5.悲鳴

 北条トキがこの世界に転生して計十三年がたった。


 今や彼は外出の殆どをしなくなり、森か学舎に行く以外は屋敷に籠もりきりだった。

 ある日の昼過ぎ、学舎からの帰り。北条は大樹林へ向かう為に歩いていた。


 途中街民に" ホウジョウサマ" と話しかけられて対応するが、彼の瞳に描かれている輪郭は歪み既に人と物の区別は出来ていなかった。


 話しかけてくるからきっとコレは人なのだろうとそう判断しているだけ。


 自身の心を埋めてくれる人間以外をもう認識が出来ないでいた。

 樹林の入口に着き、足を奥へと進めていく。

 奥へ向かうにつれ地面が徐々に泥濘へと変わる。


 泥濘は嵩を増し引き止めるかのように彼の足取りを重く遅くした。それでも止まることの許されない彼を嘆いては木々たちがに泥をその身から滲ませる。


 霧が出始め、樹林の更に奥から聞こえる低く儚げな鳴き声。向かえばそこには、嵩の増した泥に身動きを取れなくなった魔者が居た。


 本来であればその泥は人が取り除く役目を担っているが街民が樹林の現状を知らない事に加え、危険な動物の多い奥地へは誰も来ることはない故に泥はそのままだ。


 おそらく数日の間動けなかったのだろう、動きは弱々しく、何もせずともこの魔者はいずれ朽ちると分かる。一方で魔者は北条の存在を感じ取ると、全てを悟ったかのように、静かに動きを止め目を閉じた。


 その光景が北条の半分に欠けた心を圧迫する。目眩がした。

 呼吸が苦しくなり、胸を抑えて近くの木によすがった。もはや何のために自身が此処にあるのかが分からない。


 ただの役割か転生者という位置でしか無いのだと、そう思ってしまう。

 ふと呼吸が楽になる。北条が顔を上げれば、魔者から伸びた無数の細い触手が彼を宥めていた。彼ら魔者は歪で巨大で不気味だが、他者を理解する最も慈愛に満ちた


 北条にはソレが嫌という程分かっていた。やがて彼の体から触手がゆっくりと離れていく。また、こめかみが熱くなった。


 体からは靄、いや、彼は靄だと言っているがその実は煙。彼の輪郭がけぶり、植物を形取ってはたなびいて霧に混じって消えていく。


 彼はこめかみの霊紋から生まれた火種を掌に込めて煙を注ぎ空間へ植えた。


 後は独りでに発芽し成長する火の根が、魔者を飲み込み溶かし消し炭へと変える――刹那だった。


 彼の視界の端に煙の蝶々が飛んだ。




「バカ野郎がぁあああああああ!!!」




 顎への衝撃。


 北条の体はバランスを崩し泥濘へと倒れ少し滑る。


 顔を上げれば彼はソレを人と認識出来ていた。


 色の無い輪郭だけの世界で唯一ソレは灰色で描かれていた。


 色の名を灰色だと北条は知らぬが、少年が灰の名を持つ雨。

 雨灰グライスだと知っていた。


 互いの霊紋は呼応するように光り、欠けているはずの心が、感情が元の形に戻っていく。まるで目の前に現れた少年が自身のだと言わんばかりだ。


〝ぶしゅぅぅうううう〟


 少年は発芽しかけていた火種を感情のままに手で握りつぶすとソレを消化し、握った拳は煙の線を描きながら立ち上がろうとする北条を殴り、泥濘の上にもう一度寝かせた。


「テメェの後を付けて正解だったぜ。カアさんの言ってた通り木は腐り始めていた。ホウジョウ、原因がテメェだったとはなぁ。皆、感謝してたのによぉ…… 糞だぜ転生者は」


 少年の言葉が北条の心に刺さっていく。他人の言葉など一切揺らがなかった彼の心が拒絶と不安と共に弱いヒトに戻っていく。


 そして、感情だけの言葉が彼の口から吐き出されていく。


「何も……! 誰も……! 知らぬ癖に……!!正義面をオレに向けるなぁ!!!」


 ソレは悲鳴と変わらない。感情に震えた手は泥を無意識に掴んでいた。


「正義面ァ? 俺がテメェに向けてるのは怒りだけだぜ。だが、そう感じてるなら間違いなくテメェは悪だ。覚悟も無ぇ臆病でお粗末な部類のなァ……!」

「……ふざけるな。オレが街を守っているんだ!! オレが人を守っているんだ!! 感謝だけしてただ守られていれば良いんだ!! 事情も知らない癖に掻き乱そうとするな!!」

「振り回されろってのかよ!! 転生者のやることだと諦めて! カジテのおっさん達はなぁ……! 夢を殺されたんだ! 人生を殺されたんだ!! あの偏屈で頑固野郎共で親の死に目にも格好が付かねぇって泣かなかった人間が……! よっぽどだぜ……よっぽど悔しかったんだ…… 大の大人がよぉ…… 泣くんだよ…… 転生者おまえたちのせいで!! 分かるのかよぉその気持ちが! 分かってて今度は、街を殺そうとしてるのかよぉ!!」


 北条の胸ぐらを掴み、怒りに震える少年の瞳は涙を流していた。


「仕方がないと言っているんだ! そうしなければ人が死ぬんだ!! オレだって苦しいさ!」

「こんだけやっといて被害者ヅラかよ! どんだけ苦しかろうがな、テメェは転生者でこの街の長なんだ! 街を守る義務がある。今やってる以外の方法でな!」

「あったらやってるんだよ!!」

「無くても死ぬ気で探せよ一度死んでるんだろ!!」

「失ったことがないから…… 失う怖さがないから…… 何処までも無責任に言う!!!」

「失い続けてるさ! 夢も! 愛も! 憧れも!!」




「――黙れぇぇぇぇえええええええええええええ!!!!」




 渦巻く感情の波が植物の形となって北条を中心に溢れ出した。


「うああっ!?」


 その衝撃に少年は吹き飛ばされ、後頭部を酷く打ち付けて意識を失った。


 感情を激しく乱された北条の脳裏に色々なものが過ぎった。それは過去の記憶であり、その時に感じることの出来なかった感情であった。


 一度に伸し掛かってきたそれは彼の心を鉄よりも重く苦しくさせた。だがそれは彼の心が"人"になろうとする為の確かな

 

 その兆しであった。


 そして、再び立ち上がった彼は魔者の元へ向かい、必死に泥を素手で避け始めた。感情のままに心のままに、今にも泣き出しそうな表情で。失い続けてきたその手は初めて何かを救い上げることが出来た。


 泥から抜け出した魔者が遠く離れていく。


 それを見送った後で気を失ったままの少年を背中に背負うと、霧と泥濘の中を歩いていく。前よりも少しだけ強い足取りで。


「オレはお前が嫌いだ」


 ぽつり。その日初めて北条は嫌いな人間と出会った。

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