第3話 退院(2)

 翌日。

 

 退院手続きをひと通り済ませ、僕は葵さんと一緒に病院の正面玄関へ出た。

 上空を覆っていた雲も今日は東へ少し吹きやられて、青空がのぞく空模様だ。風はまだ冷たいが、南に面した玄関前は日差しを浴びて温かく、心地よかった。


「入院費は後日、計算書を郵送してくれるそうです」

 

「すみません、何から何まで」


 ひき逃げの加害者はまだ見つかっていない。保障制度との兼ね合いで、病院側の手続きには通常より少々時間がかかるらしい。


 何者なのかわからないこの女性に金銭面で依存し続ける、その申しわけなさは変わらない。

 だが正体不明なのは同じでも、少なくとも僕にとって葵さんは、もはや『知らない人』ではなかった。記憶が戻らない以上は、何もかもここを起点に始めなおすしかないのだ。

 さて。僕を待っているというその家まで、どうやって帰ったものか――手荷物はごく少なく、病院から駅まではせいぜい二キロだが、僕の足はまだまだその程度の距離を歩くにもおぼつかない。

 

「杜嗣さん、タクシー呼びますね」


「あ……全部タクシーだと、なんだか――」


 ほとんど無意識にそう言いかけた。彼女に対する遠慮なのか、それとも。

 

「杜嗣さん、タクシー代くらいはそんなに心配しなくても」


「いや、それだけじゃないんです。ドアからドアで、覚えのない家に『帰る』のって……なんだか誘拐されたみたいじゃないかな、って――」


 失言に気づいて口ごもる。葵さんは苦笑を浮かべた。


「そんなこと――」


 その顔が一瞬さっと青ざめた気がして、僕はほんの一呼吸、次の瞬間に落ちるかもしれない雷に身構えた。

 だが葵さんはすぐに、そんな不穏な気配を切れ長のまぶたの奥に沈めてしまって、何とも柔らかく微笑んだ。 

 

「そうですね、着くまでの景色をゆっくり眺めたほうが、何か思い出せるかも――」



 結局、僕たちは最寄りの南豆畠駅までタクシーで移動し、そこから電車に乗ることにした。

 一時間に三本程度の電車が停まる上下一路線ずつの駅は、人影まばらでやたらに静かだった。ホームに上がってしばらくすると、ベルの音とともに、レモンイエローに塗装された古ぼけた電車がやってきた。

 

「良かった、座れて……階段、大丈夫でした?」


 座席に張られた青いモケット生地は、起毛がずいぶん擦り切れていた。僕はそこに腰を下ろして、というよりはへたり込んでいたが、それでも一応は彼女に強がって見せた。

  

「どうってことないですよ」


「そうですか」


 彼女は僕の前につり革を握って立っていて、こっちの目線の高さより少し低いところにコートの裾が見える。ついついそのあたりに視線をさまよわせていると、葵さんはすっと体を入れ替えて僕の隣に腰かけた。

 

「荷物で座席ふさいじゃうけど、すいてるし構いませんよね」


「い、いいんじゃないですかね」


 僕たちはそれっきり無言で、対面の窓から外を眺めた。電車は東へ向かっていて、僕たちの座った位置からは線路の南側の風景が見える。なだらかな丘陵が折り重なって、ささやかなビル群がその間に割り込むように立ち並んでいる。

 ずっと南の彼方には海が広がっているらしい。古鉄を磨いたような青みがかった灰色が、空の下縁を一直線に断ち切っているのがわずかに見えた。

 

 線路沿いには防音壁のたぐいは少なく、おかしな名前のマンションとか、学習塾の看板とか、そんなものが何度も目の前を通り過ぎていく。レールの継ぎ目を噛んだ車輪が立てる、とぎれとぎれのリズムが眠気を誘った。


(事故以前にも、僕はこの電車に乗っていたんだろうか……)


 スプリングの弱くなった座席の、やや沈みこむような感触を覚えているような気がする。ふくらはぎに当たる車内暖房の温風も。

 だが、人間の脳は容易に『それを知っていた』という偽の記憶を作り出してしまうものらしいのだ。僕はすでにそのことを、医師たちとの問答で聞き知っている。

 

