2.ファリスの日常

 ペラリ、ペラリ。


 紙をめくる音と何者かの小さな息遣いだけが響く室内は、備え付けられた窓からの日光のみを光源としていてやや薄暗い。部屋には本棚が並んでおり、所狭しと本が収納されている。


 唯一本棚以外の物、本を読むためのスペースなのか、申し訳程度に小さな椅子と机が設置されており、そこに息遣いの主は座っていた。年の頃は5歳程のまだ幼い少年だ。頭の黒髪は少し毛なのか、所々はねている。やや長めに切り揃えられたそれは、容貌も相まって少年を少女のようにも見せた。


 そして、何より特徴的なのが頭部を飾る2本の角だった。髪と同色のそれは、円を描いて側頭部を覆うように曲がっている。それは魔人という種族の特徴と一致していた。


 そんな魔人種と思しき少年の目の前には、その幼い見た目には似つかわしくない分厚い書物。なかほどまで読み進められたそれを見るに、先ほどからの紙のめくれる音の正体はどうやらこれらしい。


 端から見れば、本当に内容を理解して読んでいるのかも疑わしい光景だが、その瞳は確かに羅列された文字を追っていた。


 それからもしばらくの間、少年は目の前の本を熱心に読み進めていたが、流石に疲れてきたのか、一度顔を上げて大きく伸びをした。また読書に戻ろうと次のページに手をかけたところで、はたと何かに気付いたように窓から日の位置を確認する。


「しまった」


 少年がそうつぶやいたのと、部屋の扉が乱暴に開かれたのはほぼ同時だった。


「ファリス! やっぱりまだここにいた!」


 開け放たれた扉から現れたのは幼い少女だった。少年よりも大きく、7歳前後といったところだろうか、まっすぐ整えられたプラチナブロンドの髪は肩口で切りそろえられている。また、少年と同じく両側頭部を角が飾っている。


 名をシスカといい、少年の姉である彼女は、そのまま怒り心頭といった様子で少年——ファリスのもとへ歩み寄ってくる。


「きょうはお父さまに剣を見てもらうって言ったじゃない!」


「ご、ごめんなさい!」


 ずい、と詰め寄ってくる彼女に慄きながら、思わず体をのけぞらせる。


「まったく、ファリスがいないと打ち合いができないじゃない」


「うちあい……?」


 ファリスの記憶がおかしくなったのでなければ、打ち合いではなく、現状体格で勝るシスカがファリスをボコボコにするだけである。外見だけ見れば大変愛らしい姿をしている彼女だが、同年代の他の女の子が綺麗な花であったり服であったりに関心を寄せるのに対し、そういったものにはほとんど興味を示さない。


 彼女は、騎士である父に憧れ、父のように剣を振ることにこそ熱中していた。日々覚えた剣技をもって弟をタコ殴りにする彼女はさながら、剣に取りつかれた哀しきバーサークモンスターといったところか。すこぶる一緒に行きたくない。


「なによ」


「いえ……」


 とはいえ、相手をせずに癇癪を起されるのはもっと恐ろしいので、黙って従うのが吉である。遊びでの誘いはともかく、父との訓練に関してはシスカは厳しい。ファリスは5年の付き合いでそれを学習していた。


 そう、5年だ。ファリスが魔人として生を受けて既に5年の歳月が経った。魔人種の赤子としての肉体に、純人種としての自我と知識を持って生まれた彼は、さりとて自分が何者であったかの記憶は無く、あらゆる意味でちぐはぐな存在であった。自分という存在が何なのか懊悩する日々を送ったこともある。今だって全く思い悩まないわけではない。しかし、同時にある程度は割り切ることも出来ている。


 今はとにかく知識をつけることだ。もしかすれば、そのうちに自分が何者なのかを突き止めるヒントが見つかるかもしれない。あの夢のことも——。


 故に今日もファリスは本のページに手をかけ続ける。


「ちょっと! なにまた本読もうとしてるのよ! 行くわよ!」


「あぁっ……」


 ことは叶わずシスカに引きずられていくのだった。



「ん、来たか」


 シスカに引っ張られるまま辿り着いた庭では、二人の父であるローガンが剣を素振りしていた。型に沿って動くその様は、単なる素振りというよりは、一種の演武のようであり、実際に儀礼用の剣舞か何かなのかもしれない。そんな父を見てシスカは目を輝かせている。


「聞いてお父さま! ファリスったらやっぱりまだ本を読んでいたの!」


「ファリスは本当に本が好きだな」


 そう言って笑う父に対して、シスカは先程と打って変わって不満げな顔だ。


「でもずーっと本ばっかり読んでたらよくないわ! もっと剣ふるとか!」


「なんだ、構ってもらえなくて拗ねてるのか?」


「!? お父さま!!」


 怒るシスカを宥めるローガンは、傍で黙りこくるファリスに声をかける。


「悪いなファリス。あんまり乗り気ではないかもしれないが今日も付き合ってくれ」


「い、いえ、約束していたことですし……。おくれてごめんなさい」


 その言葉に「構わない」と言うローガンの表情には僅かな苦笑が滲んでいた。なんとなくバツが悪くなって顔を逸らすと、その先にはいつの間に回り込んだのか、こちらを覗き込むシスカと目が合った。


