第6話 荼毘

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 滞在二日目だ。

 あらかたの用事や段取りはすみ、親族たちが葬儀屋のバスで火葬場に集まったときのことだ。かれの両親はいちばん奥の、あの押しボタンがあるところまで通してくれた。

 荼毘に付す直前、香の焚きしめられた空間で、小さな――三、四歳くらいの男の子が、母親だろう、若い女性の足にじゃれついて遊んでいた。語尾を伸ばした声で「ねえ、たかし兄ちゃんどうなるの?」と無邪気に甘えた声を出す。おそらくはかれの甥か、いとこの子どもか。興味の向くまま、なんでお線香いっぱいあるの、なんでみんな黒い服なの、ねえなんで、なんで、と訊く。「静かにして。高志お兄ちゃんこれから焼かれるからね」と母親がぴしゃりという。

 男の子は明らかに驚いて「兄ちゃん、死ぬよ」と大きな声を出した。

「もう死んでるっての!」と若い母親は叫び、そのまま顔を覆い泣き崩れてしまう。男の子も泣き出し、しまいに若い父親らしき人物が男の子を一緒に向こうの方へ連れて行った。「ごめんなさい、ごめんなさい」と幾度も謝り、若い母親はその場で(呼吸を我慢していると見える)泣くのを懸命にこらえていた。


 もっとも近しい者だけが前に出、あとの者は後ろへ退くようにいわれた。最後まで思いを断ち切れない者が、自らの手で別れを決定づけるための部屋に通される。

 先ほどの焼香の場から一転して、なんのにおいもない、しんと静まった寒い、長く伸びた部屋だった。棺を入れるところが何基かあり、そのうちの真ん中あたりまで棺の台を押し、やがてかれの棺がその耐熱扉の前へ運ばれる。できるだけ皆さんのお手でやさしく入れて差し上げてください、との係りの者に従い、わたしも手伝い棺をその中へ入れる。係の者がボタンを押すと扉が閉まり(もうすでに強く泣いている者がほとんどだった)、わたしはその時が来たのを知る。

「ごめんね」とかれの母親(悟りを開いたような、あるいは自らの死を覚悟したかのような落ち着いた顔だ)に肩を叩かれる。「父さんもいってるんよ、三人で押そうって」洟をすすり上げているかれの父親に頭を下げられる。

 死刑執行のようだ、とわたしはそのとき思った。

 この国での死刑執行は、精神的負担を軽くするため、刑務官三名が三つ別々のボタンを同時に押す。三人のうちだれが受刑者を縊死させたのかを分からなくさせるためだ。

 わたしもこの世で失うべきものはほとんどこの手を離れたのだ。三人どころか、わたしひとりで押してもいいとさえ感じているのに。

 ほかの者は二、三歩下がり、わたしたち三人でボタンを押す。もうこれで――いや、かれはもっと前に亡くなっている――終わりだ。わたしの膝で、自らの吐瀉物に窒息しながらかれは天命を知りえたのだ。むろん病院での死亡診断だったが、わたしは吉川が奮闘しているのを見ていて、かれはわたしより先だったのだと、どこかで思っていたのかもしれない。

 

 一本が竹、もう一本が木でできた箸でお骨を拾っているとき、かれの両親は心底申し訳ない様子で謝っていた。骨壺をかれの父親が、遺影を母親がそれぞれ抱えて焼き場を離れる。


 底冷えのするかれの故郷は雪の多い地帯であったが、道路は組内の者や役場の職員でうまく除雪されていた。

 空の便は論外としても、しかし一週間ほど晴れの日が続いた。鉄道も動くし、幹線道路も流れていた(わたしの故郷のように温暖な気候だと、二、三センチ程度の降雪で身動きが取れなくなる。だれも冬用タイヤを履いていないし、それどころか買ってもいないからだ)。アパートを離れる際、いつまでかれの実家にとどまるかを読み切れず、一応の欠席届は学務課に提出した(大学も察したのだろう、無期の欠席として扱った)。


 葬儀もお斎も終わり、かれの母親は心底疲れ切り、泣きはらした顔でお茶をすすりながらわたしに語った。

「こんなに熱いお茶ももう飲めないのかね、あの子は(しばし湯呑で両手を温める)。うちのお父さんも、ショウちゃんなら結婚させてもいいかなって、話しててね(驚きもせずうなずく)。そうか、ショウちゃんも分かってたんだね。もちろんあの、学生結婚っていうご時世でもないし、ふたりが自立したら、って。こんな田舎の馬鹿息子と結婚って、だれにどう頼んだらって悩んでたけどね(わたしは緩慢に首を横に振る)。ほんとうに、ショウちゃんは心がこんなにきれいな人で、ああ、高志ももったいないところで、馬鹿な死に方して、ショウちゃんにも迷惑かけたなあって、思ってたら、お葬式にも来てくれて、高志も、大馬鹿もんだったな(ふたりで並んで庭に降る雪だけを見る。もはやなにも話さなくてもよかったからだ)」


「神様や仏様はいるのかねえ、高志にも、あんな悪ガキにも(上を向いて口を真一文字に結ぶ)。なんて馬鹿みたいな死に方なんだろうって、思ってた。せめてそんな死に方じゃなしに、もっと一人前になって、天寿を全うして、順番を守ってからじゃ、まずかったんかなあ」

 かれの母親はそればかり話す。葬儀と初七日の法要を併せて済ませたあとだ。「おかあさん」

「ん?」

「わたしの父も――いえ、ごめんなさい。わたしの父は、飲みすぎて電車の中で亡くなりました。亡くなると本当に、いろいろと緩むので、車両のクリーニング代とか、ダイヤの遅延とか、裁判になって、裁判所は母に賠償金を払わせました。なんであんな風にしかならなかったのか、全部ぜんぶ、ひどいとしかいいようがなくて」

 かれの母親は口を固く結んだまま聞いている。

「泣くどころか、恨みました。母と二人で心底恨みました。本当に、よりによってあんなところで死んでくれなくてもいいのに、って」

 うつむいて聞いていたかれの母親が口を開く。

「でもね、ショウちゃん。死に時はあっても死に場所はないんだと思うよ。ショウちゃんのこと、もう娘だと思ってるし、高志はきっと向こうの方でお役があるんだとね、思ってる。ショウちゃんもお父さんのこと、許して差し上げて。仕方なく死んだんだよ、いずれにせよ。因果律とか、輪廻転生とか、お坊さんは難しいこと話されるけどね、高志も、ショウちゃんのお父さんも、この世を捨てたんじゃないんだよ、きっと。場所が違うだけで、ちゃんと見ていてくれる、ちゃんとお役がある、って信じなきゃ」

 かれの母親は優しく諭すようにわたしの肩を撫でる。反論も拒むような悲愴感がにじむ。かの女はわたしの肩を撫でながら、下を向いて泣くのをこらえていた。わたしはなにも感じず、哀れなのはかれでもわたしでもなく、この母親だと理解し始めていた。


 人は無駄死にはしないという。なにかしらの務めを地上で果たし、また天に昇るときも、地の務めを終え、その者は天の務めを帯びている。慰みでもなく、そう考えている(もしくは信じている)人々も世に多い。無駄もなく、すべて必要があって人は死ぬ、と。

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