第30話 藤堂真奈美は風邪をひく
そろそろ梅雨も明ける7月の下旬。
その日はうだるような暑さであり、スーツ姿の会社員を太陽が容赦なく照らしていた。
「なんか今日、寒くありません?」
藤堂真奈美は出社して来た隣の席の井上隼人に挨拶をして、ついでに世間話を始めた。
「いや、寒くないよ? 今日、むちゃくちゃ暑いじゃん! 天気予報のお姉さんも言ってたよ、真夏日になるかもって。それにしても、お姉さんのスカートが短くてさ。今日は朝からラッキーだったよ」
「井上先輩は下半身に脳が付いているんですね。忘れていたわ」
「世間話の延長線じゃない。別にね、僕だって女の子を誰彼構わずいやらしい目で見てる訳じゃないんだよ? 何か、誤解があるような気がするな」
「誤解ではないので、ご心配なく。あ、支店長! すみません、新規の契約についてご相談があるんですけど!」
剛力が出社して来たので、真奈美は席を立った。
始業前にも関わらず仕事熱心な彼女に井上は感心した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
昼休みになって、壮馬と日菜が営業チームのデスクへとやって来た。
「藤堂先輩! 井上先輩! これ、よろしかったらどうぞ!!」
「わた、わたしと沖田くんで作ったんです」
それは金平糖であった。
作るのにかなりの日数を費やす和菓子界のベテラン選手。
つまり、2人は2週間近くの時間をかけて、沖田和菓子店で仕事帰りに作業をしていたのだ。
「へぇー! やるなぁ、壮馬くん! もう恋人同士みたいじゃないか! ずっと二人きりだったんだろう? おっ! 美味しい!!」
「あ、いえいえ! 莉乃さんも一緒でした! 小岩井さんの妹さんです!」
「ほほう。さらにやるなぁ! 美人姉妹と一緒に仕事終わりの時間を過ごすなんて! この贅沢者めー!」
「ははっ! でも、確かに日菜さんも莉乃さんも可愛いので、楽しい時間でした! 親父が俺以上に喜んでしまって大変でしたけど!」
「あー。お父さん、ご病気されてたんだったよね。良かったねー。お元気になられて。じゃあ、早いとこ孫の顔を見せてあげなくちゃ! ね! 小岩井さん!」
「ふぎゅっ!? ま、ままま、孫!! 無理です! わたし、5人までしか育てられる自信がありません!!」
日菜のコミュ症に「あははっ」と笑う壮馬と井上。
だが、井上は「おや?」と違和感を覚えた。
いつもなら「尊さが溢れ出して、これはもうナイアガラの滝よ!」とか言って来る真奈美が、今日はいやに静かなのだ。
日菜の手から金平糖を貰っているのも自分だけだと気付いた井上。
視線を真奈美に移すと。
「……うう。昼一番で電話して。それから。ええと」
何やら、視線がうつろな後輩がそこにはいた。
「真奈美さん? ちょっと失礼!」
「ひゃあっ!? なにするのよ、この変態!!」
「おぶぁあっ!!」
真奈美の平手打ちが炸裂した。
これはいきなり首筋に触れた井上に非があるだろう。
だが、彼の言い分も聞いてやって欲しい。
「真奈美さん。熱があるよね? もしかして、風邪引いてない? と言うか、引いてるね?」
「別に、平気です。ちょっと朝から寒気がして、関節が痛くて頭がボーっとするくらいですから。ご心配なく」
「いやいや! それ完全に風邪の症状じゃない!」
「井上先輩! 俺、鞄に体温計が入ってるんですけど、持ってきますね!」
「おおっ! さすが壮馬くん! いつもながら手回しの良さは流石だね! じゃあ、お願い! 小岩井さんは給湯室でお水汲んできてくれる?」
「ふみゅ! 分かりました!!」
井上の指示は的確でいて、素早かった。
彼は時々忘れそうになるが、杉林支店の営業部のエース。
人を見る目は真奈美以上のものを持っている。
壮馬が持って来た体温計で真奈美に熱を測らせる。
すぐにピピッと電子音が鳴った。
「うわっ。38.2℃もあるじゃない!! ダメだよ、無理して出社したら!」
「へ、平気です! だって、今日はこの後、大事な取引先との打ち合わせが……!!」
井上は「うん。なるほど」と納得して、後輩たちにさらなる指示を飛ばした。
「壮馬くん! 支店長に電話して! 小岩井さん! タクシー呼んでくれる?」
「分かりました! お待ちください!!」
「うみゅ! で、電話します!!」
支店長はすぐに捕まった。
近くの牛丼屋でお昼を過ごしていたため、残った牛丼を30秒でかきこんで会社に戻って来る。
「おい、藤堂! マジかお前! 体調悪い時は無理すんな!! これ、とりあえず薬局で風邪薬と解熱剤と熱さまシート買って来たぞ! それから、inゼリーな! 食欲ないかもしれないけど、腹に何か入れとかないと!! 待ってろ! 今、リラックマのブランケット持って来てやる!!」
剛力剛志の気配り力は、数値化すると常人の20倍を余裕で超えるほどのレベルである。
「藤堂先輩が具合悪そうです!」と壮馬から通報を受けた彼は、自分にできる全ての行動を瞬時に行った。
「よしよし! やっぱり支店長に電話したらだいたい整ったね! 小岩井さん、タクシーは?」
「も、もう向かってると思います!」
「じゃあ、真奈美さん。今日はもう帰って」
「いや、井上先輩。話聞いてました? 今日は取引先と……」
「ああ、それ? ごめん。勝手に資料読んじゃった。僕が行くから、心配ナッシング!」
「は、はぁ!? そんな、先方に失礼ですよ!!」
井上は「支店長! 出番ですよ!」と、給湯室で白湯を湯呑に注いでいた会社の最高権力者を再び召喚する。
「おう! タクシーが来てるのか! さすが井上、手回しが良いな! よし、藤堂! 帰れ! そんで、3日くらい出社してくんな!! 小岩井! お前も今日は帰っていいや! 藤堂の家について行ってやって、看病してくれるか? これ、マスクな! 移されないように気を付けてくれ!!」
「そんな! 私の抜けた穴はどうするんですか!?」
「藤堂。お前は優秀な営業だが、まだ若いな。時には人を頼る事も覚えろ」
剛力が指さした先には、凄まじいスピードで資料を読み込む井上隼人の姿があった。
「へっ? 井上先輩?」
「うん。だいたい頭の中に入った! 一応確認するけど、真奈美さん。3日間のアポはこれで全部だよね? 6件! この程度なら、僕でも対応できるよ!」
そう言って笑顔を見せる井上。
時を同じくして、タクシーが到着した。
剛力支店長のパワープレイでタクシーに押し込まれた真奈美。
隣には彼女の荷物を抱えた日菜がちょこんと座っていた。
こうして、藤堂真奈美は早退する事と相成った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
タクシーの車内では、日菜が真奈美に話しかけていた。
「井上先輩、頼りになりますね。普段はむしろ頼りないのに」
真奈美は頭に熱さまシートを貼り付けながら、ぶっきらぼうに答えた。
「ホント、あの男は要注意なのよ。女が弱ったところに付け込んで来るんだから。すごく卑怯だわ……。まったく、本当に」
「ふみゅ……」
悪態をつく真奈美の横顔が、何故か嬉しそうに見えた日菜。
彼女のコミュ力では、真奈美の表情から答えを探るのは困難であった。
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