Day6〜Day10

Day6 どんぐり


 石井くんの言葉で、私は舞い上がってしまった。家に帰ったあと、思いきって前髪を切ったのだ。

 これまで自分で切ったことなどなかった。それなのに、今なら上手くいくと思ってしまった。眉毛の上でまっすぐに揃った前髪は、私をまた憂鬱な気持ちにした。

「いいじゃん、その髪。瀬尾はそっちのほうが似合うよ」

 クラスに入った途端、周りからくすくすと笑われていた私に、石井くんは言った。教室の真ん中で、なんでもないような言い方で。それを聞いていた石井くんの友達も、そっちのほうが明るくていいんじゃない、前は目が見えてなかったし、と言って、石井くんに同意した。

 石井くんが言ってくれたことで、陰で何かを言われることはなかった。それくらい彼はクラスの中心にいた。あの狭い教室の中で、ムードメーカー的存在というのは影響力が大きい。

 そんな彼に、私は憧れていたのだと思う。みんなに好かれていて、いつも誰かがそばにいて、言いたいことを言うことができる。私もそんな人間になりたかった。




Day7 引き潮


 そのときから私は、石井くんのことが気になり始めた。今思うと、あれが私の初恋だったのだと思う。

 気持ちを伝えたいとか付き合いたいとか、そういうことは思わなかった。むしろ、そんな考えが浮かばなかった。それほど私は恋に慣れていなかった。

 中学を卒業して、石井くんとは別々の高校に進学した。それでも使う駅は同じだったから、毎朝のように駅で石井くんを見かけた。

 ずっとずっと好きだった。石井くんに話しかけられたのはあのときだけで、本当に、たったあれだけだったのに。石井くんはずっと私の心の中にいた。高校を卒業しても、大学に行っても、ずっと彼が私の中にいた。

 でももう、この気持ちを終わりにしなくてはいけないのだろう。私は今年、三十五になる。私は大人で、先のことをちゃんと考えなくてはいけない歳になってしまった。

 いつまで引きずってるの?

 何度そう言われたか分からない。自分でもそう思う。もう大人なのだ。きっともう、いつ会えるかも分からない彼のことを考えている場合ではない。




Day8 金木犀


 月が沈んで、反対側の空が明るくなってきた。もうすぐ朝が来る。

 私はこの瞬間が好きだ。ずっとずっと続くような気がしていた暗闇が、少しずつ溶けていく時間。まだ朝が来ないでほしい、もう少しこのままでいたい。そう願ってしまうこの空だけが、私に寄り添ってくれる気がする。

 窓を開けると、金木犀の香りが漂ってきた。近所に植えられているようだけど、どこにあるのかは知らない。香りだけが、いつもここにやって来る。

 まるで石井くんみたいだと思った。私の中には存在しているのに、目には見えなくて、ずっと考えてしまう。

 この香りを嗅ぐと、石井くんを近くに感じるような気がする。彼が私の目を見てくれたあの日も、同じ香りがしていた。

 香りは、記憶を呼び覚ます鍵みたいだと思う。一瞬であの日の私になってしまうから。




Day9 神隠し


 この駅に来たのは何年ぶりだろう。高校を卒業して以来、ここには帰っていなかった。

 高校時代に利用していた駅は、いつの間にか綺麗に改装されていた。古びた階段だった場所にはエスカレーターができ、改札まわりも整備されている。私は改札近くにあるベンチに座って、駅の中をぼんやりと見つめた。

 石井くんが地元に残っていることは知っていた。SNSで本名を検索したらすぐにヒットして、地元で就職したであろう仲間との写真があった。駅前にある飲み屋での写真だった。そこは同窓会でもよく使われた店だ。駅前だし、広い個室があるから勝手が良かったのだろう。私は行ったことがなかったけれど、同窓会に集まった人の写真で何度も見たことがあるから分かった。

 石井くんのアカウントに、この駅の写真もあった。帰りに撮った写真のようで、赤い夕日と駅が映っていた。それを見て確定した。そもそも地元にいるのなら、必ずこの駅は利用するはずだ。車を使っていたら絶望的だけれど、私はほんの少しの望みをかけた。

 私はこれから、石井くんを攫おうと思う。




Day10 水中花


 攫うといっても、別に誘拐するわけではない。二人きりの場所で、会って話がしたいだけだ。

 私一人だけでは、この気持ちを終わらせられない。石井くんに会って、彼自身に終わらせてもらわないといけない。

 自分勝手なことをしているとは思う。でもそれしか方法が見つからなかった。友達とご飯を食べたり、男の人を紹介してもらったり、新しい趣味を探してみたり、これまで色んなことを試してみたけれど、どれもうまくいかなかった。石井くん本人にしか、終わらせられないのだと思う。

 ずっと大切にしていたこの気持ち。私はそれを綺麗なまま切り取って、心の奥に浮かべて閉じ込めていた。そうすれば、腐らずにずっと綺麗なままでしまっておける。

 誰かに触れられても壊れない自信があった。でも誰の手垢もつけてほしくなかった。滑らかなガラスの表面には、反射した私の顔が映っていた。その顔はいつも歪んでいた。


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