エッチ・スイッチ・ワンタッチ 02


『続いて、交通情報です。お盆最終日の今日、各地の高速道路ではUターンラッシュの影響による渋滞が発生しております。圏央道では―』


風に揺れて波打つ水田が窓の外を流れていく。青空の下、カーラジオが伝える渋滞情報などとは無縁のがら空きの一本道を、車は軽快に飛ばしていた。


今日のデートの行先は、家から車で三、四十分程の日帰り温泉。隣町に去年オープンしたばかりのその施設は、温泉はもちろん、岩盤浴やマッサージ、地元食材を使った料理をビュッフェ形式で楽しめる食事処等が魅力(と、いうのは今見ている紹介サイトの受け売りだ)で、以前から俺も友も行ってみたいと思っていた場所だった。


「なあ、ひぃ。ビュッフェ、どんなメニューがあるって?」


ハンドルを握る友が、助手席に座る俺に聞いてきた。俺はスマートフォンから顔を上げ、半ば呆れながら言った。


「友はほんと、食べものばっかりだな」


「だって気になるじゃん。ねえ何て書いてある?」


「蛙の丸焼き」


「絶対ないだろ!」


友がちらりと俺の顔を見て、頬を膨らます。運転中じゃなかったら両手でそのぷくっとした頬をむにむにしてやりたい。俺は友に「行ってからの楽しみにしとけって」と言って、スマートフォンをズボンのポッケにしまった。

  

田園地帯を抜けると、辺りには民家が増えてきた。前方に見える巨大なロジスティクスが道路に影を落としている。その影を越えてさらにまっすぐ走り続けると、車はいよいよ市街地に入っていった。


しばらくして、交差点で車が止まったので、俺は友に話しかける。


「てか、友も温泉行きたいって言うなんて、ちょっと意外だったかも」


「え、そう?」


「うん。いつも風呂めっちゃ短いし、あんまり興味ないかなって思ってた」


「風呂は好きなんだよ。でも家の風呂ってなんか怖いじゃん!髪洗ってる時にだるまさんが転んだって念じると……っていう怖い話とか。色々考えちゃうと長く入っていられないんだよ」


「なにそれ」


俺が笑うと、「笑い事じゃないって」と友に肘で脇腹を小突かれる。


「ひぃ、なんとかしてよ」


そう言って友が肩にもたれかかってきた。俺はうーん、と少し考える。そして閃いた。


「じゃあ今度一緒に風呂入る?」


「えぇー、それはなんか恥ずかしい……」


「これから一緒に温泉入るのに」


「温泉で一緒に入るのと家で一緒に入るのは違うって」


「そういうもん?裸だって何回も見てるのに」


俺としては何気なく言ったつもりだったのだが、ふと、目に入った友の耳たぶが、かすかに赤くなっている。

それを見てにやにやしている俺に気づくと、友は「えっち」と言って、俺の腕に肩をこつんとぶつけてきた。ちょうど信号が青に変わり、友はまた運転に戻る。


ドアポケットに肘をついて、俺は友の運転姿を眺めた。友が運転する車に乗るのは初めてではないけれど、なんとなくまだ見慣れない光景だ。「あの友が運転なんて」とつい、親のような気持ちになってしまう。


だけど、普段の友とは違う、眉を少し寄せて慎重にハンドルを操作するその横顔は、正直惚れてしまうくらいかっこいい。まあ、もう惚れてるんだけど。


じっと見ていると、友が一瞬だけこっちを見て「何?」と聞いてきた。俺は「なんでもない」と首を振った。


カーラジオから今度は流行りのポップスが流れてきた。友が曲に乗って気持ちよさそうにふんふんと鼻歌を歌うので、俺も一緒に口ずさむ。


二人のハミングは次第に盛り上がっていき、サビまで歌いきったところで、俺と友は顔を見合わせて笑った。







障子戸を模した自動ドアを抜け、靴を脱いで館内に入る。中は空調が効いて涼しかったが、床暖房が入っているのか、足裏はぽかぽかして気持ちいい。肩の力がふわりと抜けていくようだ。


入口の側の下足入れの中から、空いている場所を適当に開ける。一部屋が二段に分かれた下足入れの上の段に友の靴、下の段に俺の靴を入れた。一つの下足入れに二人の靴が収まっているのは、なんとなく良い光景だと思う。大袈裟かな。  


