第18話 最大の偏見
「じゃあ次は、
神薙の指示で、まず環の国のメンバー、神薙と他二人が茶室に残る。
残り三人は写真を撮る柳川のそばに集まって楽しそうに談笑したり、被写体の三人にちゃちゃを入れたりしていた。しばらくすると、聖澤がとたとたとこちらへ駆け寄ってきて、背負っていた大剣を壁に立てかけて隣の椅子に座った。
「うへへー」
聖澤の口から幸せをそのまま音にしたような気味悪い声が漏れる。
「めっちゃ楽しそうだな」
「だって実際めっちゃ楽しいもん。勇気出してよかった。ありがとね」
「別に俺は機会を提供しただけで、ここに来るかどうかを決めたのはリサの意思だから」
「……リサ」
聖澤がぼそりと呟いたことで、諒太郎は自分が今、聖澤のことを【リサ】と呼んでしまったことに気がついた。
「あ、今のはちが」
「それでいいよ」
真面目な表情の聖澤がグイッと顔を近づけてくる。
「いや、むしろ私はそれがいい。だって私はリサだから、ここではリサって呼ばれたい」
諒太郎は目をキラキラと輝かせている聖澤から目を離せない。
「それになんていうかね、聖澤翼よりリサでいる方が楽だし、私だぁ! って感じがするの」
俺から顔を離したリサは、本名の方がしっくりこないっておかしいよね、と肩をゆするようにして笑った。
「全然おかしくねぇよ」
諒太郎は彼女の先程の言葉をきっぱりと否定する。昔、ウヨがやってきたみたいに、上腕二頭筋を親指と人差し指で挟むようにしてもにもに触りながら。
「そんなこと、ちっとも気にする必要なんかない。本名なんか、結局は親が自分勝手につけたもので、その本人を表す絶対的ものじゃない。ただの装飾品だ」
諒太郎は思う。
今日、俺が本名を知っているのは、神薙と聖澤だけだ。
柳川は柳川という苗字しか知らないし、他の四人に至っては、ハンドルネームしか知らない。
でも、それでなにか問題があるかと言われれば、なにもない。
ここにいるみんなは、親から勝手に押しつけられた名前じゃなく、これがいいと自分で選んだ名前で、心から愛している趣味に没頭している。
初対面の人に会ったらまず本名を名乗り合いましょうと、これまでの人生でことあるごとに教えられてきたが、そんな慣例はもう過去の遺物なのかもしれない。
本当にするべきことは、自分の大好きなものを相手に伝えることかもしれない。
「……装飾品」
自分に言い聞かせるように呟く聖澤。
「たしかにそうかもしれない。私、泰道くんに名前をリサだって決めてもらった時、体がぞわぞわってしたんだよね。新しい自分っていうか……私は今からリサなんだ! って思ったの。もちろん聖澤翼っていう名前が嫌いなわけじゃないけど、私が気づいた時にはもう聖澤翼だったっていうか。決まりごととして、しょうがないから私は聖澤翼として生きてきたし、生きるしかないんだってずっと思ってきたの」
なに言ってんのか全然わかんないや、と聖澤はぺろっと舌を出す。
「いや、なんとなくはわかったよ。そういう意味では、本名って人間に最初に与えられる、その個人の人間性を否定する最大の偏見なのかもな」
諒太郎はウヨのことを思い浮かべていた。
また上腕二頭筋をもにもにする。
ウヨは、洋平なんて名前をつけてほしくなかったんだろうなぁ。
「最大の偏見かぁ。わかんないようでわかるかも。だって私はいつも自分じゃなくて、みんなのイメージに合わせて作った聖澤翼を生きてるから」
「たしかにな」
「そこはちょっとくらい否定してよ」
不満げな目をした聖澤に脇腹をつつかれる。
「まあ、みんなのイメージに合わせたのが先だったのか、みんなが私に抱いていそうなイメージに自分を近づけようとしたのが先だったのか、もう忘れちゃったけど」
聖澤は斜め上を見上げる。その先には天井しかないが、きっと聖澤はもっともっと遠くを見つめているのだと思う。
