時宿り 3


 そうこう勉強していたら、お兄ちゃんがきた。とりたてておかしな話ではない。お兄ちゃんはあのころでも、あの学校のような場所で、先生役のようなことをしていたし、あそこで鉢合わせるくらいはよくあることであった。しかし、その日はなんだか慌てた様子で。

「頼子!」

 と、私たちのいる部屋に入る前から私の名を呼び、急いでいる様子でやってきたのだ。

「……照花、帰っとったんか。……定子ちゃんも」

 私たち三人を見て、安堵したように息を整える。あのまったりしたお兄ちゃんがあそこまで余裕のなさそうな顔をしていたのも、もしかしたら初めてのことだったかもしれない。

「どうかしたの? お兄ちゃん」

 私は聞いた。当時に関して言えば、そんなお兄ちゃんの慌てた様子にもあまり頓着なく、単純に疑問だけを抱えて問うていたと思う。

「頼子。……ちょっと、問題あってな。今日はもうお開きにして、帰るで」

 私はとにかく、勉強が中断されることにまず、喜んだ。そこで勉強しなくてもどうせあとでしなきゃいけないのに、だ。とにかく目先の楽しか見えていなかった。

「問題って?」

 勉強を終えられる大義名分を得たからこそ、解放感から口が軽くなっている。はい、勉強はおしまい。ここからはお話タイムだ、みたいな。

「子どもには関係ない。照花も、とりあえずうちにおればええ。やから、帰ってからまたふたりで勉強すればええわ」

 ……どうやらまだ勉強はしなきゃいけないらしい。私は絶望から口が重くなる。

「定子ちゃんは……すぐお母さんが迎え来ると思うから――」

「もう来ている」

 お兄ちゃんが言いかけたのと、タイミングを同じくして、定子ちゃんのお母さんが現れた。なんだろう、過保護なお兄ちゃんが私を迎えに来るのはよくあることだけれど、ただの友達同士の集まりに、定子ちゃんのお母さんが迎えに来るのは、もしかしたら初めてのことだったかもしれない。だからそれでようやく、私はことの重大さをなんとなく、理解した。

嗣子つぐこさん――」

 おそらく定子ちゃんのお母さんのものであろう名を、お兄ちゃんが呼んだ瞬間、キッと、定子ちゃんのお母さんはお兄ちゃんを睨み、制止した。その一件には触れぬまま「定子、帰りますよ」と言った。定子ちゃんは唯々諾々と、帰り支度を始める。

「……ふたりも、準備せえ」

 お兄ちゃんはなにか思うところがありそうな様子で、静かに、私たちに指示したのだった。


        *


 またまた、私の家である。この一連の物語に関しては、照花ちゃんが私のうちに来ている頻度がやけに高いけれど、特段、普段からそこまで多かったわけではない。たまたまいろんなイベントが起きたときは照花ちゃんがうちに来ることが多かった。あるいは、照花ちゃんが来るようなときだから、事件が起きていたのかも。照花ちゃんは疫病神的な存在に、まあ、見えなくもないし。

 ともあれ、帰宅だ。帰宅してみると、おばあちゃんも、私の両親もいなかった。これは、珍しいことだ。おばあちゃんは足腰にだいぶガタがきていたし、ノイギィの祭祀関係くらいでしか、基本的に家を出ない。たまに少し散歩くらいはしていたが。そして、両親。父親は頻繁に外へ出ていたけれど、母親が家にいないことは珍しかった。それでもおばあちゃんほど外に出ないわけではなかったけれど。しかし、とはいえ、私も十八年、あの家で過ごしたのだ。おばあちゃんも、両親も、どこかへ出かけるにしろ、その時間帯などはなんとなく把握していたものである。そしてあの日のあの時間帯は、おばあちゃんが散歩に出かけるにも、両親が外へ出るにも、どうにもあまり、前例のない時間帯だった。そこで、やはり、おかしいと感じたのだ。

「ああ……腹減ったなあ」

 うちに着くなり、お兄ちゃんは緊張が解れたように、そう、間伸びした声で言った。

「頼子、メシ作ってくれるか?」

「え、私が? ……いいの?」

 不思議な疑問かと思うかもしれない。しかし、私はあまり、食事を作らせてもらえなかったのだ。理由は、独特な味付けだから。決して食べられないということはないのだけれど、どうにもお兄ちゃん以外の家族からは不評だった。逆に言えばお兄ちゃんだけは「うまい、うまい」って食べてくれるのだけれど。そのときに限っては料理を作ること自体よりも、勉強しなくて「いいの?」と、私は聞いていたのだった。

「ええ、ええ。ばあちゃんも母さんもおらんから、頼子が作った。文句は出んやろ」

 そう言って丸投げし、お兄ちゃんはどうやら、自室へ向かって歩いていった。ちらり、と、一瞥だけこちらを見て。

「……おにーさん、勉強教えてよ」

 その背に、私の隣で、まだ玄関に立っていた照花ちゃんは声をかけた。それに対し、お兄ちゃんは「ええよ〜」と、振り返りもせず軽い返事を返す。自室へ向かうらしい足も止めずに。それを、少しだけ慌てて、照花ちゃんは追って行った。私は取り残される。

「……なに作ろうかな」

 ひとりぼやいて、私は靴を脱いだ。ともあれ、献立は、食材を確認してからだ。


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