一二一四年 黒狼 -Calu Etruschi-

第十九節

 深く暗い森を、一騎の騎兵が駆けて来た。

 彼女は黒いサーコートと分厚い篭手を身に着け、異様に長い柄の長剣を握っている。肌や髪の色もあってか全体に黒々とした暗い印象を与え、浮かびあがる黒と金環きんかんの虹彩はどこか世に異質なるものを感じさせた。

 エメスだ。その背は六年の間にずっと高くなり、赤い革紐で短く結ばれた髪は、馬上にあって風にたなびいていた。


「逃がしません……!」


 彼女の視線の先には、戦場の喧噪から遠ざかるように七騎が駆けている。

 だが中でも目を引くのはその中央を駆ける男だ。

 彼は並走する騎士たちと比べても並外れて優れた体躯を誇り、歴戦の勇士を思わせる風格を備えていた。

 前を逃げる騎士たちのうち、二人が後ろをちらりと見やり、馬首を返して集団を離脱した。

 彼らは剣を抜き、あるいは槍を手に馬の腹を蹴った。

 だが道があるとはいえ、木々が茂った森の中だ。二方向から一斉に襲い掛かるようなことはできず、エメスとは一騎ずつ切り結ぶ格好になった。

 先頭の騎士が槍を掲げ、手綱を操ってエメスへ突き掛かる。

 対するエメスは手綱を離したかと思うと、その長剣を両手で構えなおした。

 彼女の動きに敵の動きは一瞬戸惑った。

 普通、騎兵は片手で剣を扱うものだ。それを彼女が両手で構えたために、槍を突き入れる段になって思わず穂先を迷わせた。

 エメスの耳元で穂先が風を切る。


「くッ……!」


 上体を捻って槍をかわしつつ、身体全体で掛かるように刃を振るった。

 すれ違いざま、宙に広がった鮮血をその身に浴びる。

 こそがれた肉と血が、刀身にぬめりと垂れていく。

 その剣はどこか奇妙な外見の、アスタルテと呼ばれる型の剣だった。

 二百年ほど昔にエジプトで流行った型だという。全長は一一〇センチほどだろうか。肉厚で幅広の古い刀身に、四十センチ程もある柄の取り付けられた、長い尾を垂らす獣のような剣だった。

 一気に姿勢を立て直し、次なる敵をその眼に捉える。

 敵は一撃で斬り伏せられた仲間を前にして焦ったのだろうか、振るわれた剣は空に鈍い音を立てた。

 エメスの篭手がその切先を弾き、上方へと逸らす。彼女は咄嗟にアスタルテを振るうと、その柄頭を敵の頭へ叩き付けた。

 ぐらりと姿勢を崩しながらも、敵はなおも手綱をしかと掴んで話さない。


「こいつ!」


 騎士が剣を振るう。

 エメスは手綱を放したまま、両脚で馬の腹を抱えて切り結ぶ。

 一撃の重さの差か、数戟打ち合わせた末に生じた一瞬の隙を突き、その首を全力で切り払った。

 血を引く刃がしずくを払う。

 首からごぼごぼと血の泡が立ったかと思うと、騎士が馬を振り落とされた。


「オットーは……!」


 エメスは馬首を向け、自らが追う敵将――ローマ皇帝を僭称するオットーの姿を探す。

 だが彼女が振り向いた時には、逃げる彼らの姿はずっと小さくなっていた。

 このまま追っては、何より今のような手段でまた時間が稼がれては追いつけない。彼女は辺りを見回すと道を逸れ、木々の生い茂る斜面へと馬を駆け上がらせた。


 オットーと逃げる騎士たちは道沿いに馬を走らせていた。


「急ぐぞ! ザクセンからの援兵と合流する!」


 オットーが大斧を振り上げ、残された部下らを鼓舞する。

 彼が率いる神聖帝国の諸侯と同盟者からなる連合軍は、フランス王フィリップの軍勢とブーヴィーヌの地で激突して敗れた。彼に臣従するドイツ諸侯の動揺は避けようもなく、本拠地で軍を再編して自らの壮健を示さねばならなかった。

