されてスノウは足を踏み出す。暗い穴の底は見えない。ただ、先に下りた三人の魔力が薄くたなびいているのが見えた。恐怖はなかった。レムリィリの声とともに飛び降りる。ごうっと耳元で音がする。髪が巻き上がる。すぐ隣で黄檗色の髪が風にあおられるのが見えた。レムリィリの魔力が金色の光とともに足元に集約され、あっという間に彼女の姿は頭上に姿を消した。それを見習ってスノウも己の魔力を集中させる。見よう見真似ではあったが、彼の意思の通りに体は減速し、爪先で空気を踏みしめる。すぐにレムリィリが隣に降りてきて、二人は空中を浮遊するようにしてゆっくり下へ向かって降りていった。

 やがて底に着地する。靴の下で白い小さな粒子が踊るようにして宙に舞った。真円を描く穴の底一面が純白に染められている。壁は石英でできているらしい。わずかな光を乱反射してうっすらと景色を映し出している。スノウは無意識にため息をついた。どこかざわついていた心がすっと和いでいく。静謐だけが満ちているようなこの荒涼とした風景が、なぜかとてもいとおしく感じられて仕方ない。この場所を、スノウは知っている。そう確信した。来たことはないけれど、確かに知っている。

「ここ、は……」

 かすれた声音にはどこか焦がれるような響きが滲む。今までで一番穏やかな声で、クズミが答えた。

「この下に、眠ってる」

「何が?」

 振り返る。赤のクズミ。黄のレムリィリ。黒のティーレ。紫のヴィーユール。四人が穏やかな表情を浮かべていた。

「何が、じゃないだろ。──俺たちが、だ」

 スノウの双眸がゆるやかに見開かれる。そうして、無言の涙があふれた。

 ──かえってきた。

 また声がする。自分のもののようで自分ではない声。それは、きっとスノウの魂の声なのだろう。今までに幾多もの時を重ねてきた、同じ魂を持つものたちの声。それは大きな奔流となってスノウを飲み込みそうして、まぶたの裏にあの夕映えを描き出す。

「アッシュ……」

 その名を、思い出した。

 美しい金色と、暮れ始めの空の紫。あの日あの場所で、抱き締めてくれた腕。ずっと待っていたと、さみしかったんだと笑いながらたくさんの楽しいを積み上げてそうして、名前をつけてくれた。

「アッシュ……アスギリオ……」

 呆然と名を呼ぶ。ぽたぽたと涙が落ちて純白の地面に滲む。

「俺は、俺はどうして、どうして君を……」

 ──忘れていられたんだ。

 幼い子供のように何度も何度も手の甲で眼を拭う。顔中がぐちゃぐちゃになって嗚咽がこぼれて、それでも感情の波が止まらない。切れ切れに名前を繰り返し、しゃくり上げながらスノウの双眸はただ足下を見つめ続ける。降り積もった純白の砂の向こう側に彼女がいるのだと、本能が知覚する。魂が泣く。この場所が一番、近いのだ。世界のどこよりも、彼女のあの両腕に近いのだ。

「あ、あ、ぁ……」

 もはや言葉すら失って、スノウはただ泣いた。分け与えられた魂が歓喜に震え、決して越えられぬ壁に絶望をして叫ぶ。どうしていいかわからなかった。どうすればこの波が去るのか、わからなかった。

 ──会いたい。

 ただそう願う。願ってしまう。数多の時を重ねた思慕が体の中を暴れ回るようだった。

「スノウ」

 名前を呼ばれる。ふわりと空気が動いて、暖かなぬくもりがスノウを包み込む。クズミの手が頭を撫で、レムリィリが肩を抱く。ティーレが右手を、ヴィーユールが左手をそっと握って、黙ってそうしていた。

「涙が出るのよね」

 ティーレの声が優しい。

「いつも、帰ってきた、って思うんだ」

 ヴィーユールが空を仰ぎながらぽつりと言った。スノウは震えながらうなずく。ただただこの場所が慕わしくいとおしい。たまらなく、温かい感情が身を満たしていく。

「ここは俺たちの本体と、アッシュが眠ってる」

 分かたれた魂がひとつに戻りたいと泣くならば、ここはそうした魂を慰める場所になりうる唯一の場所なのだと、クズミがつむぐ言葉をスノウは静かに聞いていた。

「どんなことがあっても、俺たちはここに帰ってくる。そのために、生きてる」

 だから獣は五門で生まれるのだ。戻ってくるのだ。この場所を忘れるなと、クズミの言葉をただ刻み込む。きょうだいたちのぬくもりを受け止める。自分は一人ではない。帰る場所がある。それだけできっと、これからも進んでいける。そう思えた。