「ひぃ、すげえ!玉こんにゃく美味そう!」


なんて、しみじみしているのも束の間。いつのまにか、フロント横のお土産コーナーにいた友に呼ばれる。瞳を輝かせて友が見ていたのは地元名物の玉こんにゃく。一袋百円。なるほど、よく味の染みてそうな玉こんにゃくだ。


「帰りに買ってこうな?」


俺は友のシャツの裾をつまみ、フロントまで引っ張って行く。その間、友はちらちらとお土産コーナーの方を振り返り、名残惜しそうにしていた。全く本当に色気より食い気なんだから。


フロントで入館受付を済ませると、俺達はビュッフェに向かった。ビュッフェの営業が始まるまではあと一時間あったが、先に予約をするためだ。入口の前に設置された予約表に友が名前を書く。


『二名 たてしま』


「何?『たてしま』って」


予約表に書かれたその名字に俺が首を傾げると、友が得意げに言った。


「『舘野』と『横島』を合体して『たてしま』。どう?」


頭の中でシミュレーションしてみる。舘島仁。たてしまじん、か。


「何かこう、しっくりこない名字だなー」


「えー、いいと思ったんだけど」


「俺は『たての』でもいいよ」


「へえ、じゃ、なる?」


「雑なプロポーズだなあ」


「オッケーしてくれる?」


「もちろん」


友がまるで王子様にでもなったかのように、恭しく右手を差し出してきたので、俺もプリンセスのつもりでその手を取ってみる。直後にお互いぷっと吹き出し、げらげら笑い合った。


始まったばかりのデートに舞い上がっているのは、俺も友も同じだ。


友が「風呂行こうぜ」と言って、俺の手を握って駆け出す。きゅっと握られた手首の感触がなんだか嬉しかった。







「はあ~……溶ける~……」


「んー……」


乳白色のお湯に、友と並んで肩まで浸かる。大浴場の窓は開け放たれていて、外から吹き込む夏の風も、湯船に浸かっていると心地よく感じる。ずっとこうしていたら友が言ったみたいに溶けてしまいそうだ。


開館してから三十分程しか経ってないせいか、大浴場には俺と友、あとは向こうで炭酸湯に浸かっているご老人が一人くらいしかいない。ほぼ貸し切り状態だった。


ばちゃん。


ふいに、湯が跳ねるような音がしてぱっと隣を見る。いつのまにか、友の顔と前髪がびっしょり濡れていた。


「……どうしたの?」


「気持ちよくてうとうとしてたら顔からお湯に突っ込んでた……」


「赤ちゃんかよ」


俺は笑いながら、頭に乗せていたタオルで友の顔を拭いてやった。友がぷるぷると頭を軽く振って前髪の水気を切る。赤ちゃんというか子犬かもしれない。なんとなく友の頭を撫でてみたが、特に抵抗もされず、むしろ目を細めて気持ちよさそうにしている。俺は友に聞いた。


「気持ちいい?」


「んー」


「どっちが?お湯?手?」


「お湯」


「……」


ぷしゅっ。


「わっぷ!?」


両手を組んで水鉄砲を作り、友の顔面に勢いよく発射した。ぱちぱちと目を瞬かせてから、友が言った。


「冗談だったのに」


「知ってる」


友が俺の真似をして両手を組んで水鉄砲を作ってみせた。しかし、上手く指の間にお湯が入らないのか、全く飛ばない。ふふ、と思わず笑うと友が悔しそうに唇を尖らせる。


仕方ないので、俺は友の手を取って「こうやるんだよ」と教えた。ぴゅっとお湯が飛ぶと、友は「おおー」と瞳をきらきらさせて嬉しそうにしている。可愛い。


大浴場内に人が増えて、にわかに騒がしくなってきた。気がつくと、俺も友も手がふやけている。随分浸かっていたみたいだ。頃合いだと思った俺達は、湯船を上がった。







脱衣所で濃紺色の作務衣風の館内着に着替える。タオルで頭を拭いていると、ロッカー横の牛乳の自販機が目に入った。俺は少し迷ったが、百円玉を入れ、フルーツ牛乳を買う。


飲みながら友の姿を探すと、脱衣所の隅に置かれた体重計の前で足踏みしているのが見えた。乗るのか、乗らないのか。しばらく観察していると、友は右足をそろりと体重計に乗せ、そして、ついに左足も乗せた。


