第8話   柔軟剤

 ☆

 お揃いのお弁当の入った弁当箱を鞄に入れて、お茶も水筒に入れてきた。


 まるで高校生時代に戻ったようだ。弁当は高校の3年間だけ、持っていっていた。


 母が毎朝、朝食のおかずをそのまま入れた、簡単な弁当だった。


 仕事が忙しい母の愚痴の一つだった。


 食堂のある学校を選ぶべきだったと、何度も聞いた。それでも、その高校に入れと言ったのは、母だから母は3年間だけ弁当を作ってくれた。仕事の繁盛記はコンビニでおにぎりを買って過ごした。


 母子家庭で人気作画家の母の弁当を食べたがった者は多かったが、わたしは母が作った物は、誰にもあげなかった。貴重な時間を割いて、作ってくれる弁当には、たくさんの愛情がこもっていることを知っていたから。


 今朝、大地君が作ってくれた弁当にも、大地君の愛情が込められている。弁当箱の形が違うから、パッと見て、同じ物だとは分からないだろうけれど、食べるときは気をつけようと思った。


 大地君と同居しているのは内緒だからだ。


 今日も満員電車の中で、大地君はわたしを端に寄せて、潰されないように守ってくれる。


「ありがとう」


 小さな声でお礼を言うと、大地君はニッと笑う。


 目的駅に到着すると、人が流れるように出て行く。


 この駅の周りは大きな会社が集まっている。


 地下鉄も在来線もあるから、人は分散されているのだろうけれど、毎日の通勤は大変だ。


 会社までは、徒歩で10分くらいだ。走れば、もうちょっと早くなるかもしれないが、わたしは歩いて行く。


 今日はお弁当を持っているからか、歩くのも楽しい。


 早く、お昼にならないかな?



 ☆

 お昼休み、殆どの社員は社員食堂に向かう。わたしも今まで社員食堂を使っていたが、今日からはお弁当だ。


 フロアーにはお弁当組が、結構いた。


 大地君の机の周りには、女の子たちが集まりわいわいしている。


「大地君のお弁当、美味しそうね?自分で作っているんでしょう?」


「そうだよ」


「一つ交換しない?」


「しない」


「なんで?私も手作りよ」


「俺の弁当はカロリー計算して作っているんだ。悪いね」


 そうなの?


 わたしはお弁当を開けて、首を傾けた。


 カロリー計算って、何カロリーだろう?


 今夜、聞いてみよう。


 綺麗な卵焼きが美味しそう。レタスの上には生姜焼きのお肉が入っている。ポテトサラダにトマト。確かに健康的だ。2段目のお弁当には、半分にご飯が詰められ、ゆかりがかけてある。小食のわたし用なのだろ。ご飯の横には、オレンジが切って並んでいる。


