シーラカンスが眠る頃

No.2149

プロローグ 熱い時代

 川島海斗は携帯電話の待ち受け画面で今の時刻を確認し、再度折り畳んでGパンのポケットに突っ込んだ。

 午後10時過ぎ―――コンビニの駐車場から見るにつけ、未だぽつぽつと一般車両は走っている。海斗たちがこれから興じる行為を可能な限り心置きなくやるという点に関して言えば、走行車両の数は少なければ少ないほどありがたい。

 だが、それに関してはさほど問題は無いと海斗は考えていた。この程度の通行量であれば、対向車線にでもはみ出さない限り十分に避けることは可能だろう。あるいは、峠にパトカーが潜んでいるのであれば即時撤退を考える必要があるが、峠を登っていった様子は無い。携帯メールやmixiを確認しても、そういう情報は上がって来ない。

 言うなれば、お誂え向きの夜―――これから始めることを考えると、毎度のことながら海斗の気分は高ぶるのであった。


 報道番組では、数日続きの真夏日とそれに伴う影響について、声高に叫んでいた。

 しかし、とっくに日が暮れた、しかも人里離れた峠の麓ともなれば、様子は異なってくる。夏真っただ中の湿度の高い熱気はありつつも、山の上の方から吹き降ろしてくるひんやりとした風が時折の涼をもたらす。その風は、真っ黒な塊を形成している木々の葉や梢を擦れ合わせる。さらさらと乾いた音を暗闇に伝播させ、このあたり一体の支配者が自然であることを誇示しているかのようだ。

 

 気持ちを落ち着かせるため一つため息を吐いてから、海斗は緑色と白色が煌めくコンビニの明かりをぼんやりと見た。

 夏になるとどこからともなく大量発生する蛾や羽虫、甲虫の類が、自らの遺伝子に組み込まれた集光性の性に則り、光源に突っ込んでは弾き返される。大きな蛾や甲虫がぶつかると、時折バチンと大きな音が響く。

 奴らは意味も分からずただ光るものに向かって突進していく。だけど、意味も分からず突き進むという意味では俺たちもおんなじだよナ―――自らの偶感を、海斗は鼻を少し鳴らして一笑に付した。


 海斗の傍らには、彼の愛車である日産・S15型シルビアが静かに佇んでいる。車好きの間でも人気のある、コンパクトなFRスポーツである。元々運動性能の高い車両ではあるが、海斗はそれに対してさらにチューニングを重ねた。

 随分と金はかかったが、良い車になったもんだぜ―――コンビニの光をぬらりと跳ね返すシルビアを眺め、海斗は一人ほくそ笑んだ。


「お前、まだガラケーなの?」


 海斗の友人である吉田泰明が、煙草の煙をくゆらせながら気だるげに言った。高い身長、ガリガリな体型、茶髪のロン毛は等の外見的特徴は、どことなく健全さとは真反対の雰囲気を漂わせている。


「・・・悪いかよ」


 シルビアのルーフ越しに立っている泰明に向かい、海斗は口を尖らせる。

 不機嫌な友人の顔に一瞥をくれることなく、泰明は珍妙奇天烈極まりない板っ切れの画面を親指でポチポチ叩いている。


「お前もiPhoneにしとけって。これ買い替えると二時間で彼女できるらしいぞ」

「女の話はすな。それにiモードも使えないんだろ?要らん要らん」


 手をばたばたと左右に振る海斗に対し、泰明はにたりと笑った。


「へぇ、遅れてるねぇ。まぁ、それもお前のかわいいところよ」

「うるせぇな。しばくぞ」


 はいはい、わかったわかった―――そう言いながら、泰明は手のひらに収まるサイズの電子端末をいじっていた。アメリカの何とかという企業が売っているiPhoneとかいう携帯電話―――海斗にはそれくらいの意識しかなかった。泰明は新しい物が好きだった。そしてそのせいで失敗することも多い。海斗には数週間後に恥ずかしそうな顔をしてガラケーを買い戻す泰明の未来しか見えなかった。

 泰明の脇には、彼の愛車であるトヨタ・スープラが佇んでいる。「ハチマル」と通称で呼ばれるこの車も海斗のシルビアと同じく、フルアエロやアルミホイール、GTウィングなどで走り屋仕様へ変貌を遂げている。


「しかし、隆太の奴おっせぇな」


 舌打ちをして泰明はコンビニの自動扉を睨んだ。真っ白な光を溜め込んだコンビニの中に、それらしい小太りの男は確認できない。


「あぁ、そうだな。腹下してんじゃないの」

「またかよ。だから食うのもほどほどにしとけと言ってるのに」

「あいつの食う量、毎回半端無いからな」


 海斗と泰明は思わず嘆息を吐いた。

 二人はコンビニの駐車場で、もう一人の仲間である重松隆太を待っていた。隆太の車はスープラの隣にあるホンダ・インテグラタイプRである。シルビアとスープラが後輪駆動であるのに対し、インテグラは前輪駆動のスポーツ車両である。こちらも「インテR」などの略称で呼ばれる、走り屋に人気のモデルである。