「……ありがとう」

 頬をぬぐいながら、スノウは笑った。つられるようにして他の四人の顔にも笑みがこぼれる。

「もう少しここにいるといい。何回か来るうちに魂も魔力も安定する」

 クズミが大きく伸びをした。その輪郭が陽炎のように揺らぐ。一瞬だけ赤い光を纏ったクズミの影はぐにゃりと崩れ、そしてまったく違う姿のものがそこに現れた。スノウの目が見開かれる。

「クズミ……?」

「そう。これが俺の本性」

 それは模様のない豹に似ていた。朱に近い赤い体躯の獣。四肢には濃い紅の縞があり、尾の先は火がともったように金色を帯びている。クズミは前足をまっすぐにまた伸びをする。

「もしかして忘れちゃった?」

 からかう調子でティーレが笑った。その輪郭がこぼれる。ゆらりと光をたなびいて現れたのは背びれと尾びれの長い黒い魚だった。流線型の体に星空のように微細にきらめく黒い鱗。ひれの先は燐光が灯ったように淡く光る。ティーレは空中をゆっくり泳いで見せた。ふと気配を感じて隣を見れば、いつの間にかレムリィリも人の姿をやめていた。首の長い羚羊のような馬のような、優美な体の草食獣だ。頭部に小さな巻角を戴き、首の後ろから尾にかけて金色の鬣を有する。やはり尾や鬣の先が光を引いて揺れるようだ。

「大丈夫? 戻れる?」

 心配げに尋ねたのはまだ人の姿をとるヴィーユールだった。

「多分、大丈夫だと思う」

「ならいいけど」

 そう言ったヴィーユールが濃い紫色の竜に変じる。長大な体に蝙蝠のような皮膜翼と華奢な四肢。改めて彼が紫の獣だったことを思い出させる姿だった。紫色の鱗は縁が薄く光を放ち、ヴィーユール自身が淡い光を放つように美しい。額に戴いた角は水晶のように透き通っている。

「本性も派手なのよね」

 ティーレが軽口をたたくと紫色の尾がぴしゃりとその背びれをはたいた。ティーレの小さな笑い声がこだまして、また光を引きながら泳いでいく。スノウはようやく理解したように思う。頭ではわかっているつもりでも、どこかで自分の獣性を遠いもののように感じていた。自分が人ではない、ということを今まざまざと見せ付けられている心地がする。しかしそれは不愉快なものではなく、何かがすっと自分のうちを満たしていく感覚。安堵にも似たため息をついて、スノウは人の姿を捨てる。双眸を閉じれば、自分の姿を形づくる人の殻を散らすような心象。ふっと膝がくずおれるような錯覚とめまいのような感覚が彼の容貌を組み替える。心臓を中心に全身が浮き上がるように軽くなった。そうして、スノウは瞼を持ち上げる。はらりと羽が一枚舞った。

 それは鶚に似ている。嘴と足は鈍色で、両翼の色は青みがかった白。首の周りと後頭部に控えめな飾り羽があって、猛禽としてはやわらかい雰囲気を有していた。自分の意思でこの姿をとるのは初めてだった。ずいぶんと昔に人の姿になるように求められて以来、ずっと人の姿で過ごしている。獣の姿で生まれるとは聞いているが、記憶は曖昧だ。はす向かいに伏せる赤い獣に向かってスノウは小さく首をかしげる。