 オットーは背後をちらりと見やった後、隣の配下に問い掛ける。


「先ほどの敵兵は何者だ」

フェデリコフリードリヒが飼っていると噂の狼かと」


 近習が背後を数回確認して、オットーへ報告する。


「もう姿は見えません。振り切れそうです」

「奴は狗だな。狼と呼ぶには少々鈍いようだ」


 いかにも豪傑然としたオットーが、皮肉に口を歪ませる。

 その皮肉に広がるわずかな弛緩。部下たちが緊張を緩めた、まさにその時だった。

 どこかから、木々をへし折るざわめきが広がる。

 部下たちが周囲に視線を走らせる中、それは上空から現れた。

 木々を薙いで現れたのはエメスだった。彼女は道に連なって切り立っていた丘の上から、馬を捨てて飛び掛かったのだ。

 垂直一閃。その頭上高々と掲げられたアスタルテが、オットー目掛けて一直線に振り下ろされた。


「はああああ!」

「何者かぁ!」


 だが彼もその武勇で讃えられたオットーだ。

 彼は咄嗟に大斧を掲げると、そのアスタルテの一撃を防いだ。

 それでもエメスの繰り出した攻撃は、オットーの巨体をして落馬させるほどのものだった。小さなエメスとオットーの巨体が、もつれあって森の中に転がっていく。

 僅かな隙に上を取り、エメスがアスタルテを振り上げる。


「覚悟!」

小童こわっぱが!」


 その顎にオットーの拳がめりこみ、彼女は地面に弾き飛ばされた。

 地をもんどりうちながら起き上がるエメス。そこへ慌てて馬首を返した騎士たちが駆け付け、エメス目掛けて白刃を振るう。

 エメスは咄嗟に身構え、アスタルテを横薙ぎに払った。柄が長いだけに手の間を広くとれば、振り回す勢いは馬の脚を断ち切るほどのものがある。

 脚を断たれた馬が頭から地面へ激突していき、もろとも突っこんだ騎士もまた、受け身を取れずに首をあらぬ方向へ曲げて転がっていく。

 更に続く一騎の剣を避け、すれ違いざま、腰から抜いた短剣を馬の腹に突き入れる。腹を抉られた馬がいななき立ち上がった。


(まだっ、次!)


 エメスは振り下ろされた騎士に構わず、続く三騎目を迎え撃つ。

 その背に切りかかろうとしていた敵目掛けアスタルテを振り上げて、剣を構えた腕を断ち切った。

 悲鳴が上がり、腕もろとも空を舞った剣が地へと突き刺さる。

 エメスはそのまま視線を転じると、一息入れる事もなく駆け出して、先ほど馬から振り下ろされた騎士へ向かって高々とアスタルテを振り上げた。

 落馬の衝撃から立ち直れぬまま、ふらふらと上体を起こす騎士。

 彼女はその脳天目掛け一直線に振り下ろす。

 鈍い音。騎士の身体が力を失ってぐらりと崩れ落ちると、飛び散る血と脳漿を浴びたエメスが、ゆっくりと背を伸ばして振り返った。

 頬を拭う。血が帯を引き、金環は怪しげな輝きを浮かび上がらせる。

 視線の先、オットーは仁王立ちに構えた。

 大斧が地へ突き立てられると、地が揺れるような響きがあった。


「貴様は、確かに狼らしいな」


 鼻を鳴らし、オットーはにやりと笑う。


「このわっぱは俺がやる! おまえらは下がっておれ! 加勢するだけ邪魔だ!」


 オットーが吠えると、残された騎士たちは圧倒され、無言で後ずさっていく。

 それを受けて、アスタルテを構えたエメスもまたオットーに宣告する。


「フェデリコ様の命により、死んでいただきます!」


 その声に、オットーは眉を持ち上げた。彼は剛直な性を隠しもせず、他方で敵の武勇に対する称賛は惜しまない男だ。だがその彼にしても、エメスの存在は想像の埒外だったのか、その目元には、明らかに侮蔑の色が滲むのが見て取れた。


「貴様、女か」


 エメスは答えなかった。

 答えず、その顔をじっと睨みつける。


「僭帝オットーと見受けます」

「僭帝だと?」


 オットーが声を上げて笑った。


「笑わせてくれる! パレルモの小僧の正統性こそ怪しいものだ」

「何を言う……!」

「世の噂を知らぬとは言わせん! 本当の父親は教皇の部下とも、どこの誰かも解らぬ肉屋だとも言われておるではないか!」


 オットーの侮辱を前に、エメスは血が沸騰するのを感じた。

 元々高齢出産で、それも数年に渡って子の無かった二人の間に生まれたのがフェデリコだ。その血筋の価値とも相まって、口さがない人々はありとあらゆる中傷をフェデリコに浴びせて来た。

 その中でも最もひどいものを、エメスは何度も耳にしている。


「おおそうだ! 悪魔に犯されて産まれた子という話もあったな!」

「その言葉、取り消せえ!」


 声を荒げて叫び、全速力で駆け出した。


 アスタルテを握った腕が躍動する。

 風を切り走るアスタルテを大斧が弾き返すが、オットーは大斧を握りしめる手に微かな痺れを感じた。小さな娘が繰り出した攻撃とは思えぬほど重たい一撃だ。


「小娘が、よくやるわ!」


 その顔に野獣の哄笑が走る。

 だが彼は、力勝負ならば負ける気がしなかった。エメスがアスタルテを構え直した隙に、オットーは利き足を踏み込み、大斧を叩き付ける。

 二メートルはあろうかという大斧がまるで小枝のように軽々と振り回され、エメスを襲う。激しく金属のぶつかる音が森に響き、エメスがその総鉄製の柄や剣で攻撃を受ける度、彼女の身体は一歩、また一歩と後退していく。

