第20話 信じられる

 今日も至福のランチタイムがやってきた。


 屋上で瀬能さんとお昼を食べながら、前座として(前座の使い方があってるかはわかんないけど)きゅうりってほぼ水分らしいっていう他愛もない話をした後、本題を口にする。


 緊張はしたけど、思っていたほどではなかった。


 全身がちがちって感じじゃなく、ちょっと肩が張っているかな、くらい。


「瀬能さん。お父さんと会ってみるつもりはない?」

「――――え?」


 彼女は、玉子焼きをお箸でつまんだまま固まった。


 いきなりすぎただろうかと反省するが、もう口にしてしまった手前、ここから突き進むしかない。


「実は昨日、俺、瀬能さんのお父さんと会ったんだ」

「え? どういうこと? だって私たち一緒に帰ってて」

「瀬能さんと別れた後だよ」

「……そう、なんだ」


 目を伏せつつ、玉子焼きを弁当箱に戻す瀬能さん。


 自分で自分を抱くように、震えている左腕の肘のあたりを、箸を持ったままの右腕でにぎる。


 もちろん右腕も小刻みに震えており、箸からかちかちと音をたてていた。


「……で、お父さんと、なにを、話したの?」


 暗い声に少しだけ面食らうが、昨日の森本さんの去っていく姿を思い返すことで自分を鼓舞する。


 これは、きちんと伝えなければいけないことだから。


「うん。瀬能さんのお父さん、俺にこう言ったんだ。養育費は毎月きちんと払ってるって。二股もしていないって」

「……そんなのうそよ」

「本当だって」

「そんなのありえない!」


 口元を歪めた瀬能さんが声を荒らげた。


 その拍子に箸が落ちて、カラカラとコンクリートの上を転がっていく。


「だってお母さんが言ってた! 養育費なんか貰ってないって! だから私だってバイトする羽目に」

「それは俺も知ってる。養育費を払ってるって言葉も、もしかしたら俺を取り込むためのうそかもしれない」


 瀬能さんは苦しそうに胸元を手で押さえている。


 だけど、このままではいけないと思うから、俺は話すのをやめない。


「でも、だからこそ俺は瀬能さん自身に決めてほしいんだ。そのために俺の話を聞いてほしいんだ」


 俺が思っていることを、ストレートな言葉で瀬能さんに伝える。


「…………うん。わかった」


 瀬能さんはしばらく黙っていたが、やがて小さく顎を引いてくれた。


 彼女の震えている体を抱きしめてあげられれば、もっと不安を取り除けるかもしれないけど。


 きっとそんな大胆なことは、瀬能さんが男性恐怖症じゃなかったとしてもできないだろうけど。


 だからこそ、誠意のこもった言葉で瀬能さんの不安に寄り添い、勇気を分け与えなければいけない。


 瀬能さんのためにしてあげられないことがあるのは悔しいが、せめてできることは精一杯やろう。


「ありがとう。苦しいかもしれないけど、瀬能さんには両目線をきちんと知ってほしいから」


 俺はできるだけ丁寧に、正確に、昨日森本さんから聞いた話をそのまま話した。


「森本さんはたしかにそう言ってた。もしかしたらこの話も全部でっち上げかもしれないけど」

「辻星くんは……」


 瀬能さんがゆっくりと顔を上げて、虚ろな瞳で俺を見る。


「もしかしたら……って言うってことは、私のお父さんの話を信じてるってこと?」


 俺は息を呑んだ。


 この答えを間違えば、俺と瀬能さんの関係は再構築不可能なレベルで瓦解する。


 それくらい、この問題は深刻で複雑なのだ。


「俺は……」


 その確信があるからこそ、俺はより丁寧に言葉を考え、選び、誤解が生まれないよう慎重に伝える。


「俺がどっちを信じているかは、正直な話、俺自身もよくわかってない。ただ、森本さんの感情が本物に見えたのは間違いない。もちろん瀬能さんの感情だって本物だと思ってる。だからきっと今は、どちらも正しいことを言ってるんだと思う」

「言ってることがよくわからない」

「口下手でごめん。要するに、俺が言いたいのは、二人が会うことで、掛け違えたボタンが元に戻るんじゃないかってこと。新たな真実が見えるんじゃないかってこと」

「それはつまり……互いが勘違いし合ってるって言いたいの?」

「そういうこと。勇気を出して、お父さんと一度、直接会って話をしてほしい。もちろん俺もその場に同席する」

「私が、お父さんと会う……」

「瀬能さんのお母さんを悪く言うわけではないけど、瀬能さんのお母さんも、そりゃあ過去を語るときは自分主観で、自分の都合のいいように語るはずなんだ。だからこそ二人の娘である瀬能さんには、二人ともから話を聞くべきだと思う。聞いた上で、今後どう振舞っていくのかを決める権利があると、そう思う」


 もう少しうまい言葉があったかもしれないが、いまの俺の考えをなんとか伝えられたと思った。


 瀬能さんは黙ったまま、目を閉じたまま、動かない。


 時間が経つにつれ、俺の体はどんどん硬直していく。


「……辻星くんはすごいね」


 やがて、瀬能さんは前屈みになって腕を伸ばし、落ちて転がっていた箸を拾いながら、そっと言葉をこぼした。


 瀬能さんがしゃべってくれたことで全身が脱力する。


 いつの間にか息も止めてしまっていたようで、新鮮な空気を取り込めて肺が喜んでいるのがわかった。


「私もね、実は親のこと、よくわからなくなってきちゃってるんだ」


 瀬能さんは、ぎこちない笑みを浮かべている。


 とってつけたように語尾だけ明るくしても、戸惑いは誤魔化し切れない。


「わからなく、って?」

「お母さんのこと。昨日、辻星くんと別れた後、私にもいろいろあって」

「それ、詳しく教えてくれる?」


 瀬能さんは下唇を噛みながら、ゆっくりと頷いた。


「実は、あれだけ男を嫌悪してたお母さんが男と二人で会ってて。その人は高校の同級生らしいんだけど、たまたま再会したらしくて、しかもおつき合いをしてて……後は…………」

「後、は?」

「えっと、私とその……その、相手の男の人が…………そう! 前にどこかで見たことあるなぁって思って!」


 いきなり声のトーンを上げた瀬能さん。


 え? なに?


