第三十五節

 朝靄の中、うごめく影がある。

 彼らは野原に張ったテントや木の陰で毛布にくるまっていて、数名の男たちが目を赤くして砦の方を見張っている。


「どうだ、動きはあったか」


 兵の後ろから声が掛かった。

 砦を包囲するこの叛乱軍の頭目の一人だ。彼は豊かな髭を蓄えたがっしりとした体格の男で、草刈り用の大鎌を担いでいる。

 よくよく見れば見張りに立っている男も、長い棒の先に刃物を無理やり括り付けた粗末な槍を携えていて、防具と言えば厚木の服に革の外套などといった簡素なものだった。


「動きはありません、やつら打って出る気はないですよ。どうするんですか、このまま攻め続けるんです?」

「アリー殿に援軍は乞うてある。それまでは様子を見つつ、やつらを眠らせないようにしたいな」


 アリー・アッバードが叛乱の火の手を上げてから、これまで不満をくすぶらせてきたムスリムたちは次々と決起に参加した。中には彼のように、自ら近隣住民から義勇兵を募り、砦を包囲下に置くといった卓越した動きを見せた者もいた。

 彼はアリーに砦を包囲下に置いたこと、援軍を求めることを連絡し、夜ごと夜襲の素振りを見せて砦の動揺を誘った。

 砦の物見塔では兵士が踏ん張っているが、それとて連日ではいずれ参る筈だ。

 とはいえ、自ら戦などしたことが無い兵士はいかにも不安を隠せない。


「本当に砦は落ちるんですかね」

「我々の国が欲しくないのか」

「そりゃ、欲しいですよ。この土地だって本来俺らのものだ。後から来たノルマンどもが俺らを追い立てちまったんだ……」


 その兵の認識がどこから来ているのかは解らない。

 自分たちの祖先が耕した土地だったのか、シチリアはムスリムに帰するべきだと考えているのか。だとして、それ以前に住んでいる者はどうかなど、彼には思い至るものではなかった。


 人の想像と認識が具体的に及ぶのは、祖父母の世代までだ。

 それ以上は実感と乖離した知識と伝承の世界へと足を踏み入れていく。彼らにとっては直近数世代こそが歴史だった。

 手出しもできない、それ以上に巨大な世界と時間というものにかかずらうことにどれ程の意味があるというのか。そのような事をしたところで、苗の育ちが良くなるわけでもなければ、病を避けられる訳でもない。彼らにとっての国というものは、気まぐれな空模様と何ら変わらない。

 それをこうして決起に及ぶのは、自然に立ち向かうのと同じことだ。たとえ彼ら自身にその自覚がなくとも、天与の環境に抗い、他によって左右される自らの生を取り戻す戦いに他ならなかった。


「なら、踏ん張れ。近隣からも少しずつ合流を望む者が来ている。今勢いに乗っているのは我らだ」


 頭目は見張りの背をばしんと叩いた。

 彼にすれば問題は、その援軍が来るのか、来るとしてそれがいつになるかだった。ふと馬のいなな気が聞こえる。


「何だ……?」

「南です。馬が一騎来ます」


 兵士が指さした方角から馬が駆けてきた。馬上の兵士はムスリム。おそらくは味方だろう。彼は陣営に乗り込むと辺りを見回し、頭目の所在を問う。見ればそれはアリーのもとへ送り出した兵士だった。


「おおい、こっちだ! アリー殿はなんと言っていた!」

「至急の言伝を預かってきました!」


 兵が馬首を向け駆け寄ってくる。

 その時だった。その馬蹄に重なって、地を打つ数多の響きがいずこより聞こえてきた。頭目が辺りを見回し、馬も足を止める。

 陽に透き通る朝靄の中、騎影がゆらめく。

 ぼんやりと寝ぼけまなこをこする兵が顔をあげる。その瞬間、彼はばっと血を飛び散らせてひっくり返った。


「敵襲! 敵襲だ!」


 誰かが叫び、武器を掲げた。人々の視線が一斉に注がれ、眠っていた兵士たちも何事かと目を覚ます。

 幾多の騎兵がどっと朝靄から躍り出る。

 重武装のチュートン騎士らが剣を振るって野営する彼らを蹂躙する。寝起きを襲われた叛乱軍はひとたまりもなかった。彼らは慌てて武器を手に起きあがるが、元々装備、練度共に劣る民兵が主体だ。統率も取れなくなった彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うばかりだった。