 後ずさってよろめいたエメスを、ひと際強烈な一撃が襲った。

 エメスは構えたアスタルテもろとも腕を跳ね上げて防御を崩され、その瞬間、大斧の石突が彼女の脇腹をしたたかに打ち据える。


「ぐあっ!」


 鈍い音が全身に響き、エメスの顔が苦悶に歪む。

 それを見逃すオットーではない。手応えから言っても、常であれば、骨の一本や二本は砕ける一撃だ。

 彼は間髪入れず大斧を振り上げ、弾き飛ばされ構えを崩したエメスへ一直線に振り下ろしに掛かる。

 獲った――そう確信した瞬間、消えた。

 彼の斧が捉えるべき子兵の姿が、空間から消えていた。


「なんだと!?」


 あるいはオットーの、武人としての経験こそが、判断を見誤らせたのかもしれない。

 エメスはまるで動きを鈍らせることなく大きく飛びずさり、まるで獣のように四つん這いなりながら大樹の幹を踏みしめていた。

 予想だにせにその動きに、オットーの反応が一瞬遅れた。

 エメスは幹を蹴って宙に舞い、遠心力を掛けながら斜めに切り下げる。

 鈍い音が、腕に響いた。

 顔面、一直線。その額から顎にかけてぱっと鮮血が散る。


「がああああ! 貴様ァ!」


 オットーの唸り声が森に響く。

 あふれる血が顔を伝い、髭を真赤に染め上げてもなおオットーは手負いの獣の如く荒れ狂う。

 振り回される大斧を避けきれず、左腕の篭手が弾け飛ぶと共に、エメスはどうと叩き伏せられた。

 腕から取り落したアスタルテが地を穿つ。

(……まだ動けるなんて!)

 転がりながら咄嗟に手をついて姿勢を立て直すと、左腕に激痛が走った。あらぬ方向に折れ曲がった左腕を一瞥して、エメスはそれでも戦意をみなぎらせ、腰からスティレット針短剣を取り出す。

 斧が空を切った瞬間、彼女は右腕だけでそれを構え、全身で地を蹴った。


「おぉぉぉぉっ!」


 気を吐き、オットーの懐へ飛び込む。

 その針のような短剣をオットーの野太い首へと突き入れる。切先は脳天を刺し貫き、下顎と首の付け根からはどぼりと血があふれる。

 野獣の唸り声が身体全体から響いてくる。

 オットーの太い腕がエメスの身体を打ち据え、頭蓋を割らんばかりに殴りつけた。

 視界が暗転するほどの衝撃。

 口に鉄錆た味が広がる。それでもエメスは足を支え、我が身に構わず、突き入れたスティレットに力を込めて二度、三度と突き上げる。

 あふれ出た血が滝となって流れ落ち、エメスは頭上からそれを浴びた。黒いエメスの姿が、真赤な血に染め上げられる。それでもエメスはスティレットから力を抜かず、執拗に、上へ、上へと突き上げ続けた。

 やがて、がらんと地に落ちる大斧が、オットーの命が尽きた事を告げる。

 自分より二回りも大きなその巨体が覆いかぶさるようにして倒れ込んできて、彼女もまた支えきれずに地に倒れた。


「はあっ、はあっ……」


 エメスは肩を震わせながらオットーの巨体を押しのける。

 ごろんと転がる死体から這い出して、空を見上げた。木々の合間から見える空には、夏の強烈な日差しが輝いている。夏空の眩しさに緊張感が途切れ、どっと押し寄せた疲れに全身の力が抜けていく。



 直後、響く馬蹄の音。

 エメスは瞬時に緊張を取り戻し、慌てて身を起こす。

 先ほどオットーに下がらされた敵がまだ残っていることを、彼女は完全に失念していた。


「しまっ……!」


 彼らは主の仇に対して激しい怒りと憎悪を燃やし、それぞれ武器を手に一丸となって突進してくる。

 アスタルテは遠くに転がっていて、短剣ももうない。

 彼女はオットーの遺体からスティレットを引き抜き、ふらつく身体で身構えた。

 その時だ。蹄の音に混じって響く声があった。


「伏せなさい!」


 女の凛とした声。

 咄嗟に伏せるエメス。頭上に白刃がきらめいた。

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