「見たこと、ある?」

「そうなの! どこかで見たっぽいんだけど、見覚えもないような気がして。でもやっぱりありそうで」


 瀬能さんは矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。


 彼女自身も、お母さんのことで混乱していて、自分がなにを話しているのかよくわかっていないのかもしれない。


 男性恐怖症である瀬能さんにとって、味方のはずの母親に彼氏がいるという事実は、それほどまでに衝撃的なものだったのだろう。


「だから私、いまどうしていいかわからなくて、私がどうしたいのかわからなくて」

「だったら余計にお父さんに会うべきだよ。悩んでるなら、実際に会って自分の目でたしかめる。それが信じる基本だよ」


 瀬能さんの手を握って安心させたかったが、それを我慢して前のめりになるだけにとどめる。


「信じる、基本……」


 目を閉じて、その長い睫毛をプルプルと震わせる瀬能さん。


「そっか。そうだよね」


 そう言いながらゆっくりと目を開けた後の彼女の瞳は、真実を知りたいと願う力強さにあふれていた。


「直接話したから、私は、辻星くんを信じられた」


 彼女の迷いのない綺麗な瞳が、俺に向けられる。にこりと目が弓形になった。彼女の艶やかな手は、いつの間にかぎゅっと握りしめられていた。


「私、お父さんと話してみることにするよ」

「本当に?」

「うん。もしかしたら私は、お母さんの話の中のお父さんを嫌ってるだけなのかもしれない。辻星くんの話の中のお父さんの方が、私の知ってるころのお父さんに似てる気がするの」

「よし。じゃあさっそく電話するね」

「え? 電話?」

「そう。森本さんに」

「電話番号知ってるの?」

「困ったことがあったらなんでも協力するからって、昨日連絡先をもらったんだ」


 昨日もらった名刺に書かれていた番号に、すぐに電話をかける。


 ツーコール目の途中で、森本さんは電話に出た。


「もしもし、森本ですが」


 よそよそしい声に驚く。


 そっか。


 俺の番号は知らないんだ。


「えっと、もしもし、辻星です。昨日はどうも」

「なんだ、辻星くんか。いったいどうしたんだい?」

「はい。えっとですね」


 小さく咳払いをして、瀬能さんの方をちらりと見る。


 瀬能さんは不安そうに俺のことを見ているが、こくりと頷いてくれたので、俺も頷き返し、電話に集中する。


「あの、瀬能さんが、あなたと会ってもいいって言ってるんですけど」

「本当かい!」


 あまりの声のでかさに、思わずスマホを耳から遠ざけた。


 鼓膜が破れたかと思ったよ。


「あ、ごめん。いきなり大声出して」

「いえ、ちょっとびっくりしましたけど」


 俺は口をぽかんと開けている瀬能さんに笑みを向ける。


 森本さんの喜び勇んだ声は、きっと瀬能さんの耳にも届いただろう。


「本当です。俺も同行することになりますけど」

「ありがとう! 辻星くん!」


 だから声がでかい!


 スマホから唾が飛んできそうだ。


 学習能力皆無かよ。


「俺は別になにもしてませんよ」

「なにを言ってるんだい。君のおかげだよ。……うん。頬をつねってみたけど、たしかに夢じゃないな」


 やること子供かよ! と思ってしまう。


 いい大人のくせして、ほんとにこの人は純粋だな。


「それで日時は? 場所は?」

「ちょっと待ってください」


 そういえば決めていなかった。


 いったん保留にして、瀬能さんに尋ねる。


「場所と時間はどうする?」

「えっと」


 瀬能さんは少し考え。


「日曜日の十一時くらいからで」

「オッケー。場所は?」

「どこでもいいけど、できれば人目があるところの方がいいかも」

「了解」


 瀬能さんの口からその言葉が出てきたということは、まだ父親のことを警戒する気持ちも残っているのだろう。


 だったらそうだなぁ、あの公園がいいか。


 あそこなら日曜は家族連れでにぎわっているし、黙々とランニングをしている人もいる。


 保留を解除すると、森本さんの興奮したような息遣いが聞こえてきた。


「もしもし。すみませんお待たせして」

「大丈夫だよ。で、日時と場所は?」

「今週の日曜の午前十一時に、駅南公園でどうですか?」

「大丈夫だ。まったく問題ない」


 公園内での詳しい待ち合わせ場所はまた連絡することにして、電話を終える。


 スマホをポケットにしまうと、どっと疲れが押し寄せてきた。


「ありがとう。なにからなにまで。私のために」

「気にしないで。俺だって瀬能さんがこのままなのは嫌だから」

「私、日曜日、頑張ってみるね」


 瀬能さんが控えめにガッツポーズをした時、ぐぅーという気の抜けた緊張感のない音が鳴った。


 俺の腹の音だ。


「ごめん。これは……」


 耳がかあぁっと熱くなったが、瀬能さんが腹を抱えて笑い出したので、まあ恥ずかしいけど結果オーライ!


「お弁当、食べよっか。早くしないとお昼休み終わっちゃうね」

「そうしよっか」


 瀬能さんが用意してくれたお弁当が、電話の前よりも、さらにおいしく感じられたのは、心の問題だろうか。

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