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 真帆が抱える病状――頭痛、目眩、息苦しさ、等々――は、前に進むことを決断した時点から徐々に影を潜めていった。心因性の病気ではよくある展開らしい。貧血や生理痛はつねにあったが、それは病気と呼ぶほどのことではない。勤めていたときと比べればずいぶんと彼女は健康になった。伊田家のTVと同じだ。時々調子を崩すけど、たいていは健康。


 働きに出ることも考えた。けれど、いっぺんに多くの環境は変えたくなかったので、まずは新しい寝室に慣れることだけに専心した。彼女は康生の部屋を寝室と決めた。初めてセックスを体験したベッド。シーツは古いままで、微かに染みの跡が残っていた(彼女は温水を使うという間違いを犯していた)。枕には康生の匂いがあった。ちょっとだけ珈琲の香りに似ている。

 最初の夜、彼女はこのベッドで泣いた。自分が付けた染みの上に涙が落ち、ふたつが混じり合った。それは見慣れない不思議な色をしていた。



 充生とふたりだけの食事は静かなものだった。以前は康生がほとんどひとりでしゃべっていた。合いの手は真帆。充生はつねに聞き手だった。彼はいつも穏やかな笑みを浮かべながら、父親の話に耳を傾けていた。


 食事のあとは、ふたりで一緒にTVを観た。何かをつくる番組、そして園芸プログラム。真帆は康生の育て方を尊重し、庭の緑にはあまり手を加えなかった。水やりと追肥にだけ気を配り、あとは植物の好きにまかせた。

 九時を過ぎると風呂の準備をした。とても古い風呂釜で、マッチで火を付けるタイプだった。先に充生が入る。彼と入れ違いに真帆。最初のうちは照れがあって、風呂から出たあとも昼間と同じような装いをしていた。けれど、じきに慣れてくると、だんだんとラフな格好に変わっていった。季節は夏だったし、クーラーはこれもおそろしく旧型で、ほとんど用をなしていなかった。


 タンクトップにショートパンツという姿で居間に戻ると、充生は落ち着きを失い、顔を真っ赤に染めた。真帆には経験者の余裕があった。たった一回でもゼロとは大違いだ。彼女は無自覚を装い、彼の隣に座ってドライヤーを使った(洗面所は暑くて、とても長居できなかった)。腕を上げるとき、腋が気になった。見ていないようでいて、充生はしっかりと見ているから。


「そのタンクトップ」と充生があるとき言った。

「いいデザインだね」

「そう?」

 うんうん、と彼は二度頷いた。

 新しく買ったタンクトップだったが、それまで着ていたのと同じブランドで、つくりもほとんど同じだった。

「よく分かったわね」

「なにが?」

「これが新しく買ったものだって」

 充生は不思議そうな顔をした。気付いて当たり前だと思ったのだろう。彼はデティールを見るのが好きだったから、どんな些細な違いにもすぐに気付いた。

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