第2話

 吉原大門を出て南へ足を向けて、鼻歌混じりに歩いていく。しばらくしてふいに声が途切れる。慣れない酒を呑んだとはいえ、人の気配に気づかぬほど、腑抜けではない。それが不穏なものとくれば、なおのことである。


 歳三は、しばらく気付かぬふりをしてそのまま歩いていたが、おもむろに立ち止まり、まっすぐ闇を見据えて言った。



「誰だ。姿を見せろ」


 辺りは田んぼしかない。月明かり以外は手元の提灯だけだ。足元は見えても、一寸先は薄闇が広がっている。こちらの声掛けに素直に従ったのかどうか、前方右手から数人、姿を見せた。



(二人、いや、三人…。右と左は…出てこねえか)



 じっと見えぬまま相手を見極めようと目を凝らし、歳三はぎょっとした。



(……って、おいおい。こりゃどういうこった)


 闇から出てきた男達は、揃いもそろって顔を黒布で覆っていた。顔どころか、全身黒ずくめである。人相どころの騒ぎではない。



「…俺が誰と、知っての待ち伏せか」


 あえて名乗らず、顔見えぬ相手に問う。密かに周囲に目を配り、抜け道を探すが、ふいに後ろに新たな気配が現れ、退路を断たれた。



「土方、歳三殿とお見受けいたす」

「ははっ、違いねえ」


 いよいよ、腹をくくるしかない。だが、今日はまずい。とにかくまずい。思わず柄に手を伸ばしたが、その軽さに泣きたくなる。


 今日酒を口にしたのは、久しぶりの吉原で、女からのふるまい酒だ。ほとんど呑まない歳三は、自分から進んで酒を口にしない。廓の高い酒など、まず頼まない。そもそも、酔いなどとうに醒めているが…。


 歳三はあだ名の通り、まるで金がないのだ。いよいよツケが貯まり、さすがの歳三もバツが悪く、しばらく控えていたくらいだ。


 そこへ押し付けられたとはいえ、よりにもよって吉原へ来る羽目になり、気持ちばかりの軍資金を持たされたが、それでツケが払える訳もない。第一それでツケを払うのは他人のふんどしで相撲を取るようなものだ。


 自力で店を一軒一軒尋ね歩いていたが、あまりの不毛さに考えを改めた。そこで歳三は一旦吉原を出て、手近な質屋で愛刀を預け、その金でツケの一部を払い、女に会いに来たという次第である。


 折しも明日は試衛館の大先生、周斎老人が楽しみにしている講釈がある。その後、老人の話に付き合って、小遣いをせしめる算段で、思い切って質入れしたのだが…。



(捕らぬ狸のなんとやら…か)


 とにかく、まともにやりあう訳にはいかない。竹光など抜けば、江戸中の笑い者だ。かといって、脇差し一本でどうにかなる気もしない。何より格好がつかない。



(まぁ、格好つけてる場合じゃねえか)


 内心の焦りを微塵も出さず、ふてぶてしい態度のまま歳三が応える。



「で、夜更けにこんな所で、何の用だ」

「できれば事を荒立てたくない。──…何も言わず、花魁と手を切ってくれまいか」


 提灯を持つ手を変え、まだ見えぬ敵を数えていた歳三の眉がぴくりとあがった。

 


「花魁?」


 てっきり、剣術試合の逆恨みかと思いきや、まさかの艶事である。


「おいおい、ちょっと待ってくれ。花魁ってぇと、まゆずみのことか? 天下の吉原の花魁捕まえて、てめえ以外客を取るな、とか言い出すんじゃないよな?」

「無理は承知だ。──だが、ただの客…というには、貴殿は特別扱いされておるようだが」


 放り出す寸前の提灯を、再度握り直し、改めて声の主を見る。提灯の灯りでは、黒頭巾の奥の顔まではよく見えないが、身なりは悪くない。どこかの藩士なのは間違いないだろう。


「上客である、さる〝お方〟が、花魁がそなたを特別扱いするのを、面白く思っておらぬ。……ここはひとつ、そちらから身を引いてはくれまいか」

「断る」


 その場の空気が一気に張り詰めた。逃げ道を探していた歳三だが、一見、丁寧な申し出のようなその内容に、反吐が出そうだった。こちらはツケもろくに払わない客だが、筋の通らない道理に従う義理はない。



「どこのお偉いさんだか知らねえが、吉原には吉原の流儀ってもんがあるんだよ。一度決めた女以外のケツ拝もうもんなら、それこそ女どもに折檻されちまわぁ。そんなのも知らねえたぁ、お前んとこの〝お方様〟こそ、田舎もんじゃねえのか」

「なっ、なんと無礼な!」


「はっ、無礼なのはどっちだってんだ。てめえだけのもんにしたけりゃ、さっさと身受けでもなんでもして、囲っちまえばいいんだよ。それを暗がりでコソコソ待ち伏せたぁ…、どこの腑抜けだってんだっ!」


「き…さまっ、下手に出ちょればいい気になっちゅうろ…!」


 先ほどまで話をしていた隣の男が、怒りもあらわにして、ついに鯉口を切った。



(今のは、国訛くになまりか?)


