一一九四年 灰と雛鳥 -Phoenix-

第五節

 一一九四年、フェデリコとエメスが出会うより十二年前。

 ここに、イエージと呼ばれる街がある。イタリア中南部スポレート公領に属する、アドリア海に面した小さな街だ。

 数名の騎士を先頭に立てた一隊が、足早に町の広場へと列を連ねた。その中ほどに位置する、一目で貴人のそれと知れる馬車が車輪を止めた。

 街の者が慌てて駆け寄り、街一番の館へと案内を申し出る。

 だが馬車から顔を見せた厳つい侍女はその申し出を礼もなしに断ると、声高に天幕を張れと命じた。妙な命令にうろたえていると繰り返し命が発せられ、彼らは騎士らに急かされるがまま、理由も解らずに天幕を建てさせられた。

 街の中央広場に高々とそびえたつ天幕。続けてベッドが運び込まれるとぐるりと幕布が取り囲み、数名の侍医や侍女が駆け寄ってくる。

 やがて馬車より、両肩を支えられながら一人の女性が姿を現した。

 額には脂汗が浮かび、その腹は大きく膨らんでいる。産気づいたその女性は、歳のほどは四十歳に差し掛かる頃だろうか。それが確かであればかなりの高齢出産であった。

 街の住民たちが唖然と見つめる只中を通り過ぎ、女性はベッドへと横たえられる。先ほどの侍女が立ち上がると、彼女は見物人たちをじろりと睨みまわした。だが非礼を詫びようとする彼らに投げ掛けられた言葉は、耳を疑うような命令であった。


「街中の人々を広場に集めなさい! 早く!」


 椅子を並べ、街中の人々を座らせよ、最前列には貴婦人らの席を設えること――ぽかんと呆気に取られる彼らを、侍女は大声でどやしつける。

 我に返った人々が大声を上げて人を呼びに行くのを見送って、侍女は貴人の手を強く握りしめた。苦しげに呻く貴人が、気丈な笑みを浮かべて頷く。


 その貴人は、名をアルタヴィッラのコスタンツァといった。イタリア半島南部を領するシチリア王国の支配者たるアルタヴィッラ家の王女であり、かつローマ帝国皇帝ハインリヒ六世の妃でもあった。

 すなわち、今この胎内から生まれようとする幼子は、男子であればローマ皇帝とシチリア王国の双冠を戴き、ドイツからイタリアを貫く巨大国家の正統なる継承権を有しうるのである。

 その出生の如何によっては国際秩序が一変しかねず、関係する国内外の王侯貴族全ては敵味方の別を問わず強い関心を抱かざるをえない。ましてや彼女はこれが四十歳での初産だ。その妊娠に寄せられた疑義だけも枚挙にいとまがなく、ならばこそこの出産には一点の疑義も差し挟ませてはならなかった。

 コスタンツァは剛毅な女性だった。彼女は身重にも拘わらず諸侯を巡って自らの身をもって妊娠の確かなるを示した。

 彼女が産気づいたのは、その道中のこと。

 事ここに至って、彼女は衆人環視での出産を決意したのである。


「無茶をなさいます」


 にこりともせぬ侍女の言葉に、コスタンツァはその手を握り返す。


「覚悟の上です」


 出産そのものが死と隣り合わせの時代だ。その身を押しての諸侯行脚だけでも、既に十分すぎるほどの負担が掛かっている。それでも、コスタンツァにはまるで怖気づくところが無かった。

 護衛の騎士らが広場に集った人々を誘導していく。それより数時間、広場にはコスタンツァのいきむ声が響き続けた。やがてひと際大きな悲鳴があがり、ぴたりと止む。不穏な空気に群衆らが顔を見合わせたその時、彼らの小気を引き裂いて、哮る猛禽にも似た産声があがった。

 生まれた。巨大な帝国の後継者赤子が。

 侍医の傍ら、赤子を受け取った侍女が、その身体を麻生で拭う。


 女児だ。


 女児だった――侍女はとっさにコスタンツァへ目配せするが、彼女は数時間に及ぶ奮闘の末にぐったりとベッドに身を委ねている。冷や汗交じりの侍医が、緊張の面持ちで侍女の顔を覗き込む。侍女は頷くと、赤子の身体を強く白布で包む。

