第7話
歳三が八郎と町へ向かった数刻前、総司は夜明け前に起きだしていた。近藤に頼まれた所用を済ませるためだが、もちろんこんなに朝早く出る必要はない。
この若者、何故か食が細く、特に朝餉は鳥の餌ほどしか口にしない。それを
口にする側は日替わりでも、言われる方はたまったものではない。どうせ食べる気にならないなら、朝餉を作るより前に出てしまえば良いと、こんな時分に部屋を出てきた訳だ。
「ん~、いい天気だ」
外へ出て知らずに詰めていた息を吐くと、心なしかいつもより気分が良い。ちゃっかり懐に饅頭を忍ばせており、甘いものに目がない総司のとっておきの非常食だ。あえて文句を言うなら、熱いお茶を飲みたかったくらいなものだ。
ひとつ伸びをして、裏門から外へ出てすぐ、視界の端に妙な黒い塊が映りこんだ。おもむろに足を止め、ゆっくりと振り返ったその先に、屋敷の木塀を背に、座り込んで舟をこぐ見知らぬ男がいた。
「……は?」
徐々に東の空が白み始めているとは言え、来訪者にしてはいささか早すぎる。さらに男は上から下まで黒ずくめで、無精ひげに薄汚れた
総司は眉をひそめて、男に控えめに声をかけた。
「──…もし、うちに何か御用ですか」
これで用がないなら、ただの不審者なのだが、それにしてはあまりの緊張感のなさに、総司の警戒心は若干薄れてきていた。
「……ん」
身じろぎするも、目を開けない男の肩を軽くゆすってみた。すると唐突に男は目を開けた。
「……え。…あ、えっ?」
「うちに、何か御用ですか」
同じ質問を繰り返した総司を、二度三度瞬きをして見てから、慌てて立ち上がった。
「あっ、えーっと、…その、用…? そう、そうだっ。あの、こ、近藤…? そう、近藤殿は、そのご在宅で…?」
ようやく頭が覚醒したのか、言葉を探しながらしどろもどろに説明する男に、総司は目を細めて言った。
「はい、居りますよ。でも、さすがにちょっと早すぎるかと。皆、まだ寝ています」
最後に空を仰ぎ見ながらそう返すと、男は慌てて頭を下げた。
「あ、ああっ、もちろん、そうでござった。……その、申し訳ない」
くすりと笑うと総司は屋敷の方を見やって答えた。
「お急ぎでしたら、私が戻ってつなぎをつけて来ますが、……それにしても、しばらくお待ち頂かないといけないかと」
いまだ静まり返っている屋敷は、下男がようやく起きだした頃だろう。近藤も朝は早い方だが、さすがにまだ寝所から出てきているとは思えない。
そう申し出る総司に男は慌てて両手を振った。
「いやいやっ、
襟元をぐっと正して、折り目正しく礼をした男は、一寸前とはずいぶん印象が違って見えた。それを「目が覚めた」のだと判断した総司は、軽く頭を下げて男をその場で見送った。
茶屋がこんな時分から開いているとは思わないが、こちらとて、得体のしれない男にこんなところに座り込まれていては、おちおち出かけられない。そこは暗黙の了解である。
もう一度屋敷の方を振り返り、遠ざかる男の背中を見つめて、小さく息を吐いて口の中だけでつぶやいた。
「さすがに、あれは関係ない…よな?」
そうごちると、男とは反対方向へと足を踏み出した途端、足を止めた。
「あ。名前聞くの、忘れてた」
そうして男の去った方を振り返ったが、そこにはすでに誰も居なかった。小さく息を吐くと、今度こそ前へ足を踏み出した。
「ま、いいか」
段々と明るくなる空を背に、総司は早々に饅頭を取り出してかぶりついた。
「うん、美味いなぁ」
朝の静けさの中に青年のつぶやきだけが響いていた。
昼を過ぎてから戻った総司は、その足で近藤へ報告をすませ、冷えた昼餉を軽く腹に収めると、稽古着に着替えて道場へ向かった。
道場入口で一礼した総司は、軽く肩を回して壁に立てかけてある竹刀を手に、ぐるりと道場を見回した。
開け放った木戸の向こう、縁側に足を投げ出して座るのは左之助と、その隣に斎藤も居る。道場の奥では一際大きな声を上げて竹刀を振る新八の姿が見えた。
「おう、総司。今からか?」
「ええ、遅くなりました。左之さん、あとで手合わせお願いしていいですか」
「はぁ? 俺かぁ? 新八かこいつに頼めよ」
「俺はとうぶん総司とやりたくない」