「うげ」


「うげ!? うげって何!?」


「い、いえ……」


 いけない、思わず声が。なおも喚きたてる姉から逃げるように、ファリスは近くに立てかけてあった木剣を手に取る。ファリス達に身長に合わせて造られ、軽い素材に柔らかい布を巻き付けたそれは、子ども同士で打ち合ったとしても、そうそう怪我はしないだろう。


「さて、早速始めようか」


 自らも練習用の木剣に持ち替えたローガンのその言葉に、シスカも口を閉じて木剣を手に取る。


「まずはいつも通り、好きに打ち込んで来い。どっちが先だ?」


「わたしから!」


 言うや否や、シスカがローガンに襲い掛かり、木剣を振り下ろす。その齢としては幾分鋭過ぎる一撃は、ローガンの持つ木剣によってしっかりと受け止められる。


「おっと。こらこら、ファリスはまだ何も言ってないぞ」


「あ、いえ、ぼくは……」


「いーの! どうせファリスはいつもあとでいいって言うもの!」


 話しながらでも、間髪入れずに次々と打ち込まれるシスカの木剣を受け止め続けるローガン。


「よし、もういいぞ。次はファリスだ」


 十数合程打ち込まれた頃に、ローガンが声をかけ、ファリスがシスカと入れ替わって、木剣を振る。シスカと比べれば勢いのない、しかし年相応とも言える一撃だ。こちらも、もちろんローガンに受け止められ、シスカと同様に十数合程打ったところで終了した。


「ふむ、二人とも前よりもいいな。ただシスカはもう少し脇を締めてコンパクトに打ち込んだ方がいい。ファリスはまだ足元の動きがぎこちないから、今日はそのあたりを中心に見ていこうか」


「はい!」


「……はい」


 対照的なふたりの返事が中庭に響くのだった。



「今日はこの辺にしておくか」

 

 日が頂点から少しだけ傾き始めた昼過ぎ、丁度空腹を感じ始めた頃にローガンから声がかかった。ファリスが息を切らして汗を拭うのに対し、シスカは至って涼し気な表情だ。


「ファリス、もうつかれちゃったの?」


「はぁっ……はぁっ……」


 もう、というがかれこれ二時間はぶっ続けでやっている。そのうち半分ほどはシスカの猛攻をしのぐ時間だったのだから、ファリスからすれば堪ったものではない。あれだけ剣を振り回し続けて、息一つ切らしていないシスカがおかしいだけだ。


 そもそも、ファリスはあまり剣術が得意ではない。何とも言い難いのだが、とにかく体に馴染まない感じがするのだ。


「やっぱりファリスはもっと運動したほうがいいわ!」


「…………」


 シスカの物言いに、憮然とした表情で黙り込むファリス。もともと口数が少ない方だが、肉体的にも精神的にも疲弊した今は、尚更何も言いたくない。


「ちょっとー! 何か言いなさいよー!」


「わ、わ、やめてください……!」


「ははは、やっているうちに体力も付くさ。昼食にしよう。ヘレナが待ちくたびれてしまう」


「あら、もう待ちくたびれちゃったわよ」


「む、ヘレナ」


 中庭に現れた新たな声にローガンは振り返った。ヘレナと呼ばれたその女性は、ローガンの妻であり、ファリス達にとっての母親だ。


「わざわざ呼びに来てくれたのか。待たせてすまない、もう行くところだったんだが……」


「うふふ、冗談よ。気になって様子を見に来ただけ」


「お母さま、今日のせいかを見てください! ね、ファリス」


「うぇ」


 シスカはヘレナに木剣を掲げて見せると、ファリスに向き直る。まだやるというのか。知らずファリスは顔を引きつらせて小さな呻き声を上げる。


「今日も頑張ったのね、シスカ。でもごめんなさい、お母さんお腹すいちゃったわ。先にご飯にしましょう?」


「うー、お母さまがそういうなら……」


 そう言ってシスカを昼食に促したヘレナは、ファリスに視線をやって微笑みかけた。どうやら助けてくれたらしい。ほっと一息ついたファリスは頭を傾けて小さく一礼した。


 我が子のそんな所作に、ほんの少しだけヘレナが表情を曇らせたことに、ファリスは気づかない。


「じゃあ、ご飯のあとにしましょう! ね、ファリス?」


「!?」


 シスカとヘレナ、それぞれの顔を交互に見返すファリスに、ヘレナはただ困ったような笑顔を返すのみだった。

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