それを見た俺は、友の背後にこっそり近づき、体重計の端にそっと自分の右足を乗せる。


「えっ!?やば」


「どうしたの?」


結果を見て声を上げた友に、素知らぬ顔で話しかける。もちろん、友がこちらを振り返る前に、体重計から足を引っ込めて。


「ひぃ、どうしよう。俺、めっちゃ体重増えてた……」


「そう?そんな風に見えないけど」


「ひぃは毎日見てるから気づかないんだよ。数字は正直に俺がデブだって言ってる」


「え~、じゃあ友はずっと一緒にいる俺よりも、今日会ったばかりの体重計の方を信じるんだ?」


「そ、それは……って、体重に関してはさすがに機械の方を信じるだろ」


「さみしいなあ、友」


「めんどくさ」


友がはは、と笑いながら体重計を降りる。俺も笑いながら「まあ、俺が後ろから体重かけてただけなんだけどね」と言ったら、友に後頭部をぺちっと叩かれた。


「あ、牛乳ずるい」


「飲む?」


「うん」


牛乳瓶を友の口元まで運び、瓶を傾けて、友にもフルーツ牛乳を一口飲ませる。おいしそうにごくごくと飲む友を見ていると、ヤギの赤ちゃんにミルクをあげてるような気分になった。赤ちゃんだったり、子犬だったり、ヤギだったり。俺の中の友は変幻自在だな。


「今度、牧場とか、動物園に行くのもいいかもね」


「何、急に」


友が腕で口元を拭いながら首を傾げる。「ぱっと思っただけ」と言って、壁に掛かった時計を見る。十時五十分。もうすぐビュッフェの営業が始まる時間だ。


俺と友は再び、ビュッフェの入り口に戻って来た。空いている二人掛けの椅子に腰かけて、呼び出されるのを待つ。


予約表に名前を書いた時は気にしていなかったが、俺達の前には、あと二組待っているようだった。一組は老夫婦で、もう一組は父、母、三歳くらいの小さな男の子の三人家族。

両親に挟まれて椅子に座る男の子は、床につかない両足をぱたぱたさせながら、しきりに「びっへまだー?」と聞いている。


「『びっへ』だって。可愛いなー」


友が俺の服の袖をくいくい、と引っ張ってそう言ってきた。俺は男の子と友を交互に見る。


「友もあんな感じだったんじゃない?」


「あー、そうかも。電車乗ると絶対『あとなんこでおりる?』って聞いてた気がするし」


「分かる。言ってそう」


「ひぃは?昔からしっかりしてたの?」


「別に今もしてないけど……あんま覚えてないな」


「そっかー。でもめっちゃ可愛かったんだろうなあ」


それはなんてことない友の一言だった。だけど、妙に胸の奥がきゅうっとしてしまって、咄嗟に「じゃあ今は?」とでも聞いて茶化さないと、元の調子に戻れそうもない。


だけどその必要はなかった。ビュッフェの入り口から出てきた従業員が、呼び出しを始めたからだ。老夫婦、三人家族、と順調に呼ばれていき、ついに俺達の番が来る。


「二名様でお待ちの『たてしま』様ー」


「行こ、友」


立ち上がり、友の肩をぽんぽんと叩く。しかし、友は椅子に座ったまま、きょとんとしている。


「え?呼ばれた?」


「うん。友、『たてしま』って書いてたじゃん……まさか」


「はは、忘れてた」


そう言って立ち上がる友に、俺ははあ、と嘆息した。







「友、唐揚げ、揚げたてだって」


「マジで?取ってくる!」


俺がそう報告するなり、友は空いた皿を持って唐揚げの元へと向かった。

ぱたぱたと小走りしていく友の背中を見送ってから、テーブルの上に目を向ける。


十字に仕切られた白いプレート皿が四枚。これは友が持ってきた分だ。その上には、様々なメニューがぎゅっと詰め込まれていた。


食べ放題やビュッフェに行くと、友はまず全てのメニューをちょこっとずつ盛り付けてくる。それから、徐々にメニューを厳選していき、最終的には一番気に入ったものを気の済むまでおかわりする。これが友流のビュッフェ攻略法で、友はこの攻略法のことを「トーナメント方式」と呼んでいる。


対して、俺のビュッフェ攻略法はというと、まず、ビュッフェを隅から隅まで回って、どんなメニューがあるのかを把握する。それからプレートを手に取り、目星をつけたメニューのみを取っていくというスタイルだ。友流に言うなら「スカウト方式」とでも呼ぼうか。ちなみに、この方式ではよく、ドリンクバーの隣あたりにひっそりとあったカレーコーナーを見落として後悔しがちである。


