第9話 遠縁

(なんだ、あの子たち……)


 呆気にとられつつ、僕はホースにつながった散水栓のコックを締めにもどった。

 二カ月間もガレージに置きっぱなしだった車を、できれば全部洗いたかったが、さすがに今日はもう限界だ。浴室の清掃もまだ誰かに代わってもらった方がいいかもしれない。


 ホースを巻き取って一息ついていると、後ろから石の擦れ合う音が聞こえた――足音だ。振り向こうとした瞬間、先にそちらから声が掛けられた。


「ああ、今日だったっけか――お帰りぃ、杜嗣くん」


 やや低めの声と明るい口調。視線の先に居たのは、葵さんよりもう少し年上に見える女の人だった。背中にギリギリかかるくらいの癖のある長髪を派手な外ハネに作り、ダークグレーのタイトなビジネススーツにえんじ色の革製ハーフコートをまとっていた。


「お、どうしたの。珍しそうにジロジロ……ああ、そうか」


 彼女はと不器用に指を鳴らす風の手振りをすると――ろくに音がしなかったが――口元をほころばせてニカっと笑って見せた。


「ホントに何もかも忘れちゃってるのね。私は金垣内数多かねがいち・あまた。名前くらいはもう聞いてるでしょ? 醤油坂ハイツの住人、お仲間よ」


「あ……そうでしたか、あなたが」


「うっわあ。そこまで他人行儀になられると結構ショックだわ……まあいいや、改めてよろしく」


 握手をしようと伸ばしてきた腕は、その状態でなお手首ギリギリまでがブラウスの袖に隠れていた。いわゆる「萌え袖」ほどではないにしても、ずいぶんと袖丈にゆとりがあるようだ。

 ただ、その時は袖よりもむしろ、彼女の笑み割れた口元から覗く、サメか何かを連想させるような三角形にとがった歯並びに目を奪われた。


菊谷川杜嗣きくやがわ・とうじです……よろしく」


「うん、知ってる――あー、調子狂うわこりゃ。中入ろうっか、冷えて来たから」


 彼女は一瞬真顔になったかと思うとそのまま両の手で僕の腕をつかみ、妙になれなれしい感じで僕に体重を預けてきた。そのままの体勢で一緒に玄関へ向かう。


「門前さんとこの子たちに囃されたでしょ。歌、こっちまで聞こえてたし」


「え」


 不意打ちのようにさっきの体験を蒸し返されて、僕は思わず身体を固くした。


「や、気にしない気にしない。あの子らはいつもあんな感じよ。でたらめに節をつけて、見たことをなんでも触れて歩くんだから……まあ、葵さんがそれだけみんなから慕われて、関心持たれてるってことよ。ついでに、君もね」


「そ、そうなんですか?」


 口ぶりからするとあの囃し歌は、僕と葵さんのことに関係しているらしい。してみると「むこさま」というのはもしや――


 ――渕上様の門のうちに、婿様がもどられた――


 そういう意味ではなかったろうか。


(…婿様って、僕のことなのか?)


「あの子たちがそう思ってる、ってこと。無邪気ねえ、男と女が一つ屋根の下にいたって、全部がそうって訳じゃないのに。まだ何も知らないもんだから」


 どうも声に出してしまっていたらしく、金垣内さんは僕の疑問に真っ向から答えを返してきた。


 だったら、僕と葵さんは結局のところどういう関係なのか。そこが気になって仕方ないのだが、この金垣内さんは教えてくれる気があるのやらないのやら――「私と君もそんな風に見えてるかもねぇ」などと僕に耳打ちしては、「クヒヒ」と笑うばかりなのだった。



「あら、今日は早かったんですね」


 葵さんは僕たちに気づくと、台所仕事で濡れた手をハンドタオルで拭きながら出迎えた。金垣内さんの密着ぶりを特にたしなめもしないところを見ると、ハイツ内の人間関係は完全に葵さんの優位で動いているらしい。