 二人がイライラを募らせていると、コンビニの自動扉が開き、その隙間から隆太の小太りの体が飛び出てきた。


「ごめんごめん、お二人さん」


 隆太は肉の付いたまんまるとした顔を弛緩させ、顔の前に手を垂直にさせて上下させている。


「おせぇよ。また便所に籠ってたんか?」


 海斗は隆太を肘で小突いた。隆太の胸肉が揺れる。


「いんや、旨そうなチョコティラミスとイチゴオレがあったから、買ってきた」


 満面の笑みを浮かべて、隆太は買ってきたものを二人に掲げてみせた。何ともカロリーの高そうな品々は、隆太の小太り体型に見事によく似合っていた。


「お前まだ太る気か?折角インテRが軽いのに、ドライバーがパワーウェイトレシオ悪化させちゃあマシンが可哀そうだろうが、え?」


 泰明はインテグラに近づき、右フロントフェンダーを肘でゴンゴン小突いた。それを見た隆太は血相を変えて駆け寄り、泰明を愛車から引き剥した。


「やめろよぉ、この前板金屋で直したばっかりなんだから!」

「ここ、この前ガードレールに擦ったところか。そんな腕前で大丈夫か?」

「だ、大丈夫だよ。そこらへんは俺の腕でカバーするからさ」

「お、言ったな?それじゃあ―――」


 マイ灰皿に煙草を押し込んでから、泰明は続ける。


「いっちょ、ここから天鳳山の頂上広場まで走行会と洒落込もうぜ」


 コンビニの前にある十字路の先―――暗闇の向こう側へ勾配を増して伸びる道路を指さして、泰明は悪戯っぽく笑った。

 天鳳山は、海斗たちが住んでいる市にある山である。その山肌には、旧世代の九十九折りの道路が張り付き、険しい深山幽谷のただ中を車両が通行することを可能としている。主要都市を結ぶ道路ということもあり、昼間はそこそこの交通量があるが、夜も更けると車の往来はめっきり減ずる。

 それゆえ、走り好きな若者たちは夜闇に乗じてこの峠道に集い、それぞれの愛車でスピード走行に興じているのだ。これは言うまでもなく犯罪であり、まずもって街頭など皆無の山道を全開で走ること自体が無謀である。しかし、彼らはそこにスリルと興奮を感じ、性懲りもなくドライビングテクニックを競い合うのである。

 三人が談笑している最中にも、爆音をまき散らしながら天鳳山へと連なって突っ走っていく車を二、三台ほど、海斗の目が捉えた。白のFD3S RX-7、ワインレッドのチェイサー、黄色のEK9シビックタイプR―――どれもこの峠ではよく見る車たちだ。

 エンジンをぶん回してヒルクライムを駆け上がっていく改造車を見て、海斗はいてもたってもいられなくなった。


「悪くねぇな。ちょいとばかし、シルビアのダンパーをいじってきたんだ。テストランにはうってつけだぜ」


 それを聞いて、隆太は指を差して嘲る。


「お、流石は海斗氏。先達のコースアウトが余程悔しかったのか、マジですな」


 おどける隆太に対して、海斗の顔は明らかに曇りを増していく。


「う、うるせぇよ。あれはちょっとばかしコンディションが悪かったんだよ」


 にやにやと笑う隆太に反撃しようとしたが、海斗の中には未だ引かない後悔の念が渦巻き、隆太へ何か仕返しするための言葉を消し去った。


「俺のインテRだってこの前からパワーアップしてるんだ。いくらFFには不得意な登りだろうが、そう簡単には前は走らせねぇよ」

「いいからいいから。俺のスープラでまとめて相手してやるよ。将来プロドライバーになる男の走り、お前らに勉強させてやるよ」


 泰明は端正な顔でウィンクをし、続けざまにサムズアップをして見せた。

 また出たよ―――海斗と隆太は顔を見合わせて呆れた。

 泰明は腕はあるが、何よりかなりの自信家であった。将来は本格的なレース活動をすることを常々公言していた。だが、実際はサーキットに行っても言う程の結果を残してはいないので、海斗と隆太は彼の言葉を話半分に聞いていた。