俺は改めて友のプレートを見る。今回友がよそってきたのは―夏野菜の天ぷら、たこ焼き、フライドポテト、手羽先、マカロニグラタン、ポテトサラダ、ピリ辛きゅうり、青菜炒め、蒸し鶏とレタスのマリネ、茶わん蒸し、チキンカレー、国産十割そば、ミニワッフル……などなど。


さて、今回優勝するのはどのメニューだろうか。俺の予想では、フライドポテトとピリ辛きゅうりあたりは決勝は固い。ダークホースはワッフルだろうか。友は始めに全てのメニューを取ってくると言ったが、デザートは例外だ。だが、このタイミングで取ってきたということは、友はワッフルにかなり心を惹かれていると見える。


「食べないの?」


プレートを前に、腕を組んで真剣に考え込んでいると、いつのまにか友がテーブルに戻ってきていた。手にした皿の上には揚げたての唐揚げが四つ。しっかりゲットできたみたいだ。俺は思わず呟く。


「やっぱ唐揚げ優勝か……」


「何言ってんのか分かんないけど……ひぃも食べる?」


「いいの?」


「ん。ほら」


友は箸で唐揚げを一つつまむと、俺の前に差し出してきた。あーんして、ということだろう。


俺は一瞬、周囲を見渡した。当然だが、店内の誰も俺達のことなんか見ていない。それでも少し照れながら、俺は口を大きく開け、唐揚げにかぶりつく。


箸から口を離し、もぐもぐと唐揚げを味わっていると、友と目が合った。


「おいしい?」


そう言って、にっと無邪気に笑う友。その顔を見た瞬間、また胸がきゅうっとする。


食べさせ合うなんて、別に「親友」だけだった頃にもやってたのに。もう十年近くも一緒にいるのに。


どうしてまだ、こんな何でもないことで、無性に「好き」だと思ってしまうのか。


「ひぃ?」


何の反応もない俺を不思議がって、友が首を傾げる。我に返った俺は、何でもない風を装って、友にも「あーんして」と唐揚げを差し出した。俺と違って恥ずかしがる様子もなく、友は「うまぁ」と唐揚げを頬張る。


これでいい。


俺は、いつも通りの友にどこか安心していた。自分でも変だと思う。だって、家ではあんなに「もっといちゃいちゃしたい」とか思ってたのに、いざ、こんなシチュエーションに遭遇したら、このままの友でいて、と思ってしまうんだから。







食事を終えた俺と友は、中庭を臨むお休み処で足湯に浸かりながら、暫し、のんびり過ごしていた。


「あ、あそこにあるの、マッサージ処だって」


友がつま先でつんつん、と俺の足をつつき、話しかけてくる。友の指す方を見遣ると、お休み処を抜けた廊下の先に『マッサージ処・ひいらぎ』という看板があった。


「『ひぃ』らぎだって、ひぃ。あはは」


楽しそうに肩を揺らして友が笑う。


先に言っておく。俺は友のことが大好きだ。本当に大好きだし愛してるけど、ごめん。これは何が面白いのか分からん。反応に困る。


とりあえず俺は「友、好きだよ」とだけ言っておいた。友が「はあ?」と言って目を白黒させる。今度は俺だけが可笑しくなってしまい、腹を抱えてげらげら笑った。


それから、俺達は岩盤浴に行くことにした。


まず、受付で借りたえんじ色の岩盤着に着替える。俺も友も岩盤浴は初めてだったので、岩盤着を着る時は下着を履くのかどうか少し迷ったが、ちょうど岩盤浴から戻って来たおじさんが脱ぐところを見て「なるほど、履かないのか」と学んだ。


下半身の解放感と、初めての岩盤浴に、二人して少しドキドキしながら岩盤処に入る。


岩盤処は温度ごとに部屋が二つに分かれていた。俺と友はまず、初心者にも無理のない、約五十度の部屋『ゆうの間』に入った。(さっきの仕返しと思い「友、『ゆう』の間だって。あはは」と言ったら、友に何言ってんだ、という顔をされた。ずるい。)


扉を開けた瞬間、熱気がむわあと顔に当たり、思わず目を閉じてしまいそうになる。『薬石』が敷き詰めれた床の上に、各々タオルを敷き、友と並んでその上に仰向けになった。薬石の熱とごつごつとした感触がタオル越しに背中に伝わってくる。


岩盤処の案内によれば、十分経ったら、一度浴室を出て、五分から十分程度の休憩を挟み、それからまた十分、浴室に入る。このサイクルを三~四回繰りかえすと良いらしい。


……良いらしい、が、すごく暑い。ビュッフェでたくさん飲み食いしたはずなのに、もう喉がカラカラだ。正直、こんなところに十分もいられる自信がない。友は平気なんだろうか?


