第25話 十八歳 一線を越えた夜

 それからしばらく時が過ぎ、お兄様がお仕事で一日家を空けていた日。またクラリス様が我が家にやってきた。


 我が物顔で長椅子に腰を下ろし、使用人が淹れた紅茶へ優美に口を付けている。


「あの、お兄様は仕事で留守にしていて……」

「そんなこと、知っております」

 恐る恐る話し掛けると、クラリス様は不機嫌そうにそう答えた。


「じゃあ、なんで……」

「なんでって。なにか用事がなければ来てはいけないんですの? ここはもう私の家も同然ですのに」

「え?」

「あら、ブライアンに聞いていないの? 私と彼、正式に婚約したのよ」


(ついに、正式に……)


 なにも聞いていない。驚きを隠せなかったわたしの表情を見て、クラリス様は口元に笑みを浮かべる。


「そうそう、前にも言いましたけど、正式に結婚が決まったんですから、貴女には、ここを出て行ってもらわないと」


 お兄様の秘書としてこれからも一緒にいられたらと思っていたけれど、クラリス様はそれを許さないだろう。


「まあ、貴女が嫌がっても、早々に出て行くことになると思いますけど。ふふっ」

「…………」

(クラリス様さえいなければ、これからもお兄様と一緒にいられるのに)


 わたしは、わたしから唯一の居場所を、お兄様を奪おうとする彼女を憎いと思う醜い感情に戸惑った。


 なんて事を考えているんだろう、わたし……この家からいなくなれば丸く収まるのはわたしのほうなのに……






 それから二日後の夜、いつものようにホットミルクを淹れわたしのお部屋に会いに来てくれたお兄様は、次の休日、久しぶりに二人で出掛けようかと提案してくれた。


 婚約が決まった話などないかのようにいつも通りなお兄様の態度に、ドロドロとした感情が湧きあがってくる。


(お兄様はなにも悪くないのに……責めるのはお門違いだわ……)


 わたしは、不満の募った思いを抑えつつお兄様に数日ずっと考えていた事をお願いすることにした。


「ねえ、お兄様。お願いがあるの」

「なんだい? フローラの可愛いお願い事なら、なんでも聞くよ」


「わたしの嫁ぎ先を探してください」


「……なにを言っているの?」

 お兄様は一瞬顔を強張らせた後、静かにゆっくりとわたしの腕を掴んだ。

 指先が二の腕に食い込むぐらい強く掴まれ、少し痛い。


「わたしもそろそろ、家庭を持ちたいなと思って」

「家庭を持ちたい? 家族なら、オレがいるじゃないか。なんで突然、そんなこと」

 お兄様は珍しく動揺で声が震えているようだった。


「……お兄様とはずっと一緒にいられないから」

「なぜ、そんなことを言うんだ」

「だって、お兄様は、クラリス様と結婚するんでしょう?」


 クラリス様から正式な婚約が決まったことを聞かされたと告げると、お兄様は渋い顔をしながらもそれは事実だと頷く。


「でも、フローラはなにも心配しなくていいんだよ。今までと変わらない生活を」

「……いいえ、二人の生活の邪魔にならないよう、わたしはこの家を出て行くわ」

 働いて自立する道も考えてみたけれど、この国で女性の働き口を探すのは大変なこと。そのうえ令嬢として生まれ育ちなんの才能もないわたしにはきっと難しい。


 結婚という道も社交界に出れば冷たい視線を浴びるわたしには厳しいかもしれない。けれど、相手を貴族に限らなければ爵位のある家の娘を娶りたいという男性もいるはずだ。


「……めだ」

「え?」

「ダメだ、許さない」

「っ!?」

 次の瞬間にわたしはベッドに押し倒されていた。


「いつもいつも……フローラは目を離すとよそ見ばかりして、悪い子だね……オレの事を見ようともしてくれない。それどころか、オレにキミの結婚相手を探せだなんて……ひどい仕打ちだ」

「お兄、様?」


「フローラとは、ずっとずっと家族でいたかったよ。兄妹として、誰にも邪魔されることなく……この生活を続けられるならって……」

 仄暗い瞳に魅せられてお兄様から目が離せない。


「けど、お嫁にやるぐらいなら、この手でキミをめちゃくちゃにして、どこにも行けなくしてしまいたい。ずっと、ずっと、オレの中では、そんな二つの感情がせめぎ合っていたんだ」

