第16話 ご指導よろしくお願いいたします

「お、おはようございます、アレクシス様」


 髪結いを終えていただくと食堂へと足早に駆けつけた。

 軽く息を切らしてやって来た私にアレクシス様は目を見張る。


「そんなに急いでどうした。朝食は逃げないぞ」


 朝食のために駆けつけたと思ったらしい。そこまで私は食いしん坊ではない。しっかり否定させていただく。


「いえ。お待たせしてはと思いまして」

「別に私のことを気にすることはない。それに君は昨日倒れたのだから無茶するな。とにかく先に座れ」

「はい。失礼いたします」


 私が椅子に身を収めたところを見計らってアレクシス様は口を開く。


「今朝の体調はどうだ?」

「久々の乗馬でしたから体がどこともなく痛いです」

「そうだな。他は? 昨日は頭痛もしていたみたいだが、それはどうだ?」


 そうか。そちらの体調を聞こうとしていたのか。


「お気遣いいただいてありがとうございます。頭はすっきりです。めまいがすることもありません。今朝も食欲があります」

「そうか。それならば良かった」


 ようやく安心したようにアレクシス様は頷いた。


「それでは食事を始めることにしよう」

「はい!」



 今朝は朝食の時間がいつもよりもとても短かった気がする。

 あっという間の朝食を終えて、アレクシス様はいよいよ仕事に出かけることになった。


「それでは行ってくる」

「はい」


 アレクシス様が席を立つとほぼ同時に私も立ち上がる。そのまま頷いて歩き出すので、私もまた同じく後に続くと彼は足を止めて振り返った。


「何だ? 何か言いたいことでも?」

「いえ。玄関までお見送りいたします」


 今朝はそのために急いだのだから。

 しかし私がそう言うとアレクシス様は面食らったような表情をする。


 何か間違ったことを言ったのだろうか。もしかしてパストゥール家では妻が夫を見送ってはいけないとか?

 アレクシス様は黙ったまま私を見つめるので内心少し狼狽していたが、彼は重い口をようやく開いた。


「……ああ。ありがとう」


 どうやらお見送りしていいらしい。実に息詰まる時間だった。


「では。その……行く」

「はい」


 私は先行するアレクシス様に続く。

 時折視線をこちらにやるのは私が転けるかもしれないという配慮からだろうか。さすがにそこまでドジを踏むことはないはず。


「あの。アレクシス様」


 ああ、そうだ。念の為に確認しておかなくては。


「何だ」


 私が声をかけると視線をきちんと合わせてくれる。


「これからもお見送りしてよろしいでしょうか」

「……ああ。では頼む」


 それだけ言うとアレクシス様はそっぽ向くように前を向いてしまった。

 しかしとにかくこれで言質を取った。よほど朝早く出かける時以外は、私を待ってくれるということだろう。


「はい。承知いたしました」


 明るい声で返事するとまたこちらを窺うように顔を向けたので、私は笑みを返しておいた。



 私と侍従長、数人の侍女さんたちと一緒に玄関でお見送りすることになった。

 アレクシス様は侍従長、ボルドーさんに視線を向ける。


「ボルドー、後のことは頼む。ブランシェのことも」

「はい。かしこまりました」


 しずしずと礼を取るボルドーさんに頷くと、次に私へと向き直った。


「では行ってくる」

「はい。アレクシス様、行ってらっしゃいませ。どうぞお気をつけて」

「ああ」


 アレクシス様は短く返事して身を翻した。しかし二、三歩いたところで足を止めて振り返る。


「ああ、ええっと。ブランシェ」

「はい。何でしょう」

「何か分からないことがあったらボルドーに」

「え? はい」


 何回かそのお話は伺ったような気がする。


「ああ。では。……行ってくる」


 伝えるべき何かを思い出せなかったのだろうか。言葉を絞り出すように眉根を寄せて難しそうに考えていたようだが、諦めたみたいにそう言った。


「はい。行ってらっしゃいませ。お気をつけて」


 再び声をかけると、無言で頷いて今度こそアレクシス様は出て行った。

 すると後ろからため息一つと女性の忍び笑いが聞こえてきたので振り返ると、ボルドーさんと目が合った。


「やれやれですね」

「あ、はい」


 何がやれやれなのか分からないが、とりあえず彼の言葉に頷いてみた。さらに視線を奥にやると侍女長のグレースさんとライカさんが笑顔でいるので、私も何が何やら分からないまま愛想笑いを返した。


「さて奥様」

「は、はい!」


 ボルドーさんに低く声をかけられて、背筋をぴんと正す。


「これから女主人としてこの家でしていただく事や礼儀作法、しきたりなどを勉強していただきます。ご実家とは違うこともあるかもしれませんが、このパストゥール家に入った限りはパストゥール家の風儀に従っていただきます」

「はい。もちろんでございます」


 ブランシェに伝えるためにも、私がしっかり学んでおかなければ。


「侍従長」


 私はすぐさま返事をしたが、グレースさんはとりなすように声をかけて一歩前に出た。


「何ですかな、侍女長」

「そのような言い方はどうかと。アレクシス様も望んでおられないかと思われますが」


 ボルドーさんは私からグレースさんに視線を移すが、彼女は全く怯むことなく、むしろたしなめるような口調で彼にそう言った。そして今度は私に視線を向ける。


「奥様、申し訳ありません。侍従長はこの通り、融通がきかぬ者でして」

「い、いえ! わたくしのせいでアレクシス様のご名誉を傷つけないよう頑張りたいと思います。侍従長、侍女長、不束者でございますが、どうぞご指導のほどよろしくお願いいたします」


 二人に向けて礼を取ると、ふむ、なかなか見上げた心意気ですねと少し満足したようなボルドーさんの声が降ってきた。

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