「泰明。プロドライバーになりたいのはお前だけじゃないぜ。俺だって、将来はプロレーサーになるつもりだ」


 負けじと隆太も泰明への対抗心を露わにした。


「よし!行こうぜ。ドンケツの奴は全員分ジュース奢りな」


 パチンと手と手を叩き合わせ、海斗は自車へ乗り込んだ。続いて、残った二人も気炎を上げてめいめいの車に乗り込む。


 海斗はレカロ社製フルバケットシートに身を沈ませる。スポーツ走行用のバケットシートは、太ももと肩の辺りが張り出しており、余程のことが無い限りドライバーの着座姿勢を変化せしめることを許さない。それゆえに、後付けカッブホルダーに置いたブラックコーヒーに手を伸ばして取るのにもやや難儀した。

 真っ黒い液体をごくりと飲み干す。

 海斗はおもむろにアクセサリーからキーを回し、エンジンを始動させる。

 直列4気筒ツインターボエンジンが、地を割らんばかりの轟音を伴って覚醒する。やはり、砲弾型マフラーは排気性能が高い分どうしても近接排気音が大きくなるのは仕方がない。しかし、いくら家族や周囲から五月蠅いだの近所迷惑だのと言われようが、海斗はシルビアのエンジン音が大好きだった。このドライビングシートに座し、操る―――それだけで、脳みその表面積全てを使ってもなお足らないほどの脳汁が滲み出るような感覚を覚えた。

 二度三度、ホンダの家芸たる高回転型自然吸気エンジンが叫ぶと、スープラを挟んで向こう側に停まっていたインテグラが飛び出していく。地面のわずかなうねりや段差に合わせて小刻みに揺れる車体は、スポーツ走行用に足回りをセッティングした車両特有の動きだ。恐らく、海斗のシルビアもまた傍から見ればあのような動きをしているのだろう。

 続いて、並び順で泰明が搭乗するスープラが発進するかと思われた。

 しかし、二枚の窓を隔てた泰明は、海斗に向かって大きく前方へ手を動かしている。どうやらシルビアを先に行かせるつもりらしい。


「へっ、舐めやがって」


 爆音の中海斗は誰にも聞こえない音量で独りごちた。確かに三台の中では泰明のスープラが最も馬力が高い。真っ当にヒルクライムで戦ったらこちらが不利になるだろう。ここは泰明の舐めプとも配慮とも取れる提案を受ける。

 ショートストロークのギアをニュートラルから一速へ入れる。サイドブレーキとフットブレーキを解除し、踏み込んでいたクラッチを半分戻すと、シルビアはするすると走り出す。そこから適度にアクセルを煽り、シルビアを峠道の路傍まで走らせる。道の向こうには、今しがたやってきた紫の180SXに混じり、隆太が駆るダンデライオンイエローのインテグラが快音を伴って闇夜へと消えていくのが見えた。

 バックミラーには、泰明のスープラがウィンカーを明滅させ連なっているのが見えた。

 左右を確認し、海斗はアクセルを踏み込み、リアタイヤを滑らせながらシルビアを道路へと進ませた。アスファルトによって摩滅されるタイヤは、後輪部タイヤハウスの内側から白煙を立ち上らせる。

 ホイールスピンを続け何度かレブリミット付近で甲高い音を上げるエンジンだったが、やがてリアタイヤのグリップが回復すると、その注ぎ込める分の馬力全てを推進力へと変換する。

 海斗はバケットシートから加速力を感じつつ、回転数に合わせて幾度かシフトチェンジをする。

 スピードメーターは順調に頂点を目指して上り続ける。ダッシュボード上に増設したブリッツ製のブーストメーターが規定圧に達するたび、ターボチャージャーが吸気を圧縮する独特な音が鳴り響く。四速に入れたところで、スピードメーターの針はゆうに百キロを突破する。

 耳を壊さんばかりの爆音と強烈な加速のさなか、海斗はバックミラーを見る。そこにはシルビアの背後にピタリとくっついて離れない泰明のスープラが見える。

 二台はみるみるうちに他の車を抜き去り、隆太のインテグラに追いついた。やはり、ヒルクライムでは自然吸気エンジンよりもパワーが出るターボ車の方が有利だ。

 インテグラ、シルビア、スープラの順番のまま、三台は天鳳山の第一コーナーへと突っ込んでいく。イン側ギリギリを掠めるようなライン取りでコーナリングするインテグラに対し、海斗は必要最低限の減速を行い、後輪を軽く滑らせながらコーナーを駆け抜けていく。


「お前ら!ぜってぇ負けねぇからなぁ!」


 スキール音が響き渡る中、誰も聞こえていない車内で、海斗は叫んだ。

 三台のエンジン音、三人の熱気が、幾分かの涼を漂わせる天鳳山に暑すぎる空気をばらまいていく。


 こんな時代がいつまでも続くかと思っていた。

 この三人がいつまでも変わらないと思っていた。


 これも、今や十年前の話。

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