第18話「大切な居場所」

 ゴキブリを追い出した幸が事務所の扉をしめる。

 藤堂は一息つき、ようやくいつも通りの平静を取り戻していた。


「ありがとう幸さん……君がいてくれなかったらどうなっていたか」

「こんなことでよければいつでも。それにしても夏はよく出ますね」

「まったくだよ。心臓に悪いったらない。本当に助かったよ」

「いえ、虫退治ぐらいしか現状お役に立てていないので」

「そんなことはないよ」

「ですけど、私の異能は焼き溶かすしかできませんから。炎はなんでも壊してしまうことしかできないから」

「君はよくそう言うね。炎はなんでも壊してしまうか……」

「はい」


 そればかりは変えようのない事実である。現に幸は、御伽の異能テイルセンスの暴走で家族を――。

 ああ、まただ。また嫌なことばかり考えてしまう。

 負の思考の輪廻を繰り返していても事態は何も進まない。

 今すべきは文魔の正体の調査だ。感傷に浸っている暇なんかない。

 お茶を一口飲んで気を取り直し、幸がソファーに座ろうとすると唐突に藤堂が尋ねてきた。


「幸さん、お茶美味しいかい?」


 降ろしかけていた腰を止めて、幸は背筋を伸ばす。

 不意の質問を訝しく思いながらも幸は素直に思ったままを口にした。


「え……はい。とっても」


 藤堂は、満足そうに頷いている。


「それじゃあ温かいのと冷たいの、どちらが好き?」


 どちらも好きだが、どちらかと言えば温かい方がいい。

 温かい飲み物は心を柔らかくしてくれるから。


「そうですね……温かいのが好きです。夏はたまに冷たいのが飲みたくなりますけど、基本的にはお茶は温かい方が」

「俺もだよ。幸さん、温かいお茶はどうやって作るか知っているかい?」


 もちろん知っている。だが質問の意図が分からない。

 藤堂のことだからからかっているわけでもないだろう。だから素直に答えることにした。


「えっと。お茶の葉にお湯を注いで……」

「じゃあ、お湯はどう作る?」


 やはり意図が見えてこない。それでも幸は真面目に答えた。


「それは水を火で温めて――」

「そうだね。火がなくては、水は水のままで変われない。火がなければお湯は生まれない」


 ああ。そういうことか。

 藤堂の意図が読めた。また幸を慰めようとしてくれている。


「美味しいお茶を生み出すためには、火が絶対必要なんだ。水だけじゃ美味しいお茶は淹れられない。火が欠かせないんだよ」


 やっぱり藤堂は優しい。


「それだけじゃない。お米を炊くのにも、味噌汁を作るにも、あらゆる料理を作るのに火は必要だよ。火は傷つけることしかできないわけじゃない……だろ?」


 幸が欲しい言葉を一番欲しい時に与えてくれる。


「幸さんの炎だって同じだよ。人の命を奪ってしまったことはあるかもしれない。だけどそれ以上に多くの人を救える炎でもある。この前封印したヘンゼルだってそうだよ」

「あれは藤堂さんが倒したんじゃありませんか」

「そんなことはないよ。俺の村雨は鉄の塊だって切り裂けるけど、文魔の骨格の強度はその遥か上を行く。幸さんと燐寸マッチ売りの少女の炎がなければ文魔を倒すことはできなかったんだ」


 藤堂は、束子たわしのように無造作な髪を右手で揉むようにして掻いた。


「実際、俺は途方に暮れていたんだよ。ヘンゼルに決定打を与える力が俺にはなかった。そんな時、君に出会ったんだ。俺は運命だと思ったよ」


 途方に暮れていたところを助けられ、運命を感じているのは幸も同じだ。

 藤堂が同じように思ってくれているのがとても嬉しくて少しだけ照れ臭い。


「……私も藤堂さんに出会えて本当に救われました」


 だからこそ――。


「私は、藤堂さんに恩返しをしたいと常々思っているんです」

「恩返しなんかいらないよ」

「でも……それじゃあ私はここにいる資格なんて」

「幸さん。誰かの側にいることに資格なんて必要ないんだよ。何かしなくちゃいけないってことはないんだよ。お互いに居心地が良ければそれだけでいい。人の役に立ちたいと思う感情は素晴らしいけれど、義務と思ってしまうと苦しくなってしまうよ」


 幸が何もしなくても、藤堂は傍にいることを許してくれる。だけどそれでは幸自身が自分を許せない。

 何もしないで欲しいモノだけ得ようと思うほど、怠惰な人間に堕ちたくはなかった。


「私は……それ以外の生き方が分からないんです。誰の役にも立ったことがないから役に立ちたい……藤堂さんとアリスさんの役に立ちたいと願いました」


 ずっと一緒にいたいからこそ、一緒にいる意味が欲しい。

 雛鳥のように口を開けて喚きながら幸福を与えられるのを待っているだけの存在ではなく、ほんの一かけらでもいから誰かに幸せを与えられるようになりたい


「だから御伽の異能テイルセンスも破壊しかできない力より別の物が欲しいと願いました……」


 自分に宿る異能について幸が多くを知らないのは事実だ。もしかしたらもっと人の役に立てる力の使い方があるかもしれない。

 あるいは第二頁ネクストページが幸の望むような力である可能性も僅かながら残されている。


「破壊だけの力と決めつけてしまうのは、時期尚早だったのかもしれません」


 藤堂は、朗らかに破顔してお茶を啜った。


「大丈夫。焦らなくていいんだよ。ここはもう幸さんの居場所だから、誰にも奪えないよ」

「はい……ありがとうございます。藤堂さん」


 幸は、ソファーに腰掛け、アリスの頭を壊れ物に触れるような手つきで膝の上に乗せると、お茶を飲んで文魔の正体の調査を再開した。

 今自分にできることを精一杯やろう。そう決意し、何冊も何冊も本を読み続ける。

 座卓の上に読み終えた本の山脈が聳え、幸は一睡もしないまま朝を迎えた。

 眠気はまったく感じていない。眠ってしまうのがもったいなく思えた。


 黒い猫。麻縄で首を絞める。やはり読んだ記憶がある物語だ。

 落ち着いて探せ。ゆっくりと記憶の本棚を巡れ。焦りは殺せ。焦りは思考力を盲目にしてしまう。


 黒い猫。

 麻縄で首を絞められる。

 やはりこれだけでは弱い。


 被害者はどうだ?