 夕食はチキンのネギ塩焼きとクリームシチュー。午後七時には早織さんも帰ってきて、四人で食卓を囲んだ。


 とりとめもなく話をするうち、話題はなんとなく、さっきの女の子たちのことになった。


「門前さん、ってのは?」


「ああ。商店街の外れに、割と大きめの稲荷神社が――って、忘れてるか」


「そうそう。そこの神主さんとこのお孫さんたちよ」


 早織さんがネギ塩焼きを飲みこんだ直後の吐息と共に、話の穂を継いだ。


「へぇへぇ。三つ子ちゃんなんです?」


 見た通りの印象でそう尋ねると、彼女たち三人は一斉に首を傾げた。


「何人でしたっけ?」


「二人までは見たわぁ」


「どうだっけ……神主さんに訊いてもその度に人数が違ったような」


「あ、いいです。なんとなく分かりました」


 うん、よく分からないということがよく分かった。僕は首を後ろに反らせて深呼吸すると、一番肝心の、そして聞くのがためらわれていたことを切り出した。


「そういえば、婿ってのは冗談としても、僕は一体どういう立場でこの家に? 葵さんが遠縁だってのは聞いてますけど……」


 葵さんがとたんに真顔になってこっちを見た。


「そうですねえ。あまり楽しい話ではありませんけど、やっぱり忘れたまま、知らずにいるというのは良くないです。もう一度きちんと話しておかなきゃなりませんね」


「……お願いします」


 それから葵さんが語ったことは、けっこう入り組んだ家系の長い歴史にまつわるような物語だった。だが要約するとだいたい以下のようなことだ。

 葵さんの祖母の弟さん、というのが僕の父方のお爺さんに当たる。葵さんから見ると大叔父だ。僕と葵さんはまたいとこ(はとこ)ということになる。


 葵さんの亡くなったお母さんは従弟である僕の父と気が合ったらしく、半ば冗談のように「互いに息子と娘を得たら娶せよう」などと、口約束をしていたらしい。


 ちなみに醤油坂ハイツの元になった醤油蔵を経営していたのは、葵さんの父方の伯父にあたる人で、葵さんはつまり年長の従兄弟いとこからこの物件を受け継いだことになるわけだった。


「ところが、去年の春の事でした。杜嗣さんのお母様が心臓の病気で急逝されて、修一さん――杜嗣さんのお父様は何を思ったか、国外へ出てしまわれたんです。それで、私が後見人ということになりました。もともとは他にも親戚が何人かいたのですけれど、早くに亡くなられたり、暮らし向きに余裕が無かったりで」


 父はおおよそ電気技師の類の仕事をしていたらしい。波力や潮汐といった、小規模の水力発電システムを施工、管理する事業に携わって、今はフィリピンにいるのだとか。


(仕事に逃げた、ってとこなのかな……)


 両親の関係がどうだったのか、記憶を失った僕にはそんなことすらわからない。僕はどうも大学進学をせずにうろうろしていたようだし、従姉妹との昔の軽口をあてに、その娘に任せてしまえたのは父にとって勿怪もっけの幸いだったのかも知れないと思った。


「……結構、破天荒な人なんですね。父は」


 まあ、生きていてくれてるだけでも、今の僕にはありがたいと思えるが。


「そんな感じの、約束とも言えないような話ですけど……母が何かとよくしてもらっていた修一さんの頼みですからね。杜嗣さんさえ良ければ、ずっとここに居てもらって構わないです。何かの折に使うようにと、それなりの額のお金も預かってますから」


「……そういうこと、なんですね」


 思いのほかドライな物言いに、僕が少しばかり落ち込んだ気分になった所に。葵さんは何ともふんわりとした表情で微笑むと、こういったのだ。


「でも、母と修一さんのお約束……私、とっても気に入ってるんですよ。少しだけ、期待してもいいかしらね?」

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