「みんな、姿が違うんだ」

 つぶやいてから、ああ確かにそうだったと思い出す。

 ──何にでもなれるというのは楽しいな。

 色々なものを混ぜて作り上げたからと、彼女は笑っていた。水底からふと立ち上る泡沫のようにアスギリオの記憶がよぎる。

「前の守人のとき、ここ来なかったろ。さすがに間が空きすぎてるからそろそろしんどいんじゃないかと思ってな」

 五門機関をせっついて契約が完了するや否や書状を出させたのだという。

「お前さん、その調子じゃ百年はおろか五十年かそこらで死んじまうぞ。獣が先に逝く、ってのはつらいぜ」

「……それは困る」

 イチカを死なせるわけにはいかない。

「じゃあイチカ共々長生きしてくれ」

 クズミの言葉に浅くうなずいて、スノウはふっと足を引いた。白い砂の上に腹をついて、翼ごと寝そべる。

「ここ、あったかい」

 体の奥がぬくんでいく心地がする。確かに魔力の循環が増しているのがわかって、スノウは焦がれるようにくちばしで地面をひっかいた。

「アッシュに、会えたらいいのに……」

 無意識にこぼれた言葉にきょうだいたちに動揺が走ったことに白の獣は気がつかなかった。 

「五門開放したら世界が滅んじまうなぁ」

 茶化した声音でクズミが言う。その獣の双眸はスノウをじっと見つめていた。

「何とかできないの?」

「五柱術式はアッシュの魂に癒着してる。門を開けても引き剥がす前に術式が発動して全部ぐちゃぐちゃになるぞ」

「そう……」

 確かな未練を滲ませて、スノウは嘆息する。

「俺たちがこんなに寂しいならアッシュも寂しいだろうと思ったんだけど」

「だから、守人を選ぶのよ。アッシュが五柱術式抱えて永遠を眠るのなら、私たちはここで何度でも生まれ直すわ」

 たとえありようが変わったとしてもともにあるために。彼女の愛に応え続けるために。

「……でも、アッシュとイチカは同じじゃないよ。アッシュは俺たちを望んでくれたけど、イチカを望んだのは俺の方だ」

「それでいいんです。守人はアッシュの代わりではなく、アッシュのそばにいるための道具でもありません」

 大丈夫だとクズミが言った。

「イチカはイチカだ。それがわかってりゃ大丈夫。イチカも結構安定してそうだしな。正直安心した」

 その物言いに何かが引っかかってスノウはかちりとくちばしを鳴らした。そうして尋ねてみる。

「俺の前の白は、どうして死んだの」

 いくつもの人生の上に重ねられた同じ魂。自分のあとに、また自分と同じ魂を持つ違う自分が生きる。アスギリオと守人への思慕を重ねながら。

「……主を失う痛みに耐えられなくなって後を追ったよ。あいつは、ちょっと色々続いたしな。仕方ない。経験則と聞いた話だが、主を見送ることが一番苦手なのは白だ」

 またクズミが答える。クズミが一番の年嵩だということはわかるが、具体的な年齢が外見からはうかがえない。ただその語り口は十年二十年という長さではないような気がした。

「みんなは何歳なの?」

「俺たちか? 俺が三百五十とちょっと。レムが二百」

「あら、まだ届いていませんよ」

 想像以上に大きな桁の数字が飛び出したことにスノウは目を白黒させるが、それには気づかないらしいクズミがさらに続ける。

「お、悪い悪い。ティーレが百四十くらいか?」

「そうね、そんなもんかな」

 面倒で数えるのをやめてしまったとあっさりとしたいらえ。

「ヴィーが五十ってところだ」

 思わずヴィーユールを見た。一番年が近いと思っていた彼ですらスノウの三倍の年月を生きている。イチカがスノウを子供呼ばわりしたのがにわかに当たり前のように思えた。

「俺、若いんだね」

 呆然とつぶやいた言葉に彼の兄弟たちが噴き出した。ティーレの涼やかな声が響く。

「ヴィーユールと同じこと言うのね」

 翼を畳んで丸くとぐろを巻くヴィーユールが不満げに鼻を鳴らした。笑うなと言いたいらしい。

「君たち三人が長すぎるんだよ」

「そんなことないわよ。私なんてたったの百年ちょっと、まだまだ若手よ」

「人間なら二人分より余るだろ」

 十分長い、と訴える紫の獣をティーレは意に介さない。二人のやりとりを隣で聞きながら、スノウはまたクズミを見た。

「代替わりの理由を、みんなは知ってる?」

「一応な。俺の前、赤の先代は生きることに飽きたらしい。黄は主と心中。主が獣を刺した。黒は空白期間に衰弱して死んだと聞いている。紫は戦争で主を失って、その弔い合戦のさなかに」

 返す言葉を見つけられず、スノウは小さくありがとうとだけ言った。

「大丈夫ですか?」

 案じるレムリィリの言葉が静かに染み入るようだ。

「……いつもイチカが言うけど、想像に余るよ。自分のことなのに」

 そうしてふと己の守人のことを思い出した。イチカはあまり愛想のいい男ではない。見知らぬ人間の間に突然置いてきてしまったことが今更ながらに気にかかる。

「早く戻った方がいいかな」

「だから大丈夫だって。あっちもあっちで俺たちの前じゃできない話してんだろ」

 守人同士は獣のように何かがつながっているわけではない。だが境遇が重なる存在が互いにしかいないのだ。近況報告程度の世間話であっても気持ちの負担を軽くすることはできる。

