御伽の狩人 -大正御伽怪奇譚-

澤松那函(なはこ)

第一章『御伽狩り』

第1話「神楽幸」

 文明開化と謳われた明治も今は昔。大正を迎え、ますますの発展を見せる帝都は、深更の黒い腕に抱かれて寝静まっている。

 新月の生み出す闇の中に、洋館がぽつりと佇んでいた。

 長年手入れが施されず寂れてしまったその姿は主を失い、肩を落とした老犬のようにも見える。


 煉瓦造りの壁に刻まれたひび割れから、甘ったるい芳香が漏れて、夜気に溶けている。

 壁の裏側にあるのは、洋式の厨房だ。壁面は白のタイル張り。実に広々としており、十数名の料理人が一斉に調理しても持てあますだろう。

 しかしそんな全盛期の面影は、既に失われている。

 厨房全体が張り巡らされた蜘蛛の巣に支配され、錆びついた調理器具の大半も糸の橋が架かっている。


 ここにあるもので唯一の健在なのはヨーロッパ製の古びた竈だった。

 我こそ厨房の主である、と主張するかのように鉄扉の大口を開けて、竈の中では煌々と火が灯っている。

 だが、ここに入った者が最初に目を奪われるのは、剛毅な竈ではないし、長い歳月をかけて蜘蛛が作り上げた糸の宮殿でもない。

 厨房の床を埋め尽くす膨大な数の骨だ。

 形、大きさ、いずれから見ても紛うことなき人骨である。

 血管の一本や骨と髄にいたるまでしゃぶりつくされて、高級な象牙のような輝きを放っている。腹をすかせた野良犬でもここまで見事な仕事はできまい。


 しゃくん――。


 竈の火に照らされた二つの影が躍り、交差した瞬間、肉を断ち切る音が木霊した。

甘い芳香が一層増していく。


「ぐおおお!」


 二つの内、大きな影の持ち主は、左の肩を押さえて豚のような呻きを上げた。その姿は人と豚の赤子の皮と肉をヒグマの骨格に貼り合わせたような異形である。

 体躯は横綱力士の倍はあるに違いない。丸太のような腕には数十箇所の刀傷が刻まれ、裂けた肌の下には、はちきれんばかりの脂が詰め込まれている。


「ふうううう! ふうううう!」


 血の化粧が施された唇が呼吸の度にめくれる。覗き見える歯の隙間には細かい肉の筋が挟まっていた。

 異形と相対するのは刀を手にした青年だ。

 彫像のように整った面立ちと水色に輝く瞳は道行く婦人の視線を釘付けにするだろう。

 けれど使い込んだ束子たわしのようなぼさぼさ頭。着古した無地の黒い着物と第二ボタンまで開けてだらしなく着崩したシャツ。濃灰色の袴と履き慣らしたブーツ。極めつけに腰から下げた瓢箪が相まった風貌が容姿の美点を完膚なきまでに殺している。


