第3話 緋衣の死神卿

 部屋を出て廊下を少し進んだところで、式服に身を包んだパストゥール辺境伯が腕を組み、壁に身を任せるように立っている姿が見えた。

 私たちが出てくるのがあまりにも遅かったからだろうか。


 彼は私に気づくと長身を起こし、こちらへとゆっくりやって来る。

 厚みのある絨毯は足音を完全に吸収していたが、まるで地獄へと誘う足音を高らかに鳴らせて近づいてくるような圧を感じた。


 さっきは明るい未来への扉を開けたなどとうそぶいたことを直ちに撤回し、謝罪申し上げることにする。間違いなく暗黒の未来への扉だった。

 絶望が絶望を呼ぶのか、なぜか嬉々とした弟から(無理矢理)聞かされた話が頭の中で蘇ってくる。


 パストゥール辺境伯は、参謀とも悠々と渡り合える程の頭脳明晰さと突起した運動能力、魔力を持つ人物。現在御年二十三歳。冷酷非情な指揮官で間諜や寝返った者には情け容赦なく、死ぬよりもつらい責苦を与えて自白を促し、自供した後はもちろん処分する。

 炎属性の魔法を主流とし、顔色一つ変えずに焦土化して落とした国は数知れず。彼が歩いた後ろには繁殖力の高い草ですら一本も生えてこないと言う。

 ついた渾名が緋衣の死神卿。返り血で衣を赤く染めるからだとも、操る炎が衣を赤く見せるからだとも言われる。


 ……斬刑か、火刑か。

 私の正体がばれた暁には二つの選択肢から選ぶことができる。何なら両方体験することができるかもしれない。

 こくんと喉に緊張の音を鳴らしたのは自分だったのか、それとも家族の誰かだったのか。


 すぐ前にまでやって来た彼の顔をおもむろに仰ぎ見る。当然ながらここまで間近で見るのは初めてだ。

 彼は肉食獣が獲物を狙うかのように鋭く、美しい琥珀色の瞳で私を見下ろした。

 死神卿とはよく言ったものだ。その視線だけで人を発狂させ、あやめることができそうである。


 鍛え上げられた長身の体躯がそう思わせるのか、あるいは人を支配することに慣れた人間がまとう圧倒的な風格のせいなのか、到底乗り越えられない壁のように思える。

 なお、裾がふんわり大きく開いたドレスの下では、私の足は生まれたての子鹿のようになっているはず。がくがく震えた足でよくバランスを取っているものだと我ながら思う。


 ――いや。駄目だ駄目だ。怯んでいては駄目! 本来ならこの方にブランシェが嫁ぐ予定だったのだから、自分にもできないはずがない。むしろ打倒ブランシェのためにこれくらいの壁を乗り越えないでどうするの! こんなもの、大事ブランシェの前の小事辺境伯にすぎない!


 彼の剣呑な瞳に呑み込まれそうになりながらも、自分を叱咤して気持ちを立て直すと口を開く。


「お待たせいたしました」


 よし。第一声は何とか震えずに済んだ。


「……妙だな」


 気合いを十分に入れ直したはずなのに彼が訝しげに目を細め、ぽつりと低く零した言葉一つで、どくりと大きく鼓動が打つ。

 優れた人物は相手の力量を瞬時に見極める能力があるが、辺境伯はおそらく国で一番の人だろうと弟は言った。だとしても。だとしてもだ。まずはここを乗り切らなければ前に進むことはできない。話をずらそう。


「みょ、妙でございますか。そんなにドレスが似合いませんか」


 少しどもってしまった。わざとらしい物言いではなかっただろうか。

 不安に揺れる瞳で、それでも真っ直ぐに見つめ返すと彼は目を見開いた。


「あ、いや。花嫁姿のことでは」


 ということは、やはり魔力のことを言っていたようだ。願い叶わず早くもバレてしまった。家族が緊張で張る空気が痛いほど肌を刺してくる。

 青ざめる顔を隠すようにうつむいて、恐怖で押しつぶされそうになる胸を押さえながら断罪の時を待つ。すると彼は喉で咳払いし、失礼と言って私の注意を促した。

 おそるおそる顔を上げると彼は一瞬だけ視線を合わせた後、半ば目を伏せる。私が怯えていると考えたからなのだろうか。


「普段は男ばかりの環境だから、無作法な言動があるかもしれないがどうか許してほしい」

「え? ……あ。はい」


 無作法な言動? 許してほしい? ……あれ? もしかしてバレていないのだろうか。


「これからよろしく、ブランシェ」


 よろしくと言うことは、ひとまずは誤魔化せたと取っていいのだろうか。うん。背後からもほっとした空気が流れてきているし、第一段階は通過したと思って良さそうだ。


「夫となるとは言え、いきなり呼び捨ては失礼だったか。ではブランシェ嬢。……ブランシェ嬢?」

「あ、はい! あ、いいえ! ブ、ブランシェで結構でございます」


 うっかりしていた。私は今ブランシェだった。

 慌てて返事をする。

 背後から大丈夫かよという家族の不安が伝わってくるのは気のせいということにしよう。


「こちらこそよろしくお願いいたします、パストゥール様」


 私は心を落ち着かせるためにも、ゆっくりと丁寧に礼を取った。


「君もパストゥールになるのだから私のことはアレクシスと」

「……はい。アレクシス様」

「ああ」


 アレクシス様の名を呼ぶと彼は硬い表情を少しだけ崩した。

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