「またサァラがやり合ってるんじゃないかしら」

「かもなぁ。一応スノウを見てちょっと落ち着いたみたいだが」

「どうだか」

 ティーレの言葉にスノウはサァラを思い出す。言葉尻の強い、どこか挑発的な態度をとる姿が印象的だった。だがその根底にあるのは正しく在ろうとする意思で、そこを何より買っているのだとクズミが言い添えた。

「ティーレは元々サァラ嫌いだよな。あれでずいぶんと丸くなったんだ。自分の言動をやりすぎたんじゃないかって反省もできるようになった」

 義憤のままに突っ走る彼女の抱えるままならなさをほどいてきたのはクズミだ。その変化が素直に喜ばしいと言えばティーレはどこか不満げに鼻を鳴らした。

「あなたのやり方って子育てみたいよね」

 言外に甘やかしていると言いたいらしい。

「次からアルはいないわよ」

 少女はその先の言葉をつむぎはしなかったが、全員がおよそ何を言わんとしたのかは理解したようだ。クズミが小さく尋ねた。

「そんなに危ないのか」

「次の冬は越えられないと思うわ」

 重い言葉だった。スノウの胸がじくりと痛む。

「……治せないの?」

 思わず同じ言葉を重ねた。

「本人も言ってたでしょ。治さないのよ。アルのけじめみたいなもの。……治せるかも、わからないしね」

 ソルレアルは元々魔術師だという。レニシュチの内戦の中でその術を行使し続けた。

「本当に無理をしたのよ。これ以上魔力を絞り出すことなんてできないって状況まで追い詰められて、内臓をずたずたにしながら、それでも」

 ティーレが目を伏せる。そのまま死ぬかと思ったと小さくつぶやく。ティーレに出会ってからはティーレの魔力を中継して使うようになったが、大きな損傷を受けた彼の内臓は元には戻らない。

「よく保った方だと思うわよ」

 スノウはくちびるを噛みしめる。

 榛色の穏やかな双眸がやわらかく笑んで、酢と大蒜を利かせた羊肉の煮込みは絶品だと言って目を細めていた。ホローグ湖のあたりは雲のかかり方が特殊で沸き立つ雲海を見られるとか、ゾエイエ湾にかかった虹が忘れられないとか、多くの美しい故郷を話してくれた。今日初めて会った人物だというのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのかスノウにはわからない。

「アルのために泣いてくれるのね。ありがとう、スノウ」

 言われて初めて、自分の頬が濡れていることに気づく。

「……一番泣きたいのはティーレだろう?」

 スノウの切れ切れの言葉にティーレは首を振った。

「泣かないわよ? 私はアルを笑顔で見送るって決めているの」

 しっかりした声で少女は言った。その確たる決意にスノウはまぶしそうにティーレを見つめる。

「ほかにできることなんて、ないのよ。私は人間じゃないんだもの。せめて心残りなく送り出したいわ」

「ま、そうなるわな」

 よほどのことがなければ死ぬこともなく、死んだとて魂はまたここに戻る。人の寿命を越えたティーレたちは同じ目線に立つことも難しいのだろう。

「といって、サァラが落ち着いてきたのは本当だ。もう昔みたいなことはないと思うぜ」

「昔?」

「ドールと殴り合う寸前までいった」

 スノウが変な声を上げた。

「いやあれちょっと殴ってたよ。パンジュ笑いっぱなしで火に油注ぐからもう勘弁して欲しかった」

「え、それどうなったの」

「必死こいて止めたわよ。アルが」

 ティーレの声はただただ呆れ調子だ。

「サァラはドールの若いころに似てるから我慢できなかったんでしょうね。私も殴り合ったことありますよ」

 レムリィリの言葉に今度は全員が変な声を上げた。

「レムが⁈」

「ええ。だって彼女聞かないんですもの」

 一切悪びれることのない物言いにさすがのクズミも低くうなる。

「さすがに手は上げられねえぞ……」

「最初の一発はためらいましたけど、二発目からは同じです。こう、がつんと」

「いやいやいやいや」

 あまりにもあっさりつむがれる言葉に獣が皆混乱して意味の無い音を口にする。

「だって何でも抱え込んで出来る気になって自分が正しいと吠えて一人でもがいた挙げ句に結局それで周囲や子供たちを追い詰めるなんて本末転倒でしょう」

 一呼吸で言ってのけた言葉は常の穏やかなレムリィリにしては早口で、少しぶり返した怒りが滲んでいるようだった。

「わりと根に持ってる……」

「人の中で生きていくっていうのは、そういうやり方じゃないんです。一人だけで何でもできるなら誰かと生きる必要なんてないですし、寂しいなんて思うはずもないでしょう?」