 青年は、すぅーっと息を吐き、正眼の構えを取った。

 得物の刀は、水で形作られている。ガラスでもなければ氷でもない。紛れもない純粋な水が刀の形状に固定されていた。

 青年は床を蹴り、異形の懐に飛び込んだ。打ち落とした水刃の切っ先が大気に漂う熱気を吸い、巨大な氷柱が幾重にも伸びて厨房を占拠する。

 異形の鼻先まで氷柱が迫ると、突如巨体が緑色の閃光に包まれた。

 あまりの眩しさに青年のまぶたは反射的に閉じた。


「くっ!?」


 歯を食いしばり、瞼をこじ開けると、先ほどまでそこにいたはずの異形の姿はどこにもない。

 残されたのは中空を漂う緑色の燐光の粒と、むせ返るほどに濃厚な菓子の甘ったるい香りだった。

 青年は舌を打ちながら、無造作な髪の毛をわしわしとかきむしった。


「逃げられたか……時間をかけ過ぎたせいで〝強制的な顕現〟が解けてしまった」


 青年が腰から下げた瓢箪の蓋を外すと、刀を象っていた水は、あるべき流体の姿となり、瓢箪へ吸い込まれていく。

 水が瓢箪に入る度、水色に輝いていた瞳は急速に色褪せ、やがて黒に染まった。


「あれが十七の重版体が確認された〝文魔〟の初版体……さてどうしたものかな」


 青年は、床に転がる人骨に手を合わせて弔うと、髪をかきむしりながら厨房を後にした。


 ◇  ◇  ◇


 今年の太陽は昨年の猛暑に負けじと張り切っているらしく、帝都を遍く照らして蒸していた。

 八月もちょうど中頃。暦の上では既に秋だが、未だ夏の勢いが収まる気配はない。

 昨年の同じ頃は、気象台が三十五度を記録する日があったが、今日も同等の暑さであるに違いない。

 野良の犬や猫もばてているのか、路地の日陰で項垂れており、蝉たちの求愛の合唱も心なしかやけくそに聞こえる。


 上野の喧騒を行く女性たちは、日傘で日光を遮ろうと懸命だが、この気温の前では用を成さない。傘の重さの分、余計に汗をかくだけだ。

 巷で流行りのモダンガールも汗の洪水で化粧が流れ落ちてしまい、形無しである。

 男たちも茹蛸のような顔をしながら汗を拭っている。止めどなく溢れる汗をせき止めるにはハンカチ一枚では力不足で、着物やシャツの襟もびっしょりと汗を含んでいる。


 猛暑に辟易とした雑踏に紛れて、英題の本を胸に抱えた少女――神楽幸が石畳を見ながら歩いていた。

 平日なのに、いつもより人出が多い。道の端を歩いていても時折すれ違う人と肩がぶつかりそうになる。

 相手が女性であればまだよいが、男性となると話は変わる。最初は鬱陶し気に睨んでくる彼等の視線は、瞬く間に少女の相貌に釘付けとなっていた。

 はっきりとした二重瞼の瞳。形のよい鼻筋。鈴蘭柄の紺色の着物と臙脂(えんじ)色の袴の上からでも西洋人染みた起伏に富んだ体型が見て取れる。上背も道行く男たちに並ぶほど高い。これだけでも存分に目立つ容姿だ。


 もっとも人目を引くのは、瑠璃色のリボンで束ねた髪である。栗毛色の毛束の左側が一筋、老女のような白髪だった。

 十八の年頃でも若白髪が生えることもあるが、精々一本か二本。幸はそれを数えたことはないが、目測で数千はくだらない。

 珍しい容姿故、幸は人目を引いてしまう。

 女であれば、ぎょっとした横目でチラリ。

 男は、興味深げに嘗め回すようにまじまじと。

 子供にいたってはからかいの言葉を口にしながら指さしてくる。

 連なる数多の視線が針のように頬を突いてきて居心地が悪い。彼等は何を思っているのだろうか。物珍しいだけか。気味悪がっているか。あるいは――。


 ――化け物!


 稲光のように脳を支配する鮮烈な声に、幸は怯えるように肩を竦めて、足を止めた。

 突然の行動に周囲の人々の瞳が一斉に幸を映した。


 ――化け物!


 再び脳内を支配するあの声。あの言葉。あの光景。

思い出してはいけない。また悲しくなってしまう。泣き出してしまう。そんな資格はないのに。許されるはずがないのに。

 胸が痛い。内側で炎が揺蕩っているようだ。呼気の熱で喉が焼かれる。火の粉と煙がしみたように涙が溢れそうになった。

 まるであの時の炎のように――。


「おい!」


 背後から聞こえた声に幸の肩が跳ね上がる。恐る恐る振り返ると若い男が苛立ちを露わにしていた。


「道の真ん中で邪魔だ!」

「ご、ごめんなさい」


 幸は、慌てて一礼してから走り出した。

 早く図書館に行って本を返し、新しい本を借りよう。本来、図書館所蔵の書籍は貸本屋のように個人に貸し出されることはない。だが何度も通い詰めた幸は、図書館の職員の間ではちょっとした有名人になり、通常の観覧料の倍の額を収めると特別に館外への持ち出しを許可してくれる。


 今回借りてきたグリム童話集は素晴らしかった。いつでもどんな時でも物語は読んでいる間だけ、辛い現実を忘れさせてくれる。

 両親のいない寂しさを。

 継母のいない苦しさを。

 家族を亡くした悲しみを。

 皆を死なせてしまった罪悪感を。


 今日はアンデルセンにしようか。それともイソップか。なんでもいい。なんでもいいから早く次の物語を読みたい。空想の世界に羽ばたいて、一時でも現実を忘れられるなら。

 図書館への道中を急ぐ幸だったが、進行方向に多くの人がたむろしており、足を止めた。

 幸から見て右手に寂れた洋館がそびえており、そこから警官がひっきりなしに出たり入ったりを繰り返している。

 群がる野次馬を数人の警官が懸命に散らそうとするが、好奇心の前にはさしたる効力を発揮していない。


「人が死んでいたらしいぞ。若い女だそうだ」


 野次馬から漏れ聞こえた声が、幸の耳に届いた。

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