「ただね、ひとつだけわかったことは、リサでいる間は、本当の自分でいられる気がするんだーってこと。リサっていう名前の人間は、リサ自身の意思で誕生した。変な先入観もイメージもついてない。これからの私が選ぶ行動が、リサっていう人間になるんだって思うと、背中から翼が生えた気がして。聖澤翼が本名だからなんかそれもややこしいね」
もー、やっぱりなんて言っていいのかわかんなーい! と聖澤は足をバタバタとさせた。
「でも」
そして、ゼンマイ仕掛けのおもちゃがその動きを止めるように、彼女の足裏がぴたっと床にくっつく。
「だからこそ、私が本当の自分を見せられる泰道くんや今日出会ったみんなには、リサって呼んでほしいって思うんだ」
「じゃあそれでいいじゃん。感情を全部言葉にして説明する必要はないし。人は誰だって、少なからず言葉にして説明できない本心を隠してるもんだから。今の聖澤」
「リサだって」
聖澤は即座に訂正して唇を尖らせる。
「ああ……悪い。リサ……」
近くで照明を焚いているせいで妙に熱いな。
「が、その本心を開放できてるって思うんなら、そういう生き方でいいんだよ」
「そっ……か。ありがとう。やっぱ泰道くんは泰道くんだね」
聖澤の顔の赤さはメイクによるものではないと思うが、こっちが恥ずかしくなるだけなので指摘はしない。
「あー、ひっさしぶりにほんとに楽しい休日だよぉ。学校の外には、こんなにも自分と同じものを好きな人がいるんだねぇ」
「当たり前だろ。学校がすべてだと思うな。今はSNSで簡単につながれるんだから」
「うん。すごく幸せな時代になったと思う。誰かのことを気にして、小さな箱に押し込められてるのはもったいないね」
「そういうこと」
撮影者の気が散らないように、声を潜めて笑い合う。
「あ、そうだ。泰道くんもさ、ハンドルネームつけようよ」
聖澤がそう提案した瞬間、諒太郎の心は一気に冷たくなった。
「な、なんで?」
「だって泰道くん、クラスにいる時と私の前じゃ、全然違うから」
聖澤の笑顔が歪み、心臓がどくんと跳ねた。
――なぁ、ウタ。
ウヨの声がどこからともなく聞こえてくる。
もうその名前は捨てたんだ!
「いいよ。俺は、いらない」
「どうして?」
「だから俺は別にいいんだよ」
「じゃあ私がつけていい? 泰道くんって呼ぶの、なんかもう他人行儀って言うか、長くてめんどくてさ」
その時、柳川の声が飛んできた。
「じゃあ交代でお願いしまーす。廻の国の人たち集まってー」
本当に助かった、と諒太郎は聖澤を急かす。
「ほら、呼ばれてるぞ、リサ」
「え、うそ?」
慌てて立ち上がった聖澤の背中を、諒太郎は「ほら、みんな待ってるぞ」と押した。
「ちょっと。なんて呼ぶか考え中なのに」
諒太郎に押されたことで、三歩前によろめいた聖澤だったが、「あっ!」と呟き、満足げにくるりと振り返る。
「今いいの思いついたよ! これから泰道くんはウタね。たいどうりょ『うた』ろうの、ウタ!」
結構よさげじゃない? と聖澤は自分勝手に納得して、茶室の方へ駆けていった。
「いや、ウタ……って」
そのあだ名だけは死んでも嫌だったが、展開があまりにも急すぎて、諒太郎は否定することができなかった。
どうして昔のあだ名を聖澤が知ってるんだ。
そんな諒太郎の思考の隙間を縫うようにして、とある声が聞こえてくる。
――ウタ、ウタ。
心の中から、誰かが諒太郎を呼ぶ声がする。
――なぁ、ウタ、俺さ。
もはやなにも考えられない。
この声が誰の声かなんて、そんなのもうわかり切っている。
――男が好きなんだよね。
諒太郎は試合を終えたボクサーのようにパイプ椅子にぐでんと座り、小刻みに震えている手で胸の辺りを押さえ続けた。
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