彼岸花の蠱惑 3
翌日。ひととおりの講義を終え、僕は頼子さんに連絡を入れた。夕方の五時前である。この時刻くらいからであれば、まず間違いなく、天蚕糸先輩はいるだろう。そう思っての判断だ。が、ややあって、頼子さんから返ってきた連絡は、『ちょっと遅くなりそう』だった。ふむ。天蚕糸先輩はだいたい遅くまで研究室にこもっている。が、早く帰るときは七時ごろに帰ることもある。今日はどうか解らないけれど、七時には頼子さんは間に合いそうもないな。そう、文面から判断した。
手持ち無沙汰になったので、僕は天蚕糸先輩にも連絡を入れてみた。頼子さんから口止めをされているし、彼女を今日、連れて行くことは内緒だが、天蚕糸先輩は本日、何時ごろまでいるのかと探りを入れてみる。『お疲れ様です。今日も研究室ですか?』。そのような文面だ。返信は、すぐに、きた。短い文章で、『研究発表が近いから』というようなことが書かれていた。その言い回しは、きっと今日、長く研究室に残っているだろうという予想をさせるに十分な内容だった。遅れてくるのは頼子さんの責任で、そのせいで今日、天蚕糸先輩と引き合わせられなくとも、僕がなじられる覚えはないが、それでも、滞りなくふたりの再会を達成させられそうで、僕は少し、ほっとする。そして改めて好奇心に心をわずかに、躍らせた。
「そうだ」
と、僕は思い出し、どうせ時間ができたのだから、
*
頼子さんと合流できたのは、午後八時を迎えようとしていた時間だった。
「西日場くーん」
背後の、少し遠くからの声に、僕は振り向く。向いて、目を剥いた。
「え? ええ?」
狼狽える僕。それに対して彼女はいたずらっぽく「イヒヒ」と、笑う。
「びっくりした?」
と、彼女は袖の長い甚平を翻して、くるり、一回転して、見せた。サイズのやや大きい、くすんだ赤色の、甚平。こちらもくすんだ、カラフルな色合いの手毬模様。そうだ、それは、昨日彼女が語った話の中で、頼子さんの友人である
「それって……」
「照花ちゃんにもらった甚平。これも懐かしいかなって、着てきちゃった」
イヒヒ。と、頼子さんはもう一度いたずらっぽく、笑った。
そこで僕はふと、思い起こす。
「そういえば照花ちゃ――さん、とは、一緒に住んでるんだっけ? 今日は呼ばなかったの?」
頼子さんが天蚕糸先輩と旧知であるのと同じで、照花さんももしかしたら天蚕糸先輩に会いたいと思っているかもしれない。しかも頼子さんと照花さんは一緒に住んでいるはずだし、だったら、自宅で今日のことを話していてもおかしくなかった。照花さんも天蚕糸先輩に会いたいなら、連れてきてもよかったのに、と、そう思う。
「ああ、照花ちゃんはいまちょうど、友達と旅行行ってていないの。機会があれば今度、連れてくるよ」
あ、それと、照花ちゃんも私のことも、呼び捨てとかちゃんづけでいいよ? と、頼子さんはついでにそう言ってくれた。その点はお言葉に甘えさせていただく。
「じゃあ、まあ、行こうか。頼子」
と、いきなり呼び捨てにしてみて、少し照れくさかった。とはいえ、まだ見ぬ照花ちゃんとは違って、頼子さんをちゃんづけするのは、なんというか、やけに大人びた彼女には似合わない気がしたのだ。しかして、名前を呼び捨てにするのはなんとも、特別な関係のようで、むず痒い。せめて名字を覚えていれば。そう、思った。
本当、頼子さんの名字って、なんだっけ?
「うん。案内よろしくね。レンくん」
僕がなにを許容する前に、彼女は僕の名を呼び、距離感近く隣に寄って、歩き出すのだった。
*
午後八時をやや過ぎたころに、目的地には到着した。僕の通う大学。そして、天蚕糸先輩と僕の所属している研究室。それがある、一棟の建物。鉄筋コンクリート造りの、頑丈な、建物だ。
「ここの四階。……あちゃー、もうこんな時間か。いるかな、天蚕糸先輩」
たぶん、いるとは思う。しかし、確実とは言い切れない。そんな感じだ。少なくとも天蚕糸先輩以外の研究室メンバーはまず誰もいないだろう。天蚕糸先輩は真面目で熱心だからよくいるけれど、基本的に我が研究室はみんな、やる気がないのだ。僕も含めて。
「え〜、いないと困るな〜」
言葉よりかはよほど緊張感なく、頼子さんは言った。
「まあ、行ってみようか。準備はいい? 頼子」
「え? うん。全然大丈夫だけど?」
なにを聞いてるんだ、こいつは。という感じで見られたし、言われた。だからなんとなく、感情に齟齬がある。僕はきっと、頼子さんは緊張しているものと思っていた。昔、仲が良かった異性に、大人になって再会するのだ。それに、昨日聞いた話の中では、頼子さんは少しは、天蚕糸先輩に好意があったような感じだったし。そりゃ緊張もするものだろうと思ったのだけれど。普通なら。
なにかが腑に落ちないままに、一歩先を頼子さんが踏み出すから、僕も慌てて、その隣に並び、進む。エレベーターもあるのだけれど、ことのほか狭い。あの空間に頼子さんとふたりきりになるのがどうにもむず痒い気がしたので、階段で四階を目指す。その点に、特段の不満は出なかった。むしろ頼子さんは上機嫌である。階段だからできないけれど、スキップでもしそうな勢いだ。それほど嬉しいのだろうか?
四階に上がり、そこからはせっかくなので、足音もたてずに、進んだ。頼子さんが天蚕糸先輩を驚かせたいと言っていたから。ほとんどの生徒も教員も帰っているのだろう。ところどころ消灯して、薄暗い廊下を、僕は行く先を指差して、彼女を誘った。そうして到着する。民族史研究室の、その部屋に。見るに、どうやら明りはついている。この時間に居残っているのならば、もう間違いなく、天蚕糸先輩だろう。僕は安堵して、頼子さんに、親指を立てた握りこぶしを向けて微笑んでおいた。
こうして頼子さんと、天蚕糸先輩との、九年ぶりの再会が、成立したのである。
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