 考えるよりも身体が自然と動く。激昂した相手が、抜刀して間合いを詰めてきたのだ。姿の見えない左のやぶから、別の声があがる。



「──待て、早まるな!」

「あ? どっちがいい気になってんだ。ちくしょう、ついてねえなっ」


 歳三は言うが早いか、提灯を素早く投げ捨てると、馴染んだ柄を一気に抜き放った。先に相手が抜くのを待っていた。



「うわっ!?」


 炎をあげる提灯を投げつけられて、ほんの一瞬相手がひるんだ声を上げる。



「っと、これじゃねえっ」


 軽すぎる刀を慌てて鞘に戻し、隣の脇差しをすらりと抜いた。少々心もとないが、背に腹は代えられない。投げた提灯に気をとられたか、竹光には気付かれていない。


 地に落ちた提灯が燃え尽きるのと同時に月が雲にかかり、薄闇から真っ暗闇へと切り替わった。


 大人数で囲った割に、最初に鯉口を切った男以外は、反応が遅かった。歳三は、迷うことなく脇差しを短く持って一気に間合いを詰め、胴を一文字にはらった。



「ぎゃっ!」


 一人もんどり打って倒れた。すぐさま、左を撫でるように斬った。短く持ったのは尺の違いを気取られぬ内に、懐に入り込むため。つばぜり合うほど近付けば、刀の長さは気にならなくなる。


 瞬く間に二人倒れた。正面のもう一人は、刀こそ構えているが、実践の経験がないのか、わずかに光を返す白刃が震えているのが見えた。



(いける)


 相手が誰であろうと、刀を抜いた以上、後には戻れない。奇襲が効くのは最初の一手だけ。あいにく、月を隠した雲は薄い。ちらと見上げた空は、すでに月が顔を出し始めていた。



(やるしかない)


 少しだけ軽い刀を握り直し、四方に神経をとがらせる。退路を探っていた視界の端に、わずかに閃く白刃を捕らえた。



───キン!


 素早く体勢を変え、顔の正面で凶刃をしのいだ。頬に風圧を感じるほどの近さだ。



「あっぶね!」


 前髪が数本、顔を滑っていくのがわかった。寸でで受け止めた刀を大きく弾き返す。即座に横に飛ぶと、歳三が居た場所を別の刀が空を切り裂いた。



「おのれ、ちょこまかと!」

「あいにく、てめえらにくれてやる安っぽい命は持ち合わせてねえんでなっ」


 軽口は己を落ち着かせるための虚勢である。こめかみがチリチリする。命のやり取りをすると感じるが、終われば綺麗に消えている痛みだ。



「たぁ!」

「っ!」


 詰めていた息を吐いた瞬間、新たな刃の気配に後ろへ飛んだ。だが、わずかに刀が腕を掠めた。その血が垂れるより早く、斬りこんできた男の無防備な脇腹を鋭く衝いた。



「ぎゃあ!!」


 噴き出た温かい血が頬に掛かるが、そのまま相手の胴を押して刀を引き抜く。鈍い音をたてて声もなく相手が闇に突っ伏した。


 斬られた腕に痛みはない。おそらく興奮状態で痛みを感じないだけだ。しかし歳三にそんなことを考える余裕はない。



(あと何人)


 ようやく闇に目が慣れてきた。あちらは最初からある程度見えているのだろう。刀を抜く仕草も、構える姿もぶれがない。


 すでに息が上がってきたが、あちらはバラバラと走り寄る足音が聞こえる。




(絶体絶命じゃねえか、こりゃ)


 その状況に、歳三は知らぬ間に笑みを浮かべていた。これを武者震いというのかもしれないが、自覚はない。


 いよいよ月が雲から顔を出した。くっきり浮かび上がった黒い影を、息を整えながら数えていたその時、黒影の向こうに揺れる提灯の灯りが見えた。まだ遠いが、複数の人の気配がする。



「──おい、いかんちや、気付かれたが」

「退け、退け!」


 あっという間に、周囲から気配が消えた。奴等は獣の目を持っているのか、地に転がしたはずの輩まで、きっちり伴って闇へ消えた。そこに残っているのは、血の痕と燃え尽きた提灯だけである。