心配になり、隣を見ると、友は既に玉のように大粒の汗をかいていた。しかも、静かに目を閉じて、胸の前で手を組んでいるのだ。その姿はまるで、棺の中で眠るツタンカーメンのようで、俺は思わず吹き出してしまう。


「何……?」


友が俺の笑い声に気づき、顔だけこっちに向けてくる。俺はぶんぶん首を振って、「何でもない」と言った。友は顔を戻し、再び目を閉じる。俺はこみ上げてくる笑いを抑えるのに必死だった。


心を落ち着かせ、俺も友に倣って目を閉じる。


相変わらず暑くて堪らなかったが、慣れてくると、体の芯がぽかぽかしてリラックスできた。どくどくと湧き出た汗が肌を伝っていく感覚も、不思議と気持ちいい。


俺は壁に掛かった時計を、時々、薄目で確認しつつ、じっと時が経つのを待った。その間、友は暑さに呻くこともなく、微動だにしなかった。すごいな、友。


ちょうど十分経過したところで、俺はツタンカーメン・友の頬をぺちぺち、と叩いて起こす。


「ん……?」


「一回出よう、友。もうめっちゃ暑い」


「んー……」


友がおもむろに体を起こし、伸びをする。敷いていたバスタオルを畳み、立ち上がろうとした時に、薬石を直に踏んづけた友が「あっつ!!」と悲鳴を上げていた。


冷房の効いた休憩スペースに入り、ウォータークーラーで水を飲む。汗をたっぷり流したせいか、ただの冷たい水がやたら美味かった。


少し休憩した後、俺と友は再び浴室に戻り、今度は約六十五度の部屋『はなの間』に入ってみた。


しかし、肌が焼けるような暑さに耐えかねて、俺は五分といられなかった。


友の方は余裕がありそうだったので、俺は友と別れ、一人、先程の『悠の間』に入る。そこで十分程汗を流し、浴室を出て、また休憩スペースで冷水をがぶ飲みした。


手近にあった椅子に座り、しばらくの間、ぼーっと外を眺める。ここで友を待って合流しようか、もう一セット行こうか。そんなことを考えていると、窓の向こうに岩盤処から繋がるテラスがあることに気づく。館内図によると、岩盤処専用の『お休みテラス』らしい。


俺は岩盤処からテラスへの木の扉を開け、外へ出る。テラスには誰もいなかった。

あたりには風が木々を揺らす音と、どこか遠くから聞こえる、じい、じいという蝉の声だけが響く。中庭を抜ける涼風が火照った体を撫でた。


いいところだ。


俺はテラスに置かれたラタン材のビーチベッドに腰を下ろす。風がまた吹いた。


テラスから岩盤処の方をちらりと見遣る。友はまだ浴室にいるのだろうか。そろそろ出てくるかな。ほんの十分、二十分くらいしか離れていないのに、なんだかすごく久しぶりに一人になった気がする。


思えばこの夏休みの間、朝から晩までずっと友と一緒にいた。朝同じベッドで目覚めてから、夜、決まった時間に床につくまで、ほとんど別行動をしなかったと思う。同棲しているのだから普通のことなのかもしれないが、それは俺と友にとっては得難い日々だった。