「怯むな、踏みとどまれ! 奴らは少数だ!」


 朝靄で全容を把握できぬまま、頭目はあえてそう叫んだ。

 戦場にあって兵らを叱咤激励するためには、嘘か事実かは問題ではない。彼は大声を張り上げて鎌を振るい、襲い掛かる騎士の馬の脚を薙ぎ払う。激しい衝撃と共に馬がつんのめり、騎士が振り落とされる。

 彼が起き上がるより早くその頭部を柄で打ち付け、怯んだところに兵士が一斉に襲い掛かる。


「敵将はどこだ! 顔を出せ、どこにいる!」

「王はここにいるぞ!」


 はっきりとした鋭い声に、ばっと振り返る。

 頭目は一瞬我が目を疑った。

 朝靄に葦毛の馬が颯爽と姿を現し、赤髪が蜃気楼のように揺らめき立つ。

 シチリア王フェデリコ――彼らが探し求める憎き敵の姿は、いっそ幻想的ですらあった。

 王自らが、かように無謀な姿をさらすのか。頭目は思わずたじろぎかけた己を叱咤し、全力で駆け出した。何かのはったり、そうに違いない。王を殺す、せめて敗走せしめれば、士気を盛り返せるはずであると。


「おぉぉぉぉ!」


 気勢をあげ鎌を振り上げる頭目。

 その瞬間だった。朝靄を切り裂いて完全武装の騎士が左右から現れた。二人はいずれも手槍を携え、頭目の胴めがけ投げ付ける。彼は大きく振り上げていた鎌を振り回してその一本を叩き落としたが、同時に残る一本がその腹を貫いた。

 頭目が唸り声をあげ、なおも足を止めずに突進する。

 槍を放った騎士たちはいずれも剣を抜き放って、すれ違いざま彼を切り払った。腕が断ち切られて宙を舞い、頭蓋をしたたかに打たれた頭目がどうとひっくり返る。


「ぐ、があ……!」


 うめく頭目の拳が空を掻く。

 彼の視界に馬の影が差し、フェデリコが無言で見下ろす。頭目は憎悪に満ちた瞳で彼女を見上げ、顔を歪める。


「呪われろ……ローマに染まった王め……!」

「……首を打て」


 フェデリコは答えなかった。ただそう命じて、それでも視線を逸らしはしなかった。先ほど頭目を切り捨てた二騎が駆け戻り、馬を飛び降りる。


「覚悟めされよ」


 声はアルフレードのものだった。

 常ならば共にフェデリコを護っている筈のエメスの姿はない。アルフレードが頭目の首に刃をぐっと押し込むと鮮血がほとばしり、傍らに駆け寄ってきた馬上の騎士に正面から吹きかかった。

 騎士は呻き、慌てて円筒大兜グレートヘルムのベルトを緩めた。兜の下から現れたのは、アルフレードに引き取られて数年、従騎士エクスワイアとなったばかりのトーニだ。

 けれど息苦しさに兜を脱ぎ捨てた彼が目にしたのは、首に幾度となく刃を突き立てられ、ごりごりと切り離されていく頭目の頭だった。

 彼は既に光を失った頭目の眼を覗き込んでしまい、背を丸めるように顔を背けると、込み上がってきたものを堪えきれず盛大に吐き出した。アルフレードは彼に構わず首を切り離すと、馬上のフェデリコに視線を向ける。


「やってくれ」


 彼女が小さく頷いたのを見て、敵将の首を槍の穂先に括り付ける。

 彼は真青な顔をしたトーニの背を叩き、槍を持たせた。


「背を伸ばせ! 槍を掲げろ!」


 少年は馬上に俯いたまま、胸を張る事もなく槍を掲げる。アントーニオはトーニの太ももをぐっと掴んで気を張らせつつ、大声を戦場に張り上げた。


「貴様らの将は討ち取った! 命が惜しくば降れ!」


 その号令と共に味方の騎士らは武器を一旦引き、なお歯向かう敵兵を牽制する。

 朝日に照らされた朝靄がゆっくりと薄らいでいく中、そこに現れたのは既に事切れた叛乱軍の兵士たちの遺体だった。

 その光景とフェデリコの傍らの騎士に掲げられた首を見て、叛乱軍は一人、また一人と武器を取り落していった。

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