第7話 ガレージの車には

 ハイツ内を一通り廻り終えたのは四時ちょっと前だった。夕食も葵さんが用意してくれる、ということだったが、それまではまだ大分時間がある――


「葵さん。僕、ちょっと外に出てみますね」


 キッチンに立つ背中に向かって呼びかけると、彼女は少し眉をしかめた笑顔を僕に向けた。


「あら。まだ体力戻ってないんですから、あまり遠くへは行かないでくださいね?」


「ええ。庭先くらいまでにしますよ」


 実際その程度しかできそうになかった。三階に靴を取りに上がっただけで、僕の脚は悲鳴を上げだし、膝ががくがく震える始末だったからだ。駅からの道のりは、思ったよりも堪えていたらしい。


 廊下を回り込んで一階エントランスへ行き、そこから観音開きのドアを開けて玄関ポーチへと出る。

 浴室のものと似た石材が敷かれた玄関ポーチにそって、丁寧に刈り込まれた植え込みがあり、その東側には小さな菜園、西側には玉砂利を敷き詰めた石庭が作られている。


 石庭にはいい具合に苔むした石灯籠が立っていたが、その向こうにあるものがなぜか妙に僕の注意を引いた。白壁に瓦屋根をのせた、元は土蔵か何かだったのではないかと思わせる感じの建物がある。

 こちらに面した箇所にはシャッターが三面ほどあり、すぐにそれが車庫であると分かった。その一か所が開いたままで、その奥に車が一台あったのだ。


「あれぇ?」


 これは奇妙なことだった。


「車があるなら、病院まで迎えに来てくれれば良かったんじゃ……?」


 豆畠台までは、車で十分送迎可能な距離であるはずだった。だがもしかすると、葵さんは運転免許を持っていないのかもしれない。そう思うとなんとなく、それは彼女の人となりにふさわしいような気もするのだ。


 だが薄青い色に塗装されたその車――おおよそ10年ちょっと前の型に思える軽自動車を見ていると、妙な考えが頭の中に忍び込んで来た。


 ――これ、ひょっとすると僕の車じゃないのか?


 事故で病院に搬送されたときにも、僕の所持品には運転免許証があった。今も服のポケットに入っている。車の鍵は――もしかするとキーチェーンにつけていたかも知れない。

 あの車を調べれば、自分のことがもう少しわかるのでは。失われた記憶を取り戻す手掛かりがあるのでは――そんな思いに駆られて、植え込みの間を抜けてガレージへと歩み寄った。玉砂利が足の下でザクザクと音をたてたが、石庭の縁が少し乱れるのを申し訳ないと思う気持ちはどこかに置き忘れてしまっていた。

 

「ああ、うん、間違いない」


 そんな言葉が口を突いて出る。車体右側に立つと、キーチェーンの鍵束の中から指が勝手に正しいものを選び出していた。プッシュスタート方式ではない、古いタイプのものだ。

 ドアハンドル横の小さな擦り傷や、ウィンドウフレームの部分で塗装をわずかに膨れ上がらせている錆の位置まで手に取るように思い出せた。遠目には小綺麗に見えても、実のところこいつはなかなかに年季の入ったポンコツなのだ。


 苦笑いをしながらドアを開け、狭い運転席に体を押し込む。座席の位置や高さは僕の体にぴったりで、ハンドルに手を伸ばすと肘が程よくゆったりとたわんだ形で落ち着いた。

 ダッシュボードの蓋を開けて中を確認する。車検証や保険の書類の写し、少し表紙の変色したこの車のマニュアルがあった。これといった私物は残っていなかったが、これではっきりしたことがある。


 この車は僕のもので、どうやら僕は間違いなく、確かにここに住んでいたわけだ。深い安堵感が心にあふれた。


(これなら、何か用事があるときは車で出かけられるな……病院への定期診察とか)


 他にも、葵さんのために僕が車を出すこともできるし、何なら彼女をドライブに誘うことだってできそうだ。


(もう少し、全体をチェックしとくか。二カ月間ここに置きっぱなしだったとしたら、バッテリーだって上がってる可能性も……)


 エンジンやバッテリーはチェックしておくべきだろう。運転席のボンネットオープナーを操作してロックを外し、車外へ出てフロント側、車庫の奥へと回り込む。ボンネットに指をかけて持ち上げようとして――ふと、バンパーの部分に気になるものを発見した。


 側面から流麗につながった曲線が、バンパー右前面の差し渡し三十センチほどの範囲でかすかにつぶれ、凹んでいるのだ。そして、そこには何か得体のしれない黒いものが、粉をはたいたような感じにびっしりと付着していた。


(なんだ、これ? もしかして、僕はこの車を何かにぶつけたのか?)


 なんと形容すべきか、そもそも車を何にぶつければこんな汚れ方をするのだろうか? 黒い汚れはしいて言えば、コピー機のトナー回収ボトルにたまった廃トナーの質感に近い。あれで段ボール箱を真っ黒にまぶし何か適度に重いものを入れて、車で轢いたら――こんな風になるかもしれない。

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