7.世界は色で出来ていた

〝世界は色で出来ている〟


 それだけの短い文章で、差出人の名前などは無かった。

 覚えのある言葉だった。

 だが、北条にとって意味のない言葉でもあった。


 裏庭に出る扉の前に着く。もしかすると、眼鏡を掛ける事でしか読めぬ文字があるのかも知れないと思いたち眼鏡を掛けてみる。


 しかし此処は廊下の端、陽の光は届かず文字も殆ど見えない。


 故にそれを求めて目の前の扉を開いた。





  空は染まっていた。




 掌をかざせばそれが薄っすらと透けて見える程で、何故か懐かしさを感じてしまう。足元を見れば影さえ染まって、あの街並も自然も全てが等しく包まれている。




 人の声にも足跡にも、或いは風にすらそれを感じ、花は美しかった。

 嗚呼、暮れた赤色の中で眼鏡越しに見る世界は何もかもが染まりきって――全てが色だった。




 初めて見る色にただ立ち尽くす彼の心に風といっしょに色が流れ込んで、内側から染まっていく。


 込み上げてくるような感覚が心から感情へと地続きに繋がって体を満たした。思い出と感情の日焼けしたフィルムみたいな記憶が、色付いて、色付いて。


 心に輪郭が生まれていく。


 そして、生まれたてのまっさらで早回しの感覚の中、彼は彼になって、自分を埋めていく。今まで他人でしか埋められなかった欠けた自分を。



 それはやがて彼の中で一つの覚悟になった。


 

 ―― この世界を守りたい。


 

  "何故?"



 文字でも声でもない問いかけ。


 それは心の問いかけだった。



  ―― 世界が美しかったから。



 それが、それだけが彼が彼の心を動かす理由。

 死ぬほど単純でちっぽけで、どうしようもないくらいヒトらしい。


 気が付けば彼は走り出していた。

 小さな裏庭で洗濯物を干しているマリアの元へ。

 そして後ろから抱きしめていた。

 彼女のほうが背が大きいので腰の辺りに手を回して。


「……動けないんだけど?」


 そう言われ彼は離れた。

 振り返った彼女は北条の何時もと違う様子に気が付いて、俯いた彼の目線に合わせるようにしゃがんだ。


 そして、ぎゅっと拳を作っていた彼の指を優しく一つ一つほぐすように開いて、最後は両手で包み込んだ。


「どうしたの?」


 彼女は優しく聞いた。お互いの目が合う。


 北条は初めて彼女の色を見た。彼女の瞳の色、肌の色、髪の色、暮れた色に包まれて、綺麗だった。言葉を伝えよとすると、口が震えた。彼の感情は既に涙となって溢れていた。


「守りたいんだ。ぜんぶ。ぜんぶ。ぜんぶ」


 それは子供の涙と変わらない。とめどない感情が幾度となく伝った。


「どうして、そう思ったの?」


 また優しく包み込むように聞いた。

 滲んだ視界の先で彼女が微笑んでいるのが分かる。


「ずるいんだ。みんな、綺麗で。みんな、色で。みんな……みんな……ずるい……」


 それが、それだけが彼が彼の心を動かす理由で、空にあるみたいに何処までも透き通っていて、泣きじゃくる子供と変わらないちっぽけなヒトがそこに居た。


「色が、見えるのね」


 彼女もまた感情に包まれ涙を流していた。


「みえる……見える……!」


 震える体でお互いを抱きしめて、強く抱きしめて、泣いた。

 我を忘れて泣いた。ただ泣いた。

 全てが、暮れた色の中で。全てが、染まった世界の中で。


 ひとしきり泣いた後は、二人で裏庭のベンチに座っていた。

 その傍ら北条はマリアに色の名前を聞いた。文字や意味では色を把握していたが視覚的な意味で改めて理解をしておきたかった。


 実際に目に映るそれらの色は言葉では言い表せない程に複雑だった。


「――ねぇ、その眼鏡手紙の中に入ってたんでしょ? 誰からなの?」

「さあな、差出人の名前は書いてなかった。なぁ、例えばこの夕暮れは何ていう色なんだ」

「ん~一言で言っちゃえばアカかな。アンタと同じね」

「オレと…… 同じ…… ?」

「そうよ、アンタの髪の毛も目の色も皆アカだもの」

「じゃあ、オレはこの夕暮れと同じなのか」

「どうかしら、夕暮れがアカって言っても、朱とか紅とか赤とか色んなアカが混じってるからなぁ…… そうねぇ、夕暮れから少し遠い「紅」ね。洗濯物片付けなきゃ」


 立ち上がった彼女は干していた洗濯類をかごに入れ始めた。


「そうか、少し、遠いのか」


 つぶやいて、空を見上げた。

 雲の形は変わり始め、夕暮れは段々と終りが近づいている。

 沈んでいく陽を追うように空は静かに夜へ目覚めようとしていた。


 そして、宵の口。

 

 目覚めたばかりの夜は青く、空に残った熱が引いていくと夜は暗く染み始める。

 横の風が吹いた。

 視線を下げると北条の目の前に洗濯かごを抱えたマリアが立っていた。

 彼の視線の角度からちょうど彼女は空と重なっていて、夜の黒が染みだそうとしているこの青い夜と同じ色をしていた。


「君は、アヲイんだな」

「アンタはアカイじゃない」

「そうだな」

「そうなのよ。ほら、中に入ろ? ここは寒いわ」

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