そうやってひと月ほどが過ぎ、ふたりはついに言葉を交わすことになる。


 この日はお菓子売り場ではなく、エスカレーター下のベンチに彼はいた。

 白いスチール製のベンチの一番端に座り、彼は空いているスペース全体にパッケージの中身を広げていた。カラフルなプラモデルのパーツのようなもの。彼は熱心に、それを組み立てていた。寝癖なのか、後頭部の髪がはねていて、それが頭の動きに合わせて小さく揺れている。


 真帆は両手を重ねて夕飯の材料(この日の献立は挽肉とニンジンとひじきの入った厚焼き卵だった)が収まったビニール袋を持ち、彼から五メートルほど離れた場所に立っていた。かなり長い時間露骨に見ていたが、彼が気付くことはまったくなかった。


 やっぱり、おかしい。


 どうしてなのかは分からないけど、彼のすべてが、少しずつずれている感じだった。

 動きが妙にぎこちない。身体がつねに前後に揺れている。唇のあいだからは、奇妙な音が漏れ出ているし、右足の踵とサンダルが、断続的にクラッピング音を響かせている。

 なにより年齢にそぐわない熱中ぶりだし、あの無防備さは、場所によっては命取りになりかねない(サバンナ、西アジアの紛争地域、あるいは都会の繁華街などなど)。


 つらつらとそんなことを考えながら見ていたら、彼がふいに顔を上げた。どうやら作業が終わったらしい。彼は自分の作品を目の高さに掲げて、最後のチェックを始めた。それは赤、青、黄、緑のプラ板でできたカラフルなペンギンだった(真帆は最初に彼を見かけたときのことを思い出した。腿の両脇で広げられた五本の指)。


 ずいぶんと熱心に彼は四色ペンギンを眺めていた。その延長線上にいる真帆はペンギンと重なり合っていたはずだ。彼が通り過ぎた視線をいきなり引き戻すようにして彼女を見たのは、毛様筋もうようきんのささやかな気紛れだったのかもしれない。


 感情の揺れを思わせるような微妙な間があり、それから彼は下手くそな微笑を浮かべた。生まれてからまだ三度ぐらいしか試したこがないようなぎこちなさだった。


 真帆は笑みを返し、三歩ほど彼に歩み寄った。会話を求めて近づいたのか、エスカレーターに向かうのか、そのいずれにも取れるような動きだった。真帆はじっと彼の反応を見ていた。拒否、ニュートラル、いずれの場合も彼の横をそのまま抜けてエスカレーターに向かうつもりだった。

 けれど、康生が示したのは婉曲的な歓迎だった(多分そうよね、と真帆は心の中で自分に確認した)。彼は無言のまま座る位置をずらし、ひとり分のスペースを空けたのだ。


 彼女は康生と目を合わせないまま、彼の横に腰を下ろした。手にしていたビニール袋を足元に置き、ふぅ、と息を吐く。それから、ゆっくりと首を捻り、彼の膝のあたりに視線を置いた。視野の端で、彼も真帆の膝のあたりを見ていることが分かった。青地に白い花(おそらくマーガレット)の模様が描かれたフレアスカートを穿いていたが、その中に収まっているふたつの膝頭が、なんだかくすぐったかった。


 あの、と彼が言い、その先を細い指が継いだ。マジシャンのように胸の前で手のひらをひらひらさせて、彼は何か言おうとしていた(この先、いつも見ることになる彼独特のコミュニケーションだった。彼はいつも口と指を使いながらしゃべっていた)。


「これ」と彼が言って、先ほどの四色ペンギンをベンチから拾い上げ、ふたりのあいだの空間に掲げた。 

「あげましょうか?」


 え? と言って彼を見たら、向こうも真帆を見ていて、ぶつかった二人の視線がクラッカーボールのように弾かれ合った。


「ずっと――」と、少し経ってから彼が言った。

「見てましたよね」


 真帆は顔が熱くなるのを感じた。不躾ぶしつけに眺めていたこと、気付かれていたんだ。恥ずかしい。


「可愛いですもんね、ペンギン」

 彼が言った。

 ちょっとだけ、ずれているような気がした。勘違いというほどではないけど、重心の位置が少しずれている感じ。


「だから、あげます」

 そう言って、四色ペンギンを真帆の前に差し出した。唐突な申し出に彼女は一瞬怯んだが、厚意を無碍にできるはずもなく、そのまま受け取った。

「ありがとう、ございます……」


 たしかに可愛かった。くちばしが赤く、腹が黄色い。パプアニューギニアにでも棲息していそうなビビッドな色あいだった。

「ほら、これ」と言って、手にしたペンギンを眺めている真帆に、彼が紙を見せた。

「はい?」

 真帆が訊ねるような視線を向けると、彼がはにかむような笑みを見せた。

 子供みたい、と彼女は思った。このひと、子供なんだ。大人の器に子供の中身が入っている。

「ぼくが描いたんです。この食玩の取扱説明書」

「あぁ……」

 それで、すべてが腑に落ちた。真帆は新たな情報によって修正された目で彼を見た。もう、彼の部屋に売れ残ったCDはなかった。あるのは、ドラフターと製図ペン。そして、資料の玩具たち。

「テクニカルイラストレーターって仕事なんです。こういったものを、よろず請け負っている」

「お上手ですね」

 プロ相手に間の抜けた感想だったが、取扱説明書を見ながら、彼女はそんな言葉を洩らした。

「はい、そうなんです」

 この彼の反応も、冷静に考えれば少しおかしかった。けれど、緊張している真帆はそれに気付かずにいた。彼が謙遜とかお世辞とか、社交的なスキルをまったく持っていないことを知るのは、もう少し先になってからのことだ。

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