 騎士らがどよめく群衆らを制する中、立ち上がって堂々と辺りを見回す。

 皆の視線が一斉に注がれる。

 彼女は赤子を天高々と掲げると、力のあらん限りに叫んだ。


「王子様がお生まれになりました!」


 群衆の方々から神の名を讃える言葉や讃美歌が投げ掛けられる。広場が祝福に沸き立つ中、泣き声をあげる赤子は、ただひとり包み布を払いのけようと身を捩り、必死にもがいた。

 彼女――フェデリコはそうして生をうけた。それは折しも、キリスト降誕祭翌日のことだった。




「あの人の命ですか」


 その言葉は怒気を孕みながらも、決して叱責の色を帯びてはいなかった。ただ烈として確かな威厳があった。

 コスタンツァは街の館にその身を移していた。今なおその身はベッドにあるが、その腕の中には先ほど生まれたばかりの赤子を抱いている。

 同じ部屋にはあの侍女と侍医、他に数名の付き人らが並んでいたが、侍医が青い顔で俯いたままでいるのを見て、侍女が一歩進み出た。


「いかな処罰も受ける覚悟にございます」


 どっしりとした体格の彼女は胸を張り、その眼をぎょろりとコスタンツァへ向けた。続けての下問に、侍女はよどみなく答えていく。全てはコスタンツァの夫にしてローマ皇帝ハインリヒの計略であった。

 シチリア王国は王位継承権を巡って内乱状態にあった。数年前に先代シチリア国王が亡くなった際、彼には子も兄弟も無く、新たな王位は唯一の嫡出であるコスタンツァが王位継承者として挙げられた。

 だが彼女はローマ皇帝ハインリヒに嫁いでいるため、事実上、皇帝ハインリヒがシチリア王国の新たな支配者として君臨する形になる。

 ローマ帝国によるシチリア王国吸収を厭んだ重心らが策動し、更にはドイツとイタリアの合邦を望まないローマ教皇の後援を得て、先々代国王の孫にあたる庶子レッチェ泊タンクレディを王位に就けた。コスタンツァにとっては十五歳年上の甥にあたる男だった。

 彼はイングランド王“獅子心王ライオンハーテッド”リチャードや東ローマ帝国と同盟するなどしてハインリヒに対抗し、自身の戦巧者ぶりもあってハインリヒはこれに手を焼いていた。

 タンクレディ派の大義名分は、よそ者の皇帝とその妻である王女に対する非難に拠っており、一方でタンクレディ自身も自らは庶子である弱みを抱えていた。そのために、ハインリヒとコスタンツァの間から産まれる子には、相手の大義名分を失わせる正統性が期待できた。

 もっとも、それも赤子が男児であればのこと。


「あの人らしい計略ですこと」


 コスタンツァは毒づき、我が夫の顔を思い浮かべた。

 ドイツの北より飛来した、蛇の怪物リントヴルムを想起させる冷たい瞳。鉄錆た真赤な口が開き、そこから滴った言葉がこの侍従らを縛り付けたのだ。

 産まれた子が壮健なる男子ならば良し。女児ならば性を偽り、忌子ならば秘かに弑して取り換えよ。いずれ内乱を鎮めるまでの数年用いられればそれで構わぬ――

 侍女の口から語られた、我が子を我が子とも思わぬその物言いに、コスタンツァは背筋が凍るより、怒りに熱くなるのを感じた。

 数年用いられれば良い?