 わたしは嬉しくて、お弁当を食べ始めた。


「よう!弁当を作るようになったのか?」


「村上先輩!」


「俺も弁当組なんだ。河村には弁当は作ってやらなかったのに、蒼井は料理できたんだな?」


「・・・・・・え?」


「手作り弁当も作ってくれない奴だって、いつも愚痴っていたからな」


「もう終わったことです」


「そうだな、すまない。蒼井が弁当なんて珍しく似合わない物を食べてるからさ、邪魔したな」


 村上先輩も弁当なのか、自分のデスクに着いて弁当を広げだした。


 一人かと思ったら、隣の席の新入社員の女の子、遠藤有紀が一緒に弁当を広げていた。


 仲がいいんだ、この二人。知らなかった。


 わたしは目をそらして、その弁当の中を覗こうとはしなかった。


 やはり料理ができない奴だと愚痴られていたのか・・・・・・。


 この歳で料理ができないなんて致命的なのだろう。


 仕事の事がなくても、きっとフラれていたのだろう。仕事のことは、一つのきっかけだったのかもしれない。


 料理の練習をしよう・・・・・・。


 大地君の弁当は、とても美味しかった。デザートのオレンジが、口をさっぱりさせてくれる。


 弁当箱を片付けて、水筒のお茶を飲む。冷たくて美味しい。


 歯磨きとメイク直しをするために、ポーチを持って歩いて行く。


「蒼井さんもお弁当組ですか?良かったら、明日からご一緒しますか?」


 大地君の取り巻きが声をかけてきた。


「お邪魔したら悪いから」


「あら、蒼井さんと岩瀬君、なんだか同じにおいしない?」


「柔軟剤の香りじゃないかしら?」


「たまたま偶然、同じ柔軟剤なんだろう?」


 大地君が、言葉の出ないわたし代わって、当たり障りのない返答をした。


「どこのメーカーのどんな香りですか?」


「覚えてねえよ」


「蒼井さんは?」


「安かった物を買ったから、覚えてないわ」


「蒼井さんなら値段なんか考えずに、好きな香りを選ぶと思っていたのに、バーゲン品を買ったりするんですか?」


 今までは、好きな香りで買っていたけれど・・・・・・。


 他人のわたしの評価は、どんな贅沢な生活をしていると思われているのだろう?


「蒼井さんって、いつも綺麗だし、洋服もセンス良くって、素敵な恋人がいるんだと思っていたんですけど、どんな彼氏ですか?」


「彼氏はいないわ。それでは」


 わたしは頭を下げると、急いでトイレに逃げ込んだ。


 ここも時間になると混み出す。


 先に歯磨きと化粧直しをして、個室に入る。


「蒼井さん、河村さんとお付き合いをしているって、ずっと噂になっているのを知らないのかしら?」


「いないなんて言ったって、みんな知ってるわよね」


「美人だからって、図々しいのよ」


「誘ってみたけど、本気でお弁当を一緒に食べるつもりなんてないわよ」


「若瀬君に毒牙を向けられたら大変ですもの」


「若瀬君は、私達が守るわ」


 話していた二人が個室に入ったので、わたしは急いで個室から出て、トイレから走って逃げた。


 わたしって、悪女だと思われているの?


 武史と付き合っていたことも、みんな知っているのね・・・・・・。


 大地君は知っていたのかしら?


 午後からの仕事は集中できずに、ミスが続いた。


「蒼井君、計算ミスだ。今日はどこか悪いのか?こんな単純なミスをしたまま提出するな」


「すみません」


 部長に叱られて、デスクに戻ってもわたしをフォローしてくれる人はいない。


 柔軟剤、別の物に替えた方がいいのかな?


 でも、洗濯を2回することになって、水道代がかかってくるよね。


 大地君なら無駄だって言うよね?


 どうしよう。


 その日、わたしは仕事が終わらなくて、新人指導の後に残って午後からの資料作りをした。できあがったのは、終電間際だった。


 静かに家に入っていったら、居間に大地君がいた。


「こんな時間まで何してたんだよ?」


「仕事が終わらなくて、新人指導の後に残って片付けてきたの」


「1班は誰も手伝ってくれないのかよ?」


「河村先輩から、わたしが仕事を奪ったって思われているの。河村先輩が見捨てたわたしを、手伝ってくれる人はいないわ」


 わたしは鞄を置きに部屋に向かう。


「ご飯、温めて置くからすぐに来いよ」


「ありがとう」


 わたしは鞄を置くと、上着を脱いでスーツのまま洗面所で手を洗い、うがいをするとテーブルの上に載っているご飯を食べた。


「片付けておくから先に寝ていていいよ」


「柔軟剤のこと、気にするな。今まで通りでいいからな。間違っても二度も洗濯するなよ」


「うん」


 そう言うと、大地君は部屋に行った。


 食事を終えると、部屋に置いた鞄から弁当箱と水筒を持ってきて、食器と一緒に洗った。


 シャワーを浴びて、洗濯をしたら3時だった。


 心が重くて、その晩は眠れなかった。

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