即答する斎藤に苦笑して、
「言われてんなぁ、お前何したんだよ」
そう言いつつも、総司の稽古が厳しい事は、試衛館に籍を置くものならだれもが知っている。己に厳しい彼は、他者にもそれを要求するてらいがある。
型の稽古だろうと、体力作りだろうと容赦ない。それだけの実力を誇る彼だからまかり通るのだが、そもそも彼ほどの剣豪の相手が務まる人物は限られている。
必然的に、新八か斎藤、もしくは歳三がその役を担うことになる。今、他人事のように笑っている左之助は、
ただ、斎藤や新八の域に達していないだけで、つまりは体のいい逃げ口実である。そうは言いつつ、総司になんだかんだと押し切られるのが常だったのだが、この日はいつもと違っていた。
「──…あれ、土方さんは?」
道場を見回していた総司が首を傾げた。
「ん~? あぁ、出かけてったぜ。なんか文が届いてよー」
「…文?」
「ありゃ、付け文には見えなかったなぁ。……お? そういや、八郎さんも見えねえな?」
「…………」
顎に手をやり、しばし考え込んだ総司は、ふいに顔をあげて左之助に向き合った。
「今日、近藤さんに男が訪ねてきましたよね? 黒ずくめの」
「男? いや、今日は誰も来てねえぞ? なぁ」
「ああ、そうだな」
庭へ降りてすでに練習を再開していた斎藤も、耳は傾けていたらしく、小さく頷いてみせた。それを見た総司は、くるりと二人に背を向けた。
「? おい、総司、どうした」
「用を思い出しました」
「は? ちょ、総司っ、おい、待てって」
左之助が慌てて腰を上げて一礼して道場を出ていく総司の後を追う。その背にのんきな声がかぶさってきた。
「おーい、どしたー? もう上がりか?」
「わり、急用ができた。あとは頼む、新八」
「お、おう。……なんだ、ありゃ」
残された斎藤と新八が一様に首をひねっていたが、すぐにいつもの稽古に戻っていった。
「おい、ちょっ、待てって!」
大部屋手前でようやく追いついた左之助は、総司の肩をつかんだ。一瞬足を止めた総司は、その手をすげなく払い、部屋の中へすたすたと入っていく。
「こら、総司。ちゃんと説明しろ。じゃねえと、行かさねえぞ」
足を止めた総司の後ろで仁王立ちし、声をすごませる左之助に、帯をほどいていた手を止めると、総司が振り返った。
「嫌な予感がします」
「予感?」
「何か僕の知らないところで、何かが動いている」
「──…土方さんの例の襲撃か」
「…そういや、左之さんも知ってたんでしたっけ。というか、僕もわからない。ただ、何かおかしい」
そう言うと総司は稽古着を脱ぎながら、今朝塀の所で出会った男の話を、手短に話して聞かせた。話しながら脱いだ稽古着を軽くたたんで置くと、さらに
「怪しいな、そいつ…。とにかく、土方さんを追うんだな。あてはあるのか?」
「…例の店、だと思うんですけど、くそっ。どこの店か聞いておけば良かった」
「店…? 馴染みの女のか?」
あっという間に
「あんたらは、店といえば吉原しか出てこないのか」
「違うのか? だったらどこだよ」
「………」
歳三の性格からして、大刀の顛末までも語っているとは思えず、総司は口をつぐんだ。無理やり目線を左之助から削ぐと、手早く外出着に袖を通していく。慌てて左之助も自身の着物を平積みされた中から引っ張り出す。
「とにかく俺も行くぞ」
「好きにしてください」
最後の帯をしゅっと締めると、総司は愛刀を手に部屋を出ていく。それに慌てたのは左之助だ。未だ袴の紐が長く垂れている。
「ちょ、待ってくれ、総司!」
「うるさいな、行きますよ」
羽織を肩に引っ掛けて、紐を手で押さえた左之助がドタドタと後を追ってきた丁度その時、表玄関から誰かの声が聞こえてきた。
『──もし、どなたかいらっしゃいませんか』
二人で足をとめて耳を澄ますが、今日に限って誰も応対に出ていく様子がない。思わず舌打ちしそうになった二人は、次に続いた言葉に息をのんだ。
『──…土方歳三殿は、ご在宅でしょうか──』
その名前に顔を見合わせた二人は、同時に
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