第15話「ためらい」

 幸は、アリスと共に猫の文魔を追いかけながら記憶の本棚を巡った。

 解決の糸口となる物語を捜し歩く。

 黒い猫。これは多くの物語で登場する。それほど珍しくない。だが猫の姿であるならば猫の登場しない物語は除外できる。

 さらに特徴的なのは麻縄を操る異能だ。きわめて特徴的であり、象徴的でもある。

 やはり知っている物語である。

 読んだのはさほど昔ではない。幼い頃ではない気がする。数年の内に読んでいるとしたら比較的新しい物語なのか?


「幸、止まって。気配が強くなってる」


 アリスの指示で立ち止まり、幸はアリスの肩越しに鏡を覗き込んだ。


「どっちの方角ですか?」

「この路地の奥」


 アリスは右手にある路地を指差した。左右を板塀に挟まれており、人が三人ぐらい並んで歩ける程度の横幅はある。その奥の闇に塗れた空間から異様な害意が流れている。


「……はい。私にも分かります。間違いありません。あそこに文魔がいます」


 姿は見えないが、文魔から逃げる雰囲気を感じない。

 まさか幸とアリスを迎え撃つ算段か?

 となると罠が仕掛けられているかもしれない。

 ならばこちらが逃げるか?

 断じて否である。


 ここで逃げては御伽狩りの名折れだ。贖罪しょくざいのため、異能の力を人々のために役立てると決めた。

 恐怖の浸食を許すな。己を律して戦いへ赴け。自分の命など大事にするな。


 そうでなければならない。そうでなければ神楽幸は、藤堂とアリスの隣にいることは許されないのだから。


 幸は、たかぶりつつある恐怖心を押さえつけて唾と一緒に飲み込んだ。燐寸マッチ箱を右手で握りしめると、一歩一歩、高所作業の足場を確かめるような足取りで歩を進めていく。


「アリスさん、私から離れないでください」

「うん。ついてく」


 幸の後ろからアリスがついてくる。彼女の足音はゆっくりとしているが恐れを奏でていない。勇気と気品に満ち満ちていた。


「にゃー」


 猫の鳴き声に、幸とアリスは立ち止まった。

 暗くて相手がどこにいるのかよく見えない。

 燐寸マッチを一本擦って灯りを点ける。橙色の煌めきが闇を切り裂き、幸の正面、路地に座り込む黒い猫の姿を鮮明にした。


「アリスさんいました! 文魔です!」


 幸と目が合っても黒い猫は動かない。傲慢そうな二つの眼でずっとこちらを見つめている。


「幸、気を付けて。近くで気配を感じると分かる。あいつは多分初版体」

「じゃあまだ重版体は?」

「うん。ここで封印すれば被害は最小限に抑えられる」


 一見敵を追い詰めたように見える状況だが、実のところまずい立場に置かれたのは幸の方だ。

 まだ文魔を構成する物語が何なのか分かっていない。文魔に戦う気があっても、こちらは正体が分かるまで積極的な攻撃を加えられない。


 正体を突き止めて強制的に顕現させ、存在が不安定な所を倒し、光球の状態にして白紙の本に封印する。

 この手順を踏まなければ、重版体が出現するばかりか、初版体の力も強化されて復活してしまう。

 下手な攻撃をして勢いあまって倒してしまったら目も当てられない。


 さらに厄介な状況なのは、この場にいるのが藤堂ではなく幸という点だ。

 幸の御伽の異能テイルセンスは、炎を操る燐寸マッチ売りの少女。殺傷能力が極めて高く、殺さずに相手の動きを封じるのは不得手としている。

 文魔の正体にも未だ検討がついていない今、御伽の異能テイルセンスを使って攻撃するわけにはいかない。


 片やアリスの御伽の異能テイルセンスも文魔の気配を察知する探知系の異能だ。文魔との直接戦闘は不得手としている。

 

 こうなったら幸が黒い猫を見張り、アリスには藤堂の気配を鏡で探してもらうしかない。

 そしてアリスを藤堂の元へ行かせ、ここへ呼んできてもらうのが最善だ。

 藤堂の能力で文魔を氷に閉じ込めてしまえば、時間はいくらでも稼げる。この作戦しかない。


 幸が策をアリスに伝えようと口を開いた瞬間、頭上から降り注ぐ殺意で腕の皮が粟立った。

 仰ぎ見ると、何もないはずの中空の空間から麻縄が垂れ下がり、その先端がアリス目掛けて伸びていた。


「あれは!?」


 アリスは気づいていない。このままでは麻縄に絡め取られてしまう。

 幸は火の点いた燐寸マッチを投げ捨て、咄嗟に動いていた。

 藤堂と同じ怪力が出せるなら今この瞬間に使うんだ!

