拡散《pandemic》

「……これが、例の動画ですか」


 たったいま呼吸を思い出したように大きく息を吸って吐いてから、PCの画面をのぞき込んでいた若い男が言った。傍らで、少し年かさの男がうなずく。


「なんです、あのバツ印は……」

「いまはアプリで簡単に加工ああいうのができるそうだ」


 二人の肩書きは刑事。一連の連続猟奇殺人事件の、捜査班の一員であった。


「それは、わかるんです。そうじゃなくて……」


 年かさの刑事には、その先を言葉にできなかった後輩の言いたいことも、わかる気がした。

 あまりに得体の知れない彼女そいつの意図を、誰かに解説してほしい。なんのため、こんな動画ものをわざわざネットに流したのか。


「で、彼女が一人目の被害者の妹?」

「いない」

「え」

「最初の被害者に妹はいない」


 思考が追い付かないのだろう。硬直する後輩の、肩をそっと揺らしてやる。


「ぜんぶ作り話か。それとも、まだ見つかっていない被害者ひとりめがいるのか」

「ああ……」


 そこで後輩はマウスを操作し、動画の終わり際をコマ送りにした。こちらを見つめて微笑む少女の、赤いバツで隠れた顔を拡大表示する。


「……でもなんか、こんなこと言ったらマズいんだろうけど」

「なら、言うな」


 後輩の言葉を遮って、刑事はマウスを奪うようにウインドウ右上のバツ印をクリックし、動画を終了させる。ああこれもバツだ、そんなことを片隅に思いながら。


 彼女──自称「ペケ子」がしていることは、本人の言葉を鵜呑みにするなら、あくまで悪人マチガイを罰する行為ということになる。


 このクルセイダー殺害事件は、先週のうちに匿名の通報から発覚し、現場検証も済んでいた。

 そこでは男の変死体とともに、彼が六人目と七人目の被害者を殺害した証拠となる凶器や映像データが多数押収され、容疑者死亡のまま書類送検となっている。


 ちなみに、男の素性は権力者の「ご子息」だった。


 そのことを知ってしまった今、明らかに手口の異なっていた六人目以降も同一犯としての捜査を決定した上層部への不信感を、刑事は心中から拭えずにいた。


 ──果たして我々は、これ以上の被害者を出すことなく彼を捕え、相応しい罪を科すことができたのだろうか。


 対して、クルセイダーを殺害した「犯人」の手掛かりは、五人目までと同様に何ひとつ残されていなかった。

 そんな慎重さを見せておきながら、今日になって突然、ネットに例の動画は投稿されたのである。投稿者はまず間違いなく「本人」だろう。


「言わないでくれ、頼むから……」


 刑事は、うわ言のように小声で繰り返していた。後輩が何を言おうとしたのかはわからない。しかし、その言葉がもし彼の中にくすぶる感情と重なるもので、それを肯定されてしまったら。


 ──逮捕しつかまえたくない、だなんて。


 もう彼女ペケ子という存在の甘美な魅力を否定できなくなる。それは信じてきた正義が音を立てて崩れ、三十数年生きてきたこの世界が、別のなにかに変容してしまいそうな恐怖──あるいは誘惑だった。


 しかし彼はまだ知らない。


 瞬く間にネット上のトレンドを席巻したこの動画が、削除されても無数のコピーから復活し、いまこの瞬間も世界中に拡散し続けていることを。

 そこに群がるコメントたちは熱病に浮かされたように彼女を礼賛し、こんな都市伝説めいた噂までもが既に生まれていた。


  ハッシュタグ #pekeko にマチガイを書き込めば

  彼女ペケ子バツをつけに来る。


 クルセイダーのいた過去きのうから、彼女ペケ子のいる現在いまへ。彼女を転換点シンギュラリティとして、世界はもう変わってしまったのかも知れない。

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