だけどそれも今日で終わりだ。明日からはまた、それぞれの忙しない日常が待っている。


そう気づくと急に寂しくなる。無性に友の顔が見たくなった。


早く来ないかな。


暑さでまだ少しぽうっとする頭でそんなことを考えていると、徐々に瞼が重たくなっていく。気がつくと、俺は目を閉じて眠っていた。







『この先、お休みテラス』


その案内が示す通りに扉を開け、外に出ると、そこは小さな中庭を臨むテラスに繋がっていた。


浴室を出た時に目に留まり、何気なく寄ってみたけど、正解だった。


テラスに置かれたビーチベッドで『ひぃ』が寝ていたからだ。


俺よりも先に浴室を出て行ったけど、まさかこんなところでうたた寝してるなんて。

忍び足でビーチベッドに近づき、無防備に眠るひぃの顔を覗き込む。


「ひぃ、可愛い……」


思わず小さく声に出してしまった。ぴたりと閉じた瞼に、整った長くて綺麗な睫毛。呼吸をする度に肩が僅かに上下している。体を少し丸めて眠るひぃは、小さな子供みたいだ。

顔を寄せると、すう、すう、と小さな寝息が聞こえてくる。うう、可愛い。写真に撮って残したい。脱衣所のロッカーにスマホを置いて来たことが悔やまれた。ひぃのこんな姿、滅多に見れないのに。


平日はどうしても俺の方が帰りが遅いし、家に着いた頃にはひぃは先に寝ていることも多い。かといって朝も、ひぃは俺より先に起きてる(上にいたずらまでしてくる)し、こんな風に明るい所で寝顔を見る機会は本当に珍しいのだ。


その事実に、良いものが見れてラッキー、という気持ちもあったが、同時にほんの少しだけ、切なくもなる。


もっと一緒にいたいけど。


俺はビーチベッドの側にしゃがみ込み、ひぃの髪を撫でた。ずっと触っていたくなるさらさらの髪。手のひらで前髪をかき分けると、つるりとした白い額が見えた。しばらく撫でていると、ひぃの髪からヒノキの香りがすることに気がつく。俺はその香りに誘われるように、髪に顔を近づけた。


突然、ひぃが首に手を回してきて、そのまま引き寄せられる。お互いの額と額がこつん、とくっついた。あくまで目を閉じたままのひぃに俺は言った。


「……起きてる?」


「バレた?」


そう言って、俺の首から手を離すと、ひぃがいたずらっぽく笑う。それから、「ちょっとだけ寝ちゃったみたい」と伸びをした。


「友もここ、気づいたんだ」


「うん。浴室出た時に気づいて。いいとこだな」


「でしょ?」


自慢の宝物を見せる時みたいに、ひぃがにこにこしている。その時、ひときわ強い風がさあっと吹いた。風は中庭の木々をざわざわと大きく揺らし、俺とひぃは思わず目を瞑る。


「友」


とんとん。


風が収まった後。ひぃが体を横にずらし、ビーチベッドに空けたスペースを叩いて俺を呼ぶ。俺は頭を掻いた。


「さすがに狭くない?」


「大丈夫。友は太ってないから」


ひぃがくすくす笑いながらそう言うので、俺は「むかつく」とひぃの髪を手のひらでわしゃわしゃっとかき乱した。


「いいから来て」


俺の岩盤着の裾を、ひぃがくいっと引っ張る。観念した俺は、ビーチベッドの僅かな隙間に無理やり体を捻じ込んだ。二人で並んで座るにはどう考えても狭くてぎゅうぎゅうだ。だけどそれがいい、とも少し思えて。


ひぃが俺の肩にもたれかかってくる。俺もなんとなく、ひぃの肩に手を回した。すると、ひぃが言った。


「ねえ、さっきのまたしてよ」


「さっきのって?」


「髪。俺が寝てた時、さらさらーって撫でてたじゃん。あれもっかいして」


「そう求められるとなんか恥ずかしいんだけど……」


つい、あたりをきょろきょろとする俺を見て、ひぃがぽつりと呟く。


「誰も見てないよ」


「……分かってるけど」


「友に髪撫でられるの、好きだからして」


俺は肩に回していた手をそっと持ち上げて、ひぃの後頭部に置く。頭の端でどんな感じだったっけ、と思い出しながら、ゆっくりと髪全体を撫でまわす。ちらりと、ひぃの様子を窺うと、目を細めて気持ちよさそうにしているので、俺は安堵した。


それからしばらくの間、俺達は何も考えず、ただひたすらに、ぼーっと過ごした。


どのくらいそうしていただろう。


中庭に差す陽の光が柔らかいオレンジ色になった頃、俺とひぃはどちらからともなく「帰ろっか」と言った。







岩盤処を出て、ふと、窓の外を見ると、遠くにさっきまで二人でいたテラスが見えた。いや、ちょっと待て。


「丸見えじゃん!」


「気づかなかった?」


慌てふためく俺を見て、にやにやするひぃに、俺は深い溜息をついた。

やっぱり、ひぃには敵わないや。

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