財布を落とした女性

☆落し物

※ この話はカクヨム用に新たに執筆しっぴつしたものです。


***


 俺は基本的に紙の本は買わず、電子書籍版を購入している。大学に入学してから大手通販会社の専用タブレットを買った。


 漫画を読む、読まないに関わらず、気になったものをバンバン買っていたら、メモリがすぐ一杯になってしまった。漫画は容量を食うんだなと思い知った。メモリは交換したが、別アカウントでタブレットをもう1台購入し、現在は漫画用と小説&雑誌用に分けている。


 ある日、欲しい本があったのでデパートの書店へ行った。田舎者なので俺はデパートに行くのが好きだ。


 すべての本が電子書籍になっているわけではないので、紙の本もネットで買うが、時間のある時は書店に行くようにしている。


 書店で並んでいる本を見ているだけでも楽しい。目当ての本を買った後、漫画、雑誌、新刊、文庫本など一通ひととおり見て回り、最後に洋書コーナーで気になった本を購入した。


 大型書店に行くとトイレに行きたくなるなんて話を聞いた事があるが、俺は何故なぜか焼肉が食べたくなる。紙やインクのにおいが食欲を刺激するのだろうか。書店にカフェがある事が多いが、書店に併設へいせつして焼肉店があれば、俺は絶対に行くと思う。まぁ、そんなのは超少数派だろう。


 帰宅しようとエレベーターに乗ったら、小さな子供を連れた女性が先にいた。他に乗っている人はいなかった。


 この親子れは3階でエレベーターを降りたが、ふと見ると女性用の財布が落ちていてた。急いでドアを開くボタンを押したが、既にエレベーターは下降していたので間に合わなかった。


 エレベーターで1階に着いた俺は、財布を持って近くにいた店員らしき人に声を掛けた。


「財布を拾ったのですが」


「すいません。うちはテナントなのでインフォメーションカウンターへお願いします」と言われた。


 なんだよ。それくらいやってくれてもいいのに。俺が財布を持ってウロウロしていたらうたがわれるじゃないか。それなら最初から階段を使って3階まで走ればよかった。


 ちょっと腹立たしく思ったが、建物内での落し物は法的にも施設管理者しせつかんりしゃ管轄かんかつだ。テナントさんの言う事は正しい。


 今から3階に向かうとテナントさんに疑われるかもしれない。仕方ないのでインフォメーションカウンターの場所を聞いてそこに向かった。


 受付にいた若い女性にそのむねを伝えた。


「一緒に中身を確認いただいて届け出の書類を書いていただけませんか」


 いやいや、落とした女性は、財布がなければ困るだろう。


「落とした人がまだ店内にいるかもしれないので、手続きよりも先に館内放送をかけてもらえませんか」


 ちょっと問答もんどうになったが、彼女は財布の中から個人情報の分かるものを見つけ、館内放送をかけるように別の人に頼んでいた。


「ピンポンパンポン 本日はご来店いただきまして誠にありがとうございます。ご来店中のお客様にご案内申し上げます。○○からお越しの○○様、○○からお越しの○○様、お伝えしたい事がございますので恐れ入りますが、1階、インフォメーションカウンターまでお越しくださいませ。(繰り返し)本日はご来店いただき誠にありがとうございます。 ピンポンパンポン」


 呼び出しの終わった女性係員さんは「さあ、手続きをしましょう」と言わんばかりに俺の方を見た。


 面倒はごめんだ。「じゃあ、これで」と俺は帰ろうとした。


「あ、お客様、お待ち下さい」


 彼女は俺を引きめようとする。若いから新人さんかな。「財布が届けられた時の対応 その1」というマニュアルがきっとあるに違いない。


 正直、俺はこの場を早く立ち去りたかった。拾った女性と鉢合はちわせしてお礼を言われるのはれくさいし本意ほんいではない。また、女性も財布の中身を男に見られるのは嫌だろう。


 俺は、自分で印刷した個人名刺(バージョン2)を渡して


「何か問題があれば連絡ください。それじゃあ」


 シュタッと右手を上げて立ち去った。遠くで「お客さまぁー」という声が聞こえたような気がしたが、きっと気のせいだろう。


 ちなみに個人名刺(バージョン2)には、名前とスマホの電話番号しか書いてない。名前は偽名ぎめいだ。日本で一番多い姓で、名は一郎。電話番号は2台目スマホの方だ。どんな時にバージョン2を使うかは、内緒ないしょである。


 家に帰ってから、ちょっと気になったので落し物について調べてみた。法律は知っているが、実際にお店側がどう運用しているのか知りたかった。


 道で財布を拾っだ場合は警察に届ける。お店で拾った時は、お店の人(施設占有者しせつせんゆうしゃ)に届ける。お店の人は警察に届けるが、落とし主が現れなかった場合、3か月後に拾った人がもらえる。俺のように(勝手に)放棄ほうきした場合は、お店に貰える権利が発生する。


 ネットによると、商業施設は、お客との後々のトラブルをけるため、最初から権利を放棄するらしい。お店の人がお客から落し物を受け取った時に使う、用紙のひな型やその写真がネットにっていた。探せばあるものだ。


 ひかえ(表紙)、拾った人用、落とし主の受け取り用、提出用の4枚複写で、お店の人は提出用を持って警察へ届け出に行くそうだ。落とし主用には、拾った人の個人情報が写らないように工夫されている。


 その用紙には、拾った物の詳細しょうさい、拾った人の住所、氏名、電話番号を書く項目があり、下の方にチェックらんが2つあった。


□ 落とし物の所有者に、あなた(拾われた方)の連絡先を教えてもよい


□ 拾得物しゅうとくぶつ(落し物)の権利を放棄ほうきする


 1つ目のチェックは個人情報からみ。勝手に教えるとトラブルになるんだろうな。サービス業は大変だ。


 2つ目のチェックは、法的に必要な物だ。こういうのも後から「放棄した、してない」で問題になりやすい。「チェックがないと放棄しない」という書式は、うまいやり方だと思った。最高裁判所裁判官国民審査の用紙と同じだ。