 ならば数年の後、そのを、我が夫はどうしようというのか。死んだことにして修道院にでも入れるのか。それともあるいは――その先を想像して、コスタンツァはかぶりを振った。


 だがそれがハインリヒだ。げに恐ろしき我が夫だ。

 見やれば、コスタンツァに受け答えている侍女を除けば、他の者たちはみな顔面蒼白となって震えている。このような秘密に関わった者の末路について、恐れぬ筈がない。ましてや命令者はあのハインリヒなのだから。

 コスタンツァは皆の労をねぎらうと、その侍女を一人残して全員下がらせた。


「チェチーリア、こちらへ」


 無愛想な侍女が頷き顔を寄せる。


「皆に路銀と通行手形を与え、夜陰に紛れて下がるよう言いなさい」


 コスタンツァはそれから、気心の知れた騎士を一人護衛につけてやり、昵懇にしているビザンツ商人の名を挙げてその行き先を差配した。

 しかと頷くチェチーリア。

 退出する侍女らと入れ替わりに聖職者らが部屋を訪ねる。出迎えるコスタンツァに、イエージの司教は王子の生誕を祝福し、当面の慶事については諸事万端任せてくれるよう請け負い、たいへんな上機嫌で帰っていった。続けて街の有力者や商人、更には急ぎ駆け付けた近隣の村長。新たなる王子の誕生を祝福に訪れる、寄せては返す人々の波。

 だが多くの人々が彼女の許を訪れても、その男子たる証については些かも言及されなかった。

 元々、疑義を差し挟ませぬためとして王妃がこんな公開出産までしたのだ。高らかと王子の誕生を宣言されて、人々は拍子抜けするほどにそれを信じてしまった。

 あの群衆の中に赤子の男子たる証を見た者は誰一人としていない筈だが、その事に気付く者はいなかった。

 自分はよく見えなかったが、――情報が伝聞と記憶によって構成される時代のこと。一度そうなれば、現実そのものが書き換えられてしまう。

 数ヵ月もすれば赤子の性別について語らう者が現れ、数年の後には産まれた王子を衆目に晒して証を立てたと物語られ、やがては貴婦人らがコスタンツァの股を直接に覗き込むさまが描かれて、もはや疑う者はいなくなっているだろう。


(呆気ないものだわ……)


 コスタンツァは呆れると共に、急に馬鹿馬鹿しくなってきた。

 ハインリヒと婚姻してから九年、ようやく妊娠した時にはあれほど世間から疑いの目を向けられたにも関わらず、結局誰もちゃんと赤子を見はしないのだ。

 思えば、王子の生誕を祝いながらも、来訪した男たちの誰一人として赤子の顔を覗き込むことすらしなかった。

 人々が関心を寄せているのは赤子が皇統と王位の継承者たる否か、そこに付与される属性の如何であって、その赤子がどのような存在で、どのように笑い、どのように泣き、これからどのような生を歩むのかではないのだ。

 やがて来訪者の波がひと段落して、チェチーリアが姿を現した。彼女は手際よく赤子のおしめを変え、包み布を締め直す。

 暇乞いを前にした最後の世話。

 コスタンツァはそう受け止めた。けれども夜が更けようと、彼女はその場を離れないでいる。


「……行かないのですか」


 その問い掛けに、チェチーリアは黙って首を振る。

 彼女はゆりかごを揺らしながら、ただじっと赤子の顔を見つめていた。彼女がよだれに濡れた口元を拭うと、赤子はまどろみの中に身をよじらせる。その様子を眺めて、コスタンツァは思わず笑みをこぼした。


「あなただけですね。そうしてくれるのは」


 何の話かと怪訝そうな顔をするチェチーリアに、コスタンツァは手を振って気にせぬよう促す。

 数年用いられればそれで構わぬ――ハインリヒが発したという命を、ひとり胸裏に呟いた。数年。内乱を鎮めるに要されるその後には、洗礼さえまだ済まぬこの子はその全てを失うことになる。やがてこれから与えられる仮の名に至るまで、その全てを、存在そのものを奪われる。

 コスタンツァは窓の外を眺めた。夜空は戸板に隠され、星運は杳として知れない。だが今その姿を認めることはできずとも、戸板の隙間からは月明かりが漏れている。覆い隠されようとそれは確かに存在している。

 隠された星々のきらめきを思い描くうち、コスタンツァはゆっくりと眠りに落ちていった。

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