 そう言って、お兄様はわたしの唇を塞いだ。


「離さないよ……フローラ、愛してる」


 その口付けも言葉も、妹に贈るモノとはとても思えなくて……その時わたしは初めて、本当の意味でお兄様に愛されていた事を知った。




「んっ……お兄様っ……」

 顔を逸らし押し離すと、お兄様はキスをやめ、黙ったままわたしを見つめる。その瞳は、なにを考えているのか分からない。

 深く冷たい海底のような色をしている。


「……お兄様、わたしのこと妹としてじゃなくて?」

 お兄様は言葉に出すことなく、ただ静かに頷いて答えた。

 わたしは、もちろん驚いたし混乱した。ずっと家族として思っていた兄に、異性として見られていたなんて……。


 けれど、不快な気持ちにはならなかった。

 兄としてしか彼を見ていなかったわたしは、きっと今まで無神経な言動で沢山彼を傷つけてきたはずなのに、彼はずっとこんなわたしの傍にいてくれていたんだ。


 そう思うと微かに胸の奥底に、温かな感情が宿った。


「でも……お兄様の気持ちは嬉しいけれど、わたしたち兄妹よ」

「フローラは、オレの事、これからも兄としてしか見てくれないの?」

 熱っぽい瞳で見つめられると、嫌でもお兄様のことを意識してしまう。


 でも、それはイケナイことなんじゃないだろうか。


「わたしの気持ちがどうであっても、わたしたちが結ばれることは許されないわ」

「なぜ?」


 お兄様は、まるでわたしたちの間にはなんの障害もないように首を傾げる。

 でもわたしたちは兄妹で、お兄様にはクラリス様という婚約者がいて……


「フローラ……キミは、オレの愛を受け入れてはくれないの?」


 焦らす様に首筋を指先でなぞられゾクゾクとした感覚が広がる。


「ダメよ、だってわたしたち……」


 兄妹でしょう? 血の繋がりなんてなくたって、ずっと一緒に育ってきた家族なのに……


「っ」


 今度は直接、お兄様の唇が首筋に触れる。熱い吐息がわたしの理性をぐちゃぐちゃにしてゆく。


「嫌なら、拒んでいいよ」


 嫌とは違う。けど怖い。今まで大事にしていたなにかが壊れる気がして。でも。


「キミに拒まれたなら、キミがこの家を出てくと言うなら、オレはこの世から姿を消そう。フローラがいない毎日なんて、生きている意味がないから」

「え……」

 その言葉を聞いた瞬間、わたしは恐怖で顔を引き攣らせた。


 この思い出が沢山詰まった広い屋敷で、ついに独りぼっちになってしまった自分の姿が脳裏に浮かんで。


「イヤよっ、そんなのイヤ!!」


 大事な人は皆わたしの前からいなくなる。お兄様まで、いなくなったらわたし……。


「お兄様、わたしを置いていなくならないでっ、どこにも行っちゃイヤ」

 わたしは取り乱しお兄様に縋る。

 彼を受け入れる事への戸惑いより、失う事への恐怖の方が大きくて。


「フローラ」

 わたしの言葉を聞いたお兄様は、うっとりするように目を細め笑み浮かべる。

 それは見惚れる程に魅惑的な笑みだった。


「もう、他の男と結婚したいなんて言わない?」

「……ええ」

「オレのモノに、なってくれるの?」

「ええ」


 わたしが頷くとお兄様は深くわたしに口付ける。

 もうわたしには、それを拒む理由なんてどこにもなかった。


「愛してる、フローラ。やっと、やっとオレだけのモノだ」

 優しく服を脱がされ、いつもわたしの頭を撫でてくれた大きな手に肌をなぞられ身体が震える。


 優しくしてほしいとお願いしたら、お兄様は頷いてわたしを安心させるよう頬にキスをくれた。


「フローラの初めては全部オレのモノ」

 お兄様は幸せそうにそう呟いたけれど、その時思い浮かんだのは、アルガスとした最初で最後のキスだった。


「……今、なにを考えていたの?」

「えっ……」

「もしかして、初めてじゃない?」

 まるでなにかを察したようにすっとお兄様の瞳に冷たい感情が宿る。

「そ、そんなことっ……お兄様が初めてよ」


「よかった……もし、フローラの初めての相手が他にいたら」

「いたら?」

「……その男を八つ裂きにしてしまうところだった」

「ッ――」


 なんの抵抗もなくそう言うお兄様はゾッとするほど綺麗な笑みを浮かべていた。


 冗談よね。まさかね。そんなこと……


 ある日突然手紙の返信をくれなくなったアルガスの姿が脳裏に浮かぶ。


「また上の空? なにを考えているの、フローラ」

「……お兄様の事しか考えられないわ」

「この状態でお兄様はやめて。名前で呼んでよ」


「……ブライアン」

「愛しているよ、フローラ」


 もう、なにもかもどうでもいいかもしれない。お兄様さえいてくれるなら。


 わたしは、イケナイことだと思いながらも、お兄様を繋ぎ止めたくて、少しの違和感から目を逸らし圧し掛かる彼の重みと愛を受け入れたのだった――

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