15


 

        *


 康生の一回忌があり、同棲を始めてから一年が過ぎた。

日々は穏やかに過ぎ、ふたりの関係はゆっくりと深化していった。


 康生への思いは依然として彼女の胸の中にあった。発作的ともいえる追想が日に幾度も訪れ、そのたびに彼女は痛みにも似た切ない感情に身を震わせるのだった。


 不思議なことに、彼と相対していたときよりも、その感情はよりいっそう鋭く激しく、彼女の心を掻き立てていた。感傷と郷愁。もしかしたら、それがこの激しさの秘密かもしれない。彼女はそんなふうに考えていた。


 いずれにせよ、彼女の内には康生がいた。彼との思い出は幾度も再現され、重ね塗りされた絵のように、深い色合いに染められていた。真帆は漠然と、自分は一生この思いを携えていくのだろうと感じていた。康生は彼女を過去へ向かわせる恋人だった。

 そして未来へは――



 充生は父親によく似ていたが、しゃべるときに指は動かさなかった。康生よりはおっとりしていて、静かに夢想していることが多かった(たいていは、頭の中で新しい作品の設計図を描いていた)。鉛筆を噛む癖があり、彼の筆記具はどれもぼろぼろだった。鉛筆だけならまだしも、金属製のシャープペンシルまで囓るものだから、横で見ている真帆のほうが気持ち悪くなった。注意しても、いつの間にか彼はまたペンを口の中に持っていってしまう。


 充生はよく、返事を返す代わりに「あはは」と力のない笑い声をもらすことがあった。おおむね自分の気持ちにそぐわないことを真帆から言われたときにそれは出た。そのたびに「生存確率」という言葉を彼女は思い出した。

 彼は争いが嫌いなのだ。いまは法律が抑止力となっているから意見の衝突で命を落とすことはまれだけど、ひとが森で暮らしていた頃にはささいないさかいで殺されることもあったはず。彼はそういった衝突をとことん避けようとする。


 実生活だけでなく、虚構の世界での諍いも彼は嫌っていた。

 ときには一緒にTVで映画やドラマを観ることもあったが、彼は争いや虐待、いじめや嫌がらせの場面になると、どんどんと画面から遠離とおざかっていった。最後はキッチンに置かれたテーブルの向こうにまで逃げて、そこで目を閉じていることもあった。

「いやなら消そうか?」と真帆が訊くと、「そのままでいい」と答える。

「だって、物語はおもしろいから。ここが過ぎれば、また戻るから」

 何度も繰り返すうちに、彼の反応にはいくつかのパターンがあることが真帆にも分かってきた。

 陰湿な嫌がらせやいじめは、キッチンに逃亡して目を閉じてしまう。アクション映画の派手な乱闘シーンはなぜかまったく平気だった。主人公がまわりの悪意によって窮地に陥るような場面は、リビングとキッチンの境まで逃げて、そこに立ったまま遠目で画面を見ていた(疲れるから座れば、と真帆が言っても彼は戻ろうとはしない。ひどいときは二時間そこに立ったままで見続けることもあった)。諍いとは違うが、ラブシーンでも彼はそわそわと落ち着かなくなる。ベッドシーンは平気な癖に、主人公が愛の告白をするような場面になると逃げ出してしまう。確かめると、キッチンの椅子に座り、目を細めて画面を見ていたりする。

「なんで目を細めるの?」と真帆が訊くと、充生はしばらく考えてから、「情報量かな」と答えた。

「遠くに行くのも、目を細めるのも、情報量を減らすためなんだと思う。そうすると緊張が下がるんだ。真帆ちゃんはそういうことないの?」

 そうね、と彼女は答えた。

「嫌なら見ないし、見るならしっかりと見る。充生みたいな見方はしないわ」

「あ、そう」

 

十九になっても充生はまだ背が伸び続けていた。

「ずいぶんと奥手なのね」と彼女が言うと、「父さんもそうだったから」と充生は返した。

「でも、もうすぐ父さんの背を超えてしまう」

「いっぱい食べてるからよ。どんどん大きくなればいいわ」

「だけど不便だよ。昨夜も鴨居に頭ぶつけちゃったし」

 そう言って長い髪に覆われた頭をさすった。

 彼は父親と同じ理髪店を使っていた。康生と同じ髪型で、康生と同じような目で見下ろされると、彼女はなんだか落ち着かない気分になった。


 

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