 金色の羚羊が首をかしげ、そうして喉の奥で笑った。巻いた角の周りで小さな光の粒が舞う。

「ふふ、なんて、私いい方に回ってしまいましたね。本当は私も怒られたんですよ。ここで踏みとどまって踏ん張っていこうとしてるのに逃げ道を出すな、舐めてんのか、ってね」

 スノウはレムリィリを見た。ファランドールのその言葉がイチカの言葉に聞こえたのだ。

「それで、どうなったの」

「逃げずに踏みとどまるというなら抱え込まずに一言言ってくださいと言って殴りました」

「あ、そこで殴ったんだ……」

 何となくだが、彼女は見た目の印象よりも短気なのかも知れないと思った。

「で、ふざけるんじゃないよってドールから反撃があってそこからはもみくちゃでしたね」

 空気が震えて、レムリィリが笑ったのがわかる。おかしそうに声を上げた。

「でも、結構嬉しかったんですよ」

 人間ではないのだからと突き放すでもなく、魔術で助けて見せろなどと都合のいい存在にもせず、レムリィリ自身に向き合おうとしているのだと、そう思えた。

「人間でなくても、一緒に生きていくことはできるんですよ。私たちはそれを知っているはずです」

 そのために生まれ、アスギリオに寄り添った魂なのだから。

「そうだ。アッシュがさみしくないように、一緒に楽しいことをするために、俺たちは生まれたんだった」

 同じことを守人に返せばいい。ほうと大きく息を吐いて、スノウは首をかしげた。

「俺、イチカのこと殴れるかなぁ」

「……無理に殴らなくていいんじゃない?」

 石英の洞窟に笑い声がはじけた。




 夕暮れの風が吹き抜ける。秋の気配があった。傾く日差しに前を行く彼女の金色の髪が照らされて、青年は眼を細める。あの日から数え切れない時を重ねて、獣はすっかり人間と変わらぬ振る舞いができるようになった。今では彼女の助手のような弟子のような、肩書きはよくわからないがとりあえず一番近い場所でともに日々を生きている。

「ああ、しかし忙しい。こういうことを望んでいたわけではないんだがなぁ」

 アスギリオがぼやいて伸びをした。国王直属の魔術研究室室長を務める彼女には当然王宮から仕事が降ってくるのだが、昨今の情勢もあいまってその数が日増しに増えている。転移魔術の完成を急げだとか、通信用魔術具の量産体制はまだかとか、広域結界の術式を改良しろだとか、そもそも平行して行えるようなものではない。その要求の行き着く先が容易に想像できるがために幾度となく突き返してはいたが、文言だけを変えてまた送られてくる。いい加減辟易していた。

「そんなわけでこうして抜け出してきたわけだ」

 今頃置き手紙を見つけた部下たちが右往左往していることだろう。どこか満足げな横顔に獣は小さく肩をすくめた。

「わざわざ窓から出なくてもいいと思うけどね」

「楽しかっただろう?」

 にっこり笑ってアスギリオが肩に担いだ杖をぽんと叩いた。彼女の背丈とそう変わらぬ秦皮の杖はときに乗り物としてその力を発揮する。

「……まぁ、少し」

「二人乗せられるとは思わなかったな。またやろう」

「いや俺以外は無理だと思うよ」

 彼は本性が人ではない。ゆえに自重をある程度変えることが可能で、杖が二人もろとも落下しなかったのはそのおかげだ。

「はは、そもそもお前以外と乗ろうとも思わんさ」

 赤いくちびるが翳りを帯びて笑みを引く。何と言葉を返していいかわからず、獣は沈黙を守った。

「さ、見つかる前にとっとと行くぞ。川のところの定食屋が面白いものを出しているんだ」

「面白いもの?」

「焼いた鯖をパンに挟んでいるんだと」

「えぇ……生臭そう……」

 青年が露骨に顔をしかめる。

「お前は好き嫌いが多いぞ。いや、食わず嫌いだな。文句は食べてから言え」

「はーい……」

 叱られた子供のような声を上げ、獣は意気揚々と川の方へ向かうアスギリオの後を追った。

 日没迫る川べりは家路を急ぐ人と酒を飲みに出てきたものとが入り乱れてにぎわっていた。ここの川は幅が広く流れは穏やかで、人を集める。橋の上にもたもとにも出店が軒を連ね、それでは土地が足りぬとばかりにはしけをつなげた即席の食べ物屋までが舳先を並べている。ごった返す人の中をひょいひょいとくぐり抜けて、アスギリオは早々に目当てを手に入れたらしい。ようやく追いついた青年を振り返って、問答無用で包みを押しつけた。