 師美本町もろみほんまちの大きな駅で一度停まった後、電車は麹町こうじまちへ向かって再び滑り出した。少し混み合い始めた車内で、僕たちは荷物を膝の上に載せ、互い少し詰めて座りなおした。

 葵さんの肩が僕の二の腕に軽く押し付けられる。服越しに感じる体温に、僕はなぜかひどく安堵していた。


       * * *

         

 麹町の駅は豆畠台よりさらに小さかったが、駅の南側には不釣り合いに大きな真新しいロータリーがあって、タクシーが数台停まっていた。

 ひょっとしたら江戸時代あたりからそびえているのではないか、と思わせるケヤキの巨木が、葉を落とした姿の影を路面に落としている。その根元には駅周辺の地図を掲げた黄色い案内板が立っていた。

 

 僕は立ち止まって地図に目を走らせた。駅から真っ直ぐ南下する広い通り――麹町駅前中央通り、と何のへんてつもない名称が記されたそれの、起点に近いところから直交して、ほぼ東西に走る道がある。

 

 それが、醤油坂通りだった。

 

 葵さんに尋ねてみると、『醤油坂ハイツ』はこの坂道を下ったところ、駅から三百メートルあるかないかくらいの場所らしい。

 

「ああ。そのくらいなら、歩きましょうか」

 思い切って、自分からそう申し出た。三百メートルならたいして負担にならないはずだ。

 

「ええ。ゆっくり行きましょ。帰ったらお昼にしますね」


 歩き出してすぐに、梵鐘らしき音が聞こえた。ひと突き分だけ鳴らされたその音は、何とも言えない余韻を伴って海のある方角へと響き渡っていく。

 

「あれは?」


「ああ、お昼を回ったんですね。坂を下りきったところの踏切から北へずっと行くと、臨済宗の古いお寺があるんですよ」


「ああ、そういえばさっきの地図にもあったかも」


 了傳寺りょうでんじ、とかそんな名前だったはずだ。


「あんがい、歴史の長い町なんですかね」


「私も聞きかじりなんだけど、江戸時代の中頃くらいに、このあたりで新田開発が行われたことがあって、それにまつわる謂われがあるそうなんですよ」


「へえ……」


「もとは『良い田んぼの寺』で良田寺りょうでんじだったのかもしれませんね」


 なるほど。どんな小さな取るに足りないような町でも、その土地の小路ひとつまで人間が生きてきた時間が堆積しているのだ――そんなことを考えながら歩く。

 

 クリーム色に塗装された、古びた歩道橋がひとつ、唐突な感じで坂道を横切っている。その傍らにはドアが無くなってしまった薄汚れた電話ボックス。中の電話機は緑色だが、生きているかどうかまでは分からなかった。

 

 路面の舗装もずいぶんと古い。アスファルトの中に混ぜられた緑灰色の砕石が顔を見せ、ところどころにひびの入ったところもあった。

 剥がれかけた点字ブロックに、割れたままの反射材。誰かが吐き捨てたガムの痕跡が黒いしみに変わりはて、もはや舗装の一部のようになっている。

 

 坂の中ほどまで降りるとそこからは遠くまで視界が開けていて、北の方角二キロほどと思われる場所に、了傳寺とやらの本堂屋根らしきものが見えた。

 

 僕がそれに目を凝らしていると、葵さんはくすくすと笑いながら僕の肩を叩いた。


「杜嗣さん、着きましたよ」


「え」


 振り向くと、彼女は道の向こう側を指さして微笑んでいた。僕たちのちょうど正面には、ごく最近塗り替えられたような真新しい横断歩道が、白色塗料に含まれたガラスビーズに光を受けてきらきらと輝いていた。

 そしてその先、坂道の南側に、一見昔ながらの漆喰で固めたように見える、二階建ての建物があった。屋上スペースには何かの植物が植えられ、冬だというのに青々と茂っているようだ。

 屋上の縁からすぐ下には、アクリル樹脂か何かの分厚いパネルを切り出した黒い文字が躍っていた。

 

 醤油坂ハイツ、と。

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