 お店はこういうので運用しているのかとみょうに感心した。いい勉強になった。


 インフォメーションのお姉さんは、俺にこれを書いてほしかったんだろう。なんか悪い事をしたかな。


 そんな事を考えていると、スマホに着信があった。


「もしもし」


「突然のお電話、申し訳ありません。私、デパートで財布を落とした○○と申します。拾っていただいた○○一番多い姓さんでしょうか」


「はい、そうです」


「今日は本当にありがとうございました。財布がなければ、買い物が出来ない所でした。インフォメーションカウンターで無理を言って連絡先を教えていただきました」


「お手元に届いたようで何よりです。申し訳ありませんが外出中で、ちょっと立て込んでおりまして」


「あ、お忙しい所に申し訳ございません。本当にありがとうございました」


「いえいえ、それでは失礼いたします」


 立て込んでないが、話す事もないので早々に会話を切り上げた。それにしてもインフォメーションスタッフのお姉さん、個人情報をらしちゃダメだろ。


***


 数日後、財布を落とした女性から、再び電話があった。


「先日は、ありがとうございました」


「いえ。お礼でしたら先日、電話でしていただきました。もしかして、財布の中身で何か足りない物がありましたか」


 俺は、お金が足りないという言いがかりを警戒けいかいした。先日、読んだ詐欺さぎの手口108選という本にそれに似たケースが書いてあった。こんな事なら、あの時、インフォメーションのお姉さんと一緒に中身を確認しておけばよかった。


「いえいえ、財布の中身はすべてありました。助かりました」


 では何の用だ。俺の中で警戒度が上がった。


「実は、主人にこの事を話しましたら、拾った方にお礼をしなさいと言われました。財布には10万円くらい現金がありましたので、その1割はお礼としてお渡ししたいと思っております」


 言っている事は辻褄つじつまが合う。確かに報労金ほうろうきん(拾った事へのお礼)として俺は最大10%を要求できる。しかし、ネットの体験談などを見る限り、報労金を請求した、貰ったという話はなく、むしろ、請求されて困惑したと話があったくらいだ。これは危険だな。


「自分としては当たり前のことをしただけです。電話でお礼を言っていただきましたからそれ以上は必要ありません。申し訳ありませんが、これから出かけるので、これで失礼いたします」


 俺は自分から電話を切った。君子危くんしあやうきに近寄らずだ。


***


 さすがにもう連絡はしてこないだろうと思っていたら、2日後に、3回目の電話があった。こうなったら、ちょっとしたホラーっぽい。財布を拾ったら何度も電話がかかってくるという都市伝説を作れそうだ。


 電話に出るのも躊躇ためらわれたが、2度とかけてこないよう、きつく言ってやろうと思った。


「先日はありがとうございました。何度もお電話して申し訳ありません」


「お礼はいらないと言いましたよね。まだ、何の用があるんですか?」


 さすがにちょっと腹が立ったので塩対応だ。


「実はですね、あの後、主人と話し合いまして、前回のお電話でいきなりお金の話をした事で、そちら様に不快な思いをさせてしまったのではないかと反省しました、今回は、そのおびの電話です。申し訳ございませんでした」


「もう終わった事ですから、気にしてませんよ」


「それで、私もお金では失礼ですので、もしよろしければ、お礼に食事でもいかがかと思いましてご連絡差し上げました」


 おそらく、食事に行ったらろくな事にならないだろう。この女性が独身だったら俺は鼻の下を伸ばして、ホイホイ行ったかもしれない。でもお子さんを見ているからな。旦那さんがいると電話でも言っているし。よし、怒ってでも電話を切ってやろう。


 そう思ったが、突然、アイデアがひらめいた。


「すいません、ヤカンでお湯をかしておりまして、火が心配なんです。折り返しお電話してもよろしいですか」


 うちは電磁調理器だから火は使わない。


「お料理中でしたか。タイミングが悪くて申し訳ありません。それでは一旦いったん切りますね」


 これって、食事に行ったらマルチの勧誘かんゆうとか、高額商品や高い教材を売りつけられるパターンだよな。そういう詐欺さぎっぽいの手口を俺は実際に見てみたいと思った。


 その上で、こちらは準備万端ばんたん整えて、もし、犯罪行為が認められるなら、証拠を押さえて、警察に告発こくはつしてやろうと思った。


 よし、なんかワクワクしてきた。電話をかけ直そう。


中座ちゅうざしてまして、申し訳ありませんでした」


「いえいえ、こちらこそ、お料理中にすいません」


「それでですね、こうして何度もお電話いただいて、其方様そちらさまの申し出をお断りするのも心苦しいので、よろしければ、食事のお誘いをお受けしたいと考えております」


「それは、うれしいです。ありがとうございます」


「ただ、私は明日から2週間の出張に行くので、食事のお約束は、その後になってしまいますがよろしいてしょうか」


「もちろん、かまいません。ちょっとカレンダーを見てみます」


 よし、特にうたがわれてないようだ。


「それでは、○月○日の夜とか、いかがでしょうか」


「わかりました。お店は○○さんの方で決めていただけるのですか」


「はい。いいお店を探しておきます。予約が取れたら、お仕事の邪魔にならないように、時間と場所をショートメールをお送りします」


「わかりました。お願いします」


「それでは、2週間後を楽しみにしています」


 出張など、そもそもうそだ。俺はこれから2週間で、しっかり準備を整えることにした。


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