(手際、良すぎだろっ)


 にわかに人の声が近付いて来る。さっきより近くで悲鳴が上がった。騒ぎに気付いた村人が血の痕でも見たのか、歳三も顔を見られると面倒なことになるのは必至である。



「ちっ」


 歳三は刀を仕舞うと、藪に飛び込んだ。足には自信がある。一里、二里くらいなら余裕で走り抜けられる。走る速度を緩めないまま、藪の中を突き進み、思わず笑みが浮かんだ。




(どうにかなった)


 人を斬ったが、表沙汰にはならないだろう。撤収の手際や風体といい、明らかにあちらの方がおおっぴらにしたくないはずだ。


 完全に人の気配が消え去り、徐々に走る速度を落としていく。息を整えながら、小走りから早歩きにした。藪から出て、街道をゆっくり歩いた。




「勝っちゃんに知れたら、どやされるな」


 金策のあてはないが、二度と刀は質に出すまいと心に誓う、歳三であった。



◇  ◇  ◇



「どこの誰ですか、いったい」

「知らねえよ」

「んもう、抜けてるなぁ。それくらい、聞いてくださいよ。どこの誰べえかわからないと、探しようがないじゃないですか」

「聞いたところで、素直に答えるか」



 朝日の差し込む縁側で寝転がり、眉を吊り上げる総司を見上げた。まだ随分と若いが、これでも試衛館の師範代である。二十七になる歳三の兄弟子にあたる。


 普段憎まれ口を叩き、尊敬する近藤の悪友を見るような態度だが、根っこの所は慕ってくれている…と思いたい所だ。出来の悪い兄、程度だとしてもである。


 朝稽古の後、顔を洗ったのか前髪から水が垂れている。総司は少々潔癖な所があり、意気揚々と吉原へ向かう歳三を、あまり良く思っていないのは知っている。だからこそ、今回の件は特に総司には言うつもりはなかった。


 それが歳三の腕の刀傷を目ざとく見つけて、問い詰められた。寝起きだったのもあり、昨夜の襲撃事件をぽろりと漏らしてしまった。すぐに他言無用の約束をさせたが、少々心もとない。



「何か身元に繋がるような、手掛かりはないんですか」


 しつこく食い下がる総司は、真剣そのものだ。竹光だったのを差し引いても、絶体絶命の状況だったのには変わりない。歳三も身体を起こし、改めて記憶を辿ってみた。



「相手は黒ずくめ、顔もだ。何にも見えやしねえ。…ただ、なまりで喋る奴がいたな」

「訛り? 地方の出ってことですか?」

「んー、多分な。まあこの時勢、江戸に居んのは殆ど地方の出だけどな」

「どんな訛り?」

「忘れた」

「あなた、馬鹿ですか、馬鹿でしょう、ええ馬鹿ですよね? なにせ、竹光をぶら下げているくらいですもんね」

「げっ、なんで知ってんだ」

「わかりますよっ! あぁ、もう! 本当にそんなので斬り合いとか、信じられないっ!」


 ついに怒りだした総司は、歳三の隣に転がって四肢をばたつかせた。子どもじみたそれを歳三は苦笑して見ていた。



(こりゃぁ、勝っちゃんにばれるのも、時間の問題だな)


 無意識の内に腰へ手が行く。柄に手の平を乗せ、軽く握る。相変わらず重みを感じないそれに、やはり苦笑しか出ない。



(義兄さんにでも、金借りるか…?)


 ぼんやりと地元の名士でもある義兄の顔を思い浮かべるが、すぐに姉さんの怒った顔も一緒に出て来て、軽く頭を振って、総司と並んで寝転んだ。頭の下に手を置き、雲の浮かぶ青空を見上げる。



「あ~あ、どっかに金、落ちてねえかなー」

「…………馬鹿に付ける薬なし、ですね」

「そんな薬があったら、こっちが売りに行く」

「確かに」


 寝転んだまま、二人で顔を見合わせて、声を出して笑った。命のやり取りをした次の朝、のん気に笑っている。馬鹿らしいが、おかげで生きている実感がした。


 死ぬつもりは毛頭ない。ならば、誰が相手だろうと勝つしかない。


 心が決まれば、自然と現実を受け入れる心構えもできた。気付けば腹の底から活力が沸いてくる。歳三は何を成すべきか、考えた。答えは即座に出た。



「とにかく、質だ」

「そうでしょうね」

「金、だな」

「僕、持ってませんよ?」


 器用に片眉あげる総司に、また笑いがこみ上げてくる。


「阿呆、お前なんざ、端っからあてにするか」


 朝陽の差し込む縁側で、しばらく二人の明るい笑い声が響いていた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る