「よし、林檎水も買うぞ。せっかくだから飴胡桃も」

「……食べきれる? 飴胡桃結構重いよ?」

 小麦粉と蜂蜜を練ったものに胡桃を入れて固めた流行の菓子だ。独特の食感が腹に溜まる。

「余ったら持って帰ればいいだろう。どうしてそう食べないんだお前は」

「いやだって必要ないし」

 人間のように振る舞えるようになっただけで人間になったわけではない。食べようが食べまいが変わらない。そう言えばアスギリオが大仰にため息をついた。

「おいしいのは楽しいことだといつも言ってるだろうに。まぁいい。そのうちわかるさ」

 言うだけ言って主は飴胡桃の屋台に突撃していく。その背中を呆れ半分に眺めながら、それでも結局いつも一緒に何かを食べていると気がついて苦笑した。食べ物に一喜一憂する主がいるから食べようと思えるのだ。飴胡桃など自分からは絶対手を出さない。

「だって重いし」

 水面に夕日が反射してきらきらと輝く。その光を裂いて一艘の小舟が川を上っていった。船尾に立った男がけだるげに操る櫂の音がぎいぎいと耳に残る。その後ろ姿を眺めながら二人のんびり歩いて行った。喧噪から離れ、行儀が悪いとは知りながらも歩きながら戦利品を口に運ぶ。噂の鯖だ。

「うん、うん。おいしい。網焼きにしてるからかな。脂がほどよく落ちて塩気が効いて、玉葱とパンによく合う」

「うん、確かに生臭くないね。これはおいしいかも」

「だろう? 魚はな、おいしいんだ」

 アスギリオの言葉にそういえば初めて会ったときも烏賊だの鰯だのの揚げたものを食べさせられたことを思い出した。

「で、これどこ向かってるの」

 最後の一口を口の中に押し込めて林檎水を流し込み、魚と甘味はさすがにどうなんだろうと今更ながらに思う。

「西の支流にため池があるだろう。最近あそこの魚が大量に死んだと訴えがあった」

 青年は大きくまたたいた。そのために王宮からの仕事を放り出して抜け出してきたのかと問い返す。

「ああ。何かよからぬものが居着いているのではないかと不安がっている。あの村は昔世話になったからな。私にできることなら助けになりたい」

 さらりとつむがれる言葉にもう一度またたく。そうして鼻を鳴らした。

「何だ、不満か?」

「違うよ。アッシュの中で物事の大きさと優先順位は一緒じゃないんだなって思っただけ」

 王の勅命よりも村人の不安を選ぶものがどれだけいるのだろう。

「大きさもそう違わないと思うがな。国王陛下への恩義も村人への恩義も同じ恩義だ」

「多分そういう人間は少ないんじゃないかなぁ」

 アスギリオの価値基準は普通の人間とずれているらしい、と知ったのはいつだったか。だからといって獣である自分の行動が変わるわけではないのだが、彼女に降り積もるうっすらとした孤独はそのあたりが理由なのだろうとは思っている。

「らしいな。私にはわからん」

 ぽつりとつぶやいて、アスギリオは飴胡桃を口に放り込んだ。

「もういいんだ。お前がいる。それ以上は望まない」

 その言葉に滲む切実さに胸の奥が痛んで、ずっと抱えていた疑問を口にしてみる。

「……アッシュは、人間が嫌いなの?」

 主は首をかしげた。

「どうかな。そんな大きな主語で嫌ったことはないはずだぞ。ただまぁ、どうして私は輪に入れないんだろうなとはずっと思ってる」

 自分はあちらを害したことなどないはずなのにいつの間にか疎外され、けれど魔術は必要だからと無理矢理に輪に加えられ、けれどどうしたって異質であり続ける。そんなことを繰り返してきた。どうしていつもそうなるのか、ずっとわからないままだ。

「きっと、魔術の英雄というのは人ではないという意味なんだろうな」

 痛みをはらむ声に返すべき言葉を見つけられなくて、青年は沈黙する。アスギリオが胡桃をかみ砕く乾いた音だけがしていた。

 くだんのため池は山から下りてくる細い水流を引き込んで貯水し、必要に応じて下流の畑に流すだけの簡素な作りのものだった。引き込む水流の傍らに共用の水車小屋があり、堤の水門は村の長が管理している。村一つ分潤すのにやっとという程度の大きさで、深さも極端に深いということもない。ただただ平凡な池だ。