 決意に呼応するかのように、幸の瞳が太陽光を吸い込んだ柘榴石ガーネットが如く赤い輝きを増した。


 すかさずアリスへ飛び掛かり、彼女のか細い腕を掴んで路地の外へ放り投げた。

 少女の一人の肉体を羽毛の枕であるかのように軽々と投げ飛ばす。並の女の腕力では到底叶わない所業を容易く成しえてしまった。

 しかし安堵も束の間。

 幸に標的を変更した麻縄の早業は、超人的な反射神経と身体能力ですら回避する猶予はない。

 目のも止まらぬ速度で首筋に縄が何重にも絡みついてくる。


「こんな縄、御伽の異能テイルセンスの炎で……っ!?」


 燐寸マッチ箱から新しい燐寸マッチを取ろうとした瞬間、気が付いた。

 周囲は木造の民家ばかり。

 もしも炎の操作を誤れば瞬く間に類焼し、甚大な火災を産み落としてしまう。

 幸に生じた空白は数瞬にも満たない極小の隙。けれど麻縄が幸の首を絞め上げ、空中に吊るしてしまうには十分すぎる硬直だった。


「幸!」


 しまった!

 ブーツの底が完全に地面から離れてしまっている。

 抜け出そうと手足を動かしても空を切るばかりだ。


「うぅ!」


 全く抵抗ができない。骨が軋みを上げている。このままでは息ができずに窒息するより、首の骨が砕かれる方が早い。

 黒い猫は幸をじっと見つめたまま動かない。

 今御伽の異能テイルセンスを使えば相手に直撃させられる。だが首を絞められた状態で異能を行使した経験はない。狙いが少しでも逸れたら周囲の建物を燃やしてしまいかねない。


 それに文魔の正体もまだ掴めていなかった。

 どこまで読んだ覚えのある物語。頭の中の本棚に必ず所蔵されているが、痛みと息苦しさで探すどころではない。

 とにかくこの状況を脱するのが先決だ。


 やはり麻縄を焼き切るか?

 いや、それにしても問題は変わらない。狙いがずれたら一帯を炎の海と化してしまう。

 迷っている間にも麻縄が首を絞め上げる。力も強度も尋常のそれではない。


「幸! 炎を放って! 自分と御伽の異能テイルセンスを信じて!」


 路地の外から響くアリスの悲鳴が鼓膜を揺らした。

 彼女の異能は戦闘向けではない。もし幸がこのまま倒れたらアリスは為す術なく文魔にやられてしまう。

 これ以上、大切な人は……失いたくない! 失えない!

 ここで幸がやられれば自分の命だけではない。アリスの命も危険に晒すことになる。

 意を決した幸は、震える手を懸命に使って燐寸マッチ箱から燐寸マッチを取り出し、擦って火を灯した。


御伽の異能テイルセンス……燐寸マッチ売りの――」

「にゃー」


 異能を発動しようとした瞬間、さらなる麻縄が空間から生じ、幸の右手を打ち払った。

 ようやく灯した燐寸マッチの火が消え失せ、すかさず放たれた二撃目で燐寸マッチ箱も弾き飛ばされる。

 何もない空間から、もう一本麻縄を発生させた。完全に想定外の展開だ。戦闘経験のなさを突かれてしまった。


 気道が絞られる。呼吸ができない。骨の軋む音色が頭蓋骨の中を反響してやかましい。このままでは十秒と持たずに命を絶たれてしまう。

 アリスの加勢も期待できないし、藤堂が都合よく助けに来てくれるか?

 いや、物語と現実は違う。そんな都合のいいことは起こらない。


 でもここで諦めちゃだめ! 頑張れ! がんばるんだ!

 今かかっているのは自分の命だけではない。アリスの命も天秤に乗せられている。

 死というおもりを何百個乗せられても揺らぐわけにはいかない。自分の命だけなら諦めたかもしれない。だけど今の幸には自分より年若く、姉のように慕ってくれる大切な友人がいる。


 全身全霊を賭けろ。

 闘志を奮い立たせろ。

 追いつめられたらネズミだって猫を噛む。いかに驚異的な存在が眼前に存在しようとも人間が意志を挫き、諦めていい理由にはならない。


 それでも一人でできることには限界がある。

 だからこそ限界を知れ。形勢不利を受け入れろ。

 最善手を選び抜き、行動に移せ。誰かに頼る選択が最善なら躊躇ちゅうちょするな。


「ア……アリスさん! 火を!」


 幸の咆哮と同時に、アリスは路地に飛び込んだ。目標は幸の足元に散らばる燐寸マッチと残骸となった燐寸マッチ箱のヤスリ状の側薬部分だ。

 アリスの意図を察したのか、黒い猫がアリスを一睨みすると三本目の麻縄が中空に姿を現した。


 ――アリスさん避けて!


 喉が絞められて声が出せない。

 しかもアリスは空中から迫る魔手に気が付いていないようだ。燐寸マッチを拾うことに意識が集中してしまっている。

 このままじゃ、二人ともやられてしまう!

 燃え広がる絶望の渦を打ち貫くように、金色の閃光が黒い猫の右目を射抜いた。

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