第44話 わたくしは

 頑張って!

 死んじゃだめ!

 わたくしが絶対に助けてあげるから!

 

 自分の腕の中で呼吸荒くうめき苦しんでいた少年が、正常な呼吸を取り戻していくのを見守りながら私の意識は薄れて行った。気付いた時には私は見知らぬベッドの上だった。


 熱が引いて目覚めた私は少年について尋ねなかった。尋ねることができなかった。私は何も覚えていなかった。自分の許容以上の膨大な力を一度に放出した反動として、私から記憶を奪って行ったのだろう。あるいは生命の維持本能として、命を削りだして魔力を作らせないように意識下へと封じ込めたのかもしれない。


 あの時の少年は元気になったのだろうか。あの――色の瞳の少年は。



「――ンシェ。ブランシェ」


 聞き慣れた私を呼ぶ低い声に重い瞼を開いた。

 琥珀色の瞳で私を覗き込んでいたのは。


「アレ、クシス様……アレクシス様!」

「まだ起きるな」


 いきなり起き上がろうとした私を彼は優しくなだめて押さえる。

 私はとっさに彼の手を握ると生きている証拠の温かさが伝わってきた。

 体には包帯が痛々しく巻かれて、腕も首からの包帯で吊るされているが顔色は良く、もうしっかりと立っている。


「アレクシス様、生きている……アレクシス様」

「ああ。君に命を助けられた。ありがとう、ブランシェ」


 少し息の上がったアレクシス様は椅子に座り、私と視線が近くなった。


「君の体こそ大丈夫か。かなり無茶をしていたようだ」


 自分では気付かなかったが、顔色は完全に血色を失い、額からは汗がいくつも滴り落ちて尋常ではない呼吸を繰り返していたそうだ。しかし大人になって体力がついたからだろうか。気だるさはあっても昨夜の記憶もあるし、高熱も出ていない。


「ボルドーが感服していたが、怒ってもいたぞ。自分の体も顧みず、私の妻として自覚がないと」


 パストゥール家の女主人ではなく、アレクシス様の妻としての自覚。

 私が裏切っているのはアレクシス様だけではない。ボルドーさんであり、グレースさんであり、ライカさんであり、パストゥール家の皆さん全てだ。


「わたくしは」


 今言わなければいけない。きっと今を逃せば私はまた心に迷いが出てしまう。だから今。


「アレクシス様に言わなければならないことがあります」

「何だ?」

「わたくしは……ブランシェではありません。ブランシェの双子の姉、アンジェリカ。アンジェリカ・ベルトランです。わたくしはあなたの本当の妻ではありません」

「え?」


 アレクシス様の手を離すと目を見開く彼から視線をそらし、天井を見つめる。


「わたくしは、式の直前にわたくしの婚約者と駆け落ちした妹、ブランシェの代わりに仮初めの妻として嫁ぐことにしました。パストゥール家の面目を潰す行為にお怒りになることは必至と考えたわたくしが言い出したのです。ブランシェを連れ戻すまでわたくしが一時的に妻の代わりになると。止める家族を振り切って決行しました」


 アレクシス様は何も言葉を発しない。

 天井を見続けている私には彼の表情も見えない。


「アレクシス様を騙すためにパストゥール家に入ったわたくしなのに、アレクシス様はいつもお優しく気遣ってくださってたくさんの愛を注いでくださいました。まるでブランシェではなく、わたくしに向けてくれているのかと勘違いするほどに。ただ純粋に、ひたむきに、情熱的に」


 天井がにじみ歪み、目尻から耳の方へと雫が伝う。


「自分でも気づかぬ至る所にアレクシス様の愛で溢れ、包まれていたことをわたくしは知りました。わたくしは、本来ならブランシェに注ぎたかったはずのアレクシス様の愛を自分が受ける罪深さに気付いたのです。誠実なアレクシス様を騙す自分に嫌悪感を抱いたのです。それでもなお身勝手にも、これらの愛は全てブランシェのものだと思うと、わたくしの心は切り裂かれるように痛みました」


 真っ直ぐに向き合ってくれるアレクシス様を前にするたびに、自分がどれほど汚れた存在なのか思い知らされる。


「わたくしは酷く汚れた人間です。自分から始めたことなのに自分の家族を見捨て、アレクシス様をさらに傷つけることになることも厭わず、こうして告白するのです。自分が楽になりたいがために。――申し訳ありません。誠に申し訳ありません。わたくしはアレクシス様がおっしゃるどんな裁きをもお受けするつもりです」

「……そうか」


 アレクシス様は低く呟いたかと思うと私の頬に手を当て、目元から溢れた雫を拭う。


「アンジェリカ。こちらを向いてくれ」


 初めて自分の名で呼びかけられてびくりと体が震えた。


「アンジェリカ」


 再び呼びかけてくる声に私はおそるおそるアレクシス様の方へと顔を向ける。するとそこには私を気遣うような瞳があった。


「つらい思いをさせて悪かった」

「な、ぜアレクシス様が謝罪なさるのです」


 愕然としてしまう。


「私はずっと君が何かに苦しんでいるのを見ていて、見ぬふりをしていた。それは君の答えで自分が傷つくことを恐れて逃げていたからだ」

「傷つく?」


 私はブランシェではないと告白することがだろうか。しかしアレクシス様は私のことをアンジェリカだとは疑っていなかったはず。


「ああ。本当は君の心が私ではない他の男に向けられているのではないかと」

「え?」

「私はブランシェが好きなのではない。目の前の君を愛している。君の名がブランシェならブランシェと、アンジェリカならアンジェリカと呼ぼう」

「っ!」


 熱い感情が急速に瞳と喉へと集まり、言葉を詰まらせる。

 なぜここまで心が清らかでいられるのだろう。私の汚れた心を浄化してくれるかのようだ。


 私はずっとブランシェになりたかった。親や周りに期待されるような人間になりたかった。けれど今は心が強く、清らかな人間になりたい。心を鏡に映しても恥ずかしくて目を逸らすことのない人間に。――アレクシス様の澄み切った琥珀色の瞳を真正面から受け止められる人間に。


「もっと君のことを聞かせてくれ。アンジェリカのことを知りたい」


 アレクシス様は再び私の目元を拭うと微笑んだ。


「……わ、たくしアンジェリカは。白よりもアレクシス様が選んでくださった赤いお花の方が好きです」

「そうか。良かった」

「わたくしアンジェリカは、アレクシス様がご用意くださったお部屋をとても気に入っております」

「それを口にされるのは少々気恥ずかしいな」


 言葉通り少し気まずそうだ。

 私は泣き笑いで続ける。


「わたくしアンジェリカは、初めアレクシス様のことを恐ろしく思っておりました」

「部下には常に恐れられている」

「わたくしアンジェリカは魔術が苦手です」

「だが私を助けてくれた」

「わたくしアンジェリカは食欲が旺盛です」

「それは知っている」


 アレクシス様は小さく笑い、私は頬に置かれたままの手を取る。


「わたくしアンジェリカはアレクシス様のことを――心よりお慕い申し上げております」

「私も君を、アンジェリカを愛している」


 そうして私、アンジェリカは愛を囁いてくれたアレクシス様と初めての口づけをした。

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