 二人とも男性だ。これにも何か意味があるのではないか?

 最初の被害者である佐藤一太郎は、二年前に妻を事故で亡くしている。これも関係するかもしれない。

 登場人物が妻のいない男性。物語を象徴する黒い猫と麻縄。

 幸がある可能性に辿り着いたのは午前十一時を過ぎた頃だった。


「もしかして……」


 立ち上がろうとした幸だが、膝の上で心地の良さそうな寝息を立てているアリスを起こしてしまうのは申しわけない。


「あの藤堂さん、お手をわずらわせてしまって申し訳ないのですが」

「どの本を取ればいい?」

「『青鞜せいとう』です。第一巻第四号」

「……あった」


 幸は、藤堂から受け取った『青鞜』の頁をめくっていく。そしてお目当ての物語を見つけると笑みをほころばせた。


「これです! 平塚らいてう先生の訳です。エドガー・アラン・ポーの『黒猫』」


 西暦一八四三年に発表されたエドガー・アラン・ポー作の恐怖小説だ。日本で翻訳版が発表されたのは西暦一八八七年、明治二十年の頃である。


「なるほど、黒猫か……」


 藤堂は大いに納得しているらしく、あからさまに顔色が明るくなっている。


「俺も前に一度、読んだことがある」

「私もだいぶ前に一度読んだきりでした。怖い小説だったのであまり好んで読まなかったんです」

「俺も読んだのは、大分前だったからね。どんな内容だったかな?」

「えっとですね――」


 物語の主人公である男は、子供の頃から動物好きで結婚してからもそれは変わらなかった。

 妻も動物好きだったこともあり、夫妻は様々な動物を飼っていた。

 中でもプルートォと名付けられた美しい黒猫を男は溺愛していた。


 しかしそんな日々は長く続かなかった。


 男は、酒に溺れて性格がゆがんでしまい、妻や動物たちを虐待するようになる。

 虐待は、日を追うごとに苛烈になり、ついにはプルートォの片目を抉った後、庭の木に吊るして殺してしまった。

 その日の夜、男の家は火事に見舞われ、家はほぼ全焼。しかし唯一焼け残った壁に、首に縄を巻き付けた猫の姿が浮かんでいた。


 プルートォを殺して良心が咎めた男は、ある酒場にいる黒猫に目を奪われる。それはプルートォと瓜二つであった。

 男は妻と共にこの黒猫を可愛がっていたが、この黒猫がプルートォと同じ片目であることに気付くと、恐怖を感じるようになった。

 さらに黒猫の胸には白い模様があり、よくよく見るとそれは絞首台の形に似ていた。


 男は黒猫を殺そうとするが、妻に止められる。逆上した男は、妻の頭を斧でかち割り、殺してしまった。

 男は、地下室の壁に妻を塗りこめて警察の捜査をかわそうとする。警察の捜査は難航し、妻の遺体が隠されている地下室まで及ぶも証拠を発見できない。


 警察の目を逃れることを確信した男は、挑発するように妻の塗りこめられた壁を叩いた。

 すると壁の中から人間の物とは思えない金切り声が響いてくる。

 警察はすぐさま壁を壊して腐敗した妻の遺体を発見。そして妻の遺体の頭に片目の黒猫が座していた。

 男は、妻と共に黒猫を壁に塗り込んでしまっていた。男は黒猫によって絞首台へ送られる運命だったのだ――。


 黒猫の物語を読み終えた幸は、藤堂の顔を見やった。

 彼の表情にも力強い確信が満ちている。


「幸さん。この物語で間違いない」

「はい! 最初の被害者の方は奥様を亡くしていました。もしかしたら二人目の被害者の方もそうだったのかもしれません」

「妻を亡くした夫を狙っていたのか。なるほど、つじつまは合う――」


 藤堂が言い終える直前、突如アリスが幸の膝から飛び起きた。


「アリスさん!?」

「文魔の気配を感じる」


 アリスは座卓の上に置かれた鏡を手に取り、念を込めた。鏡には上野の地図が映し出されている。


 藤堂は、鏡を見ながら顎先を撫でた。


「今回は、割と範囲が絞れているね。凌雲閣りょううんかくを中心としたこの周辺か……」

「今度の場所は正確。はっきりと分かる」


 藤堂は冷ややかな闘志を纏い、幸を一瞥いちべつした。


「幸さん、すぐに行けるかい?」

「はい!」


 今度こそ逃がさない。確実に封印する。幸の決意も燃え滾っていた。


「アリス。今回は留守番だ。文魔の力がかなり増しているかもしれない」

「うん。気配で分かる。相当の力を秘めている。戦闘型じゃない私は足手まとい。気を付けて、藤堂、幸」

「アリスさん行ってきます」


 幸と藤堂は、全速力で事務所を飛び出した。

 アリスは、窓ガラス越しに凌雲閣のある方角へ走る二人の背中を見送った。


「二人とも本当に気を付けて。何か……悪いことが起こる気がする」


 アリスが呟いた不安を煽るように、強風が事務所の窓ガラスを叩きつけた。

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