 日没直前ということもあって周囲に人影はない。これ幸いとばかりに二人はみぎわに立って池を見渡していた。

「多分おかしなものが居着いてるってことはないと思うが一応確認してきてくれ」

「わかった」

 青年は浅くうなずいて、無造作に池の中に足を突っ込む。その輪郭がほろりと崩れた。確かにそこにいたはずの長身の影が立ち消えて、代わりに薄く光を放つ魚影が池の中心へ向けて泳いでいった。銀色の光が航跡を引く。やがて光は淡くなり、深く潜ったのかふつりと消える。アスギリオは地面についた杖に半分体重を預けるようにしながら待っていた。

「何もいないよ。そもそも魔力が滞留するような場所でもないし」

 やがて前触れもなく声がして、水面に青年が立っていた。

「まぁそうなるよな。他には?」

「多分だけど、底の泥が腐ってる。深いところの水が重かったし、確かに魚はいなかった」

 水一滴したたらせることなく青年は堤に足をかけてアスギリオの隣に戻る。

「ふむ。そんなことだろうとは思ったが。なら話は早い」

 アスギリオが地面から杖を引き抜いて片手で一回転させる。そう軽い杖ではないはずだが、彼女はいとも簡単に振り回してみせた。そうして金色の髪がふわりと浮き上がる。わずか青みを帯びた光を放ちながらくちびるを開いた。つむがれる言葉は浄化の術式。腐敗した泥を正常な状態に戻し、水の循環を促す。くるくると小さな螺旋を描きながら光は杖の先へと収束し、そして水面にぽとりと落ちた。その瞬間、池の面に光のさざなみが広がっていく。青は金色へと色を変えながらアスギリオの杖先から対岸へ向かって滑っていった。水面全てが金色に覆われて光の粒が沸き立ち、やがて消えていく。あとには静寂だけが残った。

「よし、おしまい」

「お疲れ様」

 視線を落とせば、池の透明度が上がっている。無事に浄化できたようだ。面倒な話でなくて良かったとアスギリオは安堵の息をこぼした。

「本当は水車小屋に浄化術式を仕込めればいいんだが、そうすると魔術師の巡回が必要になるからな」

「今の魔術局にそんな余裕はないね。まぁ、そうしょっちゅう起こるようなことでもないし気が向いたときに見に来ればいいんじゃないの?」

 青年の言葉にそうだなとアスギリオがうなずいたのと背後から声がしたのは同時だった。

「あらまぁ、もしかしてアスギリオさま?」

 振り返れば、背中に大きな籠を背負った農婦が一人で立っている。よく日に焼けて恰幅がよく、笑顔がまぶしい。籠の中身はどうやら林檎のようだった。

「お久しぶりです。いらしていたなんて知りませんでした。どうしましょう、みんなに知らせないと」

「いや、いい。仕事の合間を抜けてきたんだ。むしろ秘密にしてくれ」

 苦笑を浮かべるアスギリオに、女は名残惜しそうな声を上げる。

「いつもそうおっしゃってすぐ帰ってしまわれるんですもの。たまにはゆっくりしてらしてくださいな」

「諸々片付いたらそうさせてもらうさ。とりあえず、ため池の問題は解決したよ」

 女の目が丸くなった。

「では魔物はアスギリオさまが退治なさったんですか!」

「いや、池底の泥が腐っていた。浄化したから向こう十年くらいは問題ないはずだ」

「泥って腐るんです? 魔物が腐らせているのではなく?」

 どうやら彼女の中で魔物の存在を拭うのは難しいらしい。

「魔物がどうかは知らないが腐るのは本当だ。だからおかしくなったら魔術局に浄化の申請をするといい。それで何とかなると思う」

「さすがですねえ。いつもこう、さらっと全部解決してくださって。覚えてます? 土が駄目になったときもアスギリオさまが一日で土を戻してくださったんですよ。あれから実りも安定してみんな良かったねえなんて話をして──あ、そうだ。初物の林檎があるんでした。一番林檎だからまだそんな甘くはないんですけど、こんな早くに林檎がとれるようになったのもアスギリオさまのおかげですから」

 是非もらってくれと籠の中身をぶちまけようとするのを二人がかりで押しとどめ、結局アスギリオの手の中には林檎が二つ残った。農婦は何度も感謝の言葉を重ねながら振り返り振り返り村へ向かって去って行って、アスギリオはただ笑っていた。その様子を口を挟むことなく見守っていた青年が静かにつぶやく。

「珍しいね。アッシュにしてはずいぶん深入りしてる」

「言っただろう? 世話になったんだ。最初の頃にこの村の外れでずっと魔術研究に明け暮れていたんだが、いつも誰かしらが食べ物やら花やら土産話やらを持ってきてくれてな。居心地のいい時間だった」

 ふわりと昔を懐かしむ色を見せた主に獣の表情もまたゆるんだ。彼女が人を愛おしむ言葉を口にするのが嬉しかった。

「ただまぁ、私が魔物を退治したことにはなるだろうな」

「ずいぶんこだわってたもんねえ」

「仕方がないさ。魔術も魔物も彼らからすれば大差ない」

 全てを理解してもらうことは根本的に不可能だと悟ったのはいつだったか。

「まぁそもそもここにそんなものが居着いたら私が見逃すはずがないんだ」

 絶対に捕らえて使っているとなぜか断言するアスギリオに青年は呆れた声を上げる。

「何に使うのさ……」

「お前に食わせる」

 ぎょっとした顔で主を見た。

「食べないよ?」

 珍しい表情が面白かったのか、アスギリオが喉の奥で笑う。

「今のお前はな。お前を作るときになりふり構わず色々なものを入れたから、もし何か居着いていたら間違いなく使ってた」

「……何入れたの」

「忘れられた神への供物とか、異国の呪符とか琥珀の中の虫とか血とか脂とか水銀とか。思いついた物をありったけ。あとはそうだ、魔力容量のものすごい石。あれ何だったんだろうな。水晶の百倍くらい魔力吸い上げて、しかも劣化しないんだ。確か砂漠で発見された魔術師の遺物だったか……?」

 ──聞かなければ良かった。

 思わず空を見上げた。残照が空を紫色に染めている。

「自分の内包物とか正直聞きたくなかったなァ……」

「聞いたのはお前だぞ」

 アスギリオが心外そうに眉根を寄せる。

「まぁでも核はあの石だろうな。他はおまけだ。結局のところ純度の高い魔力で構築するのが一番安定する」

「なんで俺の本性が五つもあるのかよく理解したよ」

 青年はため息をついた。混ぜられたものの数が多すぎる。そうして、尋ねてみた。

「どうしてそうまでして俺を作ったの」

「ん? 言ったことなかったか? ──さみしかったんだ」

 くしゃりとアスギリオが笑う。その顔を獣は知っていた。確かにこの村を愛おしんで人との交わりを喜んで、その時間を今なお大切に抱えている主が口にした言葉。その向こう側にあるものを想像することさえできなくて、くちびるを引き結んだ。

「私と一緒にいてくれる誰かが欲しかった。私を裏切らない誰かが欲しかった。魔術なんか無関係に私と生きてくれる誰かが欲しかった。でも私は人の間でそれを得られなかったから」

 この手の中にあるのは魔術だけだった。だから──。

「お前を作ったんだ」

 沈黙が落ちる。

「……重くない?」

 青年が深いため息をついた。

「重いぞ?」

 けろりと悪びれることなくアスギリオが言う。獣はもう一度ため息をついた。

「正直、俺そこまで背負ってあげられる自信がないんだけど」

「はは、今のままで十分だ。お前と過ごすのは楽しい。こんなに楽しいのなら必死になった甲斐もある」

「やってることほとんど買い食いだけですけど」

「楽しいだろう? 一回やってみたかったんだ」

 獣は無言で瞠目した。てっきり彼女のならいなのだとばかり思っていたのだ。

「おいしいんじゃないかなぁ、おいしいと思うんだがなぁと思ってただ通り過ぎていたものがやっと食べられた」

 お前のおかげだとつむぐ声音は真摯で、その言葉に嘘などないと知れる。

「些細な幸せが一番得がたいからな」

「些細すぎるでしょ……」

 獣がつぶやくのと、どこからともなく青い光を羽にともした鳩が舞い降りるのが同時。アスギリオが嫌そうな声を上げた。

「ああ、見つかってしまった」

「さっきの魔力の残滓が引っかかったんだろうね」

 鳩はアスギリオの手に止まって、そのくちばしからけたたましい言葉を次々に吐き出す。部下の泣き言だった。要約すれば王宮からの使者がかんかんに怒っているから可及的速やかに戻れとそういう話だ。

「ああ仕事か。まったくままならんなぁ。戦争なんてやりたいやつだけがやればいいものを」

 アスギリオがぼやく。

「それでもそうやって引き受けるんだから、アッシュってお人好しだよね」

「人がいいなら戦争はしないと思うぞ」

「それはそう、かも……?」

 首をかしげる獣の横顔にアスギリオは小さく笑って、彼の名を呼んだ。

「さ